―――この戦いが終わったら君に渡すものがあるから!





 上下左右から襲い掛かる触手の間を潜り抜け、ユーノは深く潜った、、、、、。四本の白い触手は互いにぶつかりあい、もつれる。だが、この好機を前にユーノは攻めることをしなかった。何故なら更に六本の触手が彼を追って伸びていたからだ。
 息を吐く暇も無く、両手のそれぞれに円盤状の防御魔法を展開しながら触手をやりすごしに掛かるユーノ。躱し切れなかったものは盾で弾き、どうにか六本を捌ききる。けれどまだ呼気を吐くことは許されない。先ほどの四本が彼にその牙を向けていた。
 途切れぬ猛攻を前にユーノの精神は磨耗していく。生死を分かつ判断をコンマ一秒毎に強要され続ければいかなユーノとて心が疲弊してしまう。疲労が思考に余計な雑音を生み判断の、動作の精度を著しく劣化させていく。
 一本の触手が鞭のようにしなり、横合いから鋭い一撃を浴びせ掛ける。ユーノは辛くも盾により直撃を防ぐが衝撃までは殺し切れず重い感触に唸った。息がごぼりと吐き出される、、、、、、、、、、、、
 限界は呆気無く訪れた。もう空中、、に出なければならない。
 突入、、を一旦諦めると、ユーノは急いで上昇した。息苦しさが胸を圧迫する。彼を逃がすまいと伸びる触手が恐ろしい。もしも触手に絡み取られれば深海、、に引きずり込まれ二度と陽の目を見ることは無いだろう。アイツ、、、に食まれ、その胃に収まり、消化を待つ身になるだけだ。
 その吸盤を並べた白い触手、、、、、、、、、、はそれぞれが獰猛な肉食獣であるかのように、素早く、鋭く、ユーノを追った。そして水面に手が掛かった彼の足に引っ付―――、

「ディバィィィィンバスターァァァァアアアアッ!」

 ―――眩い桜色の光が閃き、ユーノに追い縋った触手を弾き飛ばした。この好機を逃さず空中に飛び出るユーノ。充分な距離まで上昇すると鋭く息を吐き、次いで大きく息を吸った。肩で息をしながら呼吸を整える。
 ユーノは脱出したばかりの水面に目をやった。触手が追いかけてくる気配は、無い。
 深い安堵の溜め息を零すと傍らに立つ少女に向き直り、告げた。

「助かったよ。ありがとう、なの―――あぐぅっ!?」

 最後まで言い切る前にぶん殴られた。
 少女――高町なのは――はご立腹のようである。ユーノを殴った愛杖――レイジングハートを――を構えなおすと頬を膨らませながら捲くし立てる。

「だから危ないって言ったんだよ! ユーノ君、もうちょっとで死んじゃうかもしれないところだったんだよ? やっぱり別の方法を考えようよ!」

 怒りと心配が混ざった彼女の言葉と瞳を受け―――ユーノは首を横に振った。頷くわけにはいかなかった。現実的に考えてそれが最善であったし、彼としても意地がある。
 ユーノは、そこに、己の全て、、、、秤に、、掛けていた。

「ごめんね、なのは。でもこの方法を変えるわけにはいかない。アイツ、、を倒すにはやっぱりこうするしかないよ」

 不満顔から今にも泣き出しそうな顔に転じつつある彼女に自分の思いを告げることは躊躇われたが、引き下がれなかった。
 あるいは彼が男でなけく女であれば、彼女と同性であれば考えを改めたかもしれない。もしくは、彼が彼女を好いていなければ意地をかなぐり捨てられたかもしれない。
 だが、ユーノ・スクライアはれっきとした男であり、高町なのはに恋していた。
 故に、恋する男に退路は無い。

「僕を―――信じて?」

 きっぱりと言い放つと、ユーノは水面からを伸ばしゆらゆらと揺らしている大王イカ、、、、を睨んだ。





     ◇     ◇     ◇     ◇





 第97管理外世界にジュエルシードの反応がある。クロノ・ハラオウンからそう聞かされた時、ユーノ・スクライアと高町なのはは自分の耳を疑った。
 持ち主のあらゆる願望を――正しく、あるいは歪んだ形で――現実のものにする指定遺失物ロストロギアジュエルシードはプレシア・テスタロッサ事件中に消滅したものを除いて全て回収してあり、それらは時空管理局に設置されている指定遺失物専用封印施設に送られたはずだった。
 取りこぼしがあったとは思えない。
 訝しく思いながらクロノの説明を聞いていくと、何者かがジュエルシードを複製した可能性がある、と告げられた。
 これには目を見張った。
 ジュエルシードは危険なロストロギアだ。その発動には魔導師、一般人の区別を付けなかったし、次元世界そのものを脅かす次元震すら引き起こす可能性があるからだ。
 ただ、ジュエルシードは曲がりなりにもロストロギアである。現代の科学力では精製は困難であるし、だからこそのロストロギアだ。その複製を行なった何者かは相当の技術を保有していると見て間違いないだろう。
 しかも、その技術はおそらく犯罪に使われる。
 クロノが言うにはジュエルシードの複製を行なった科学者はフェイトに追わせているそうだ。科学者の名はイニシャルでJSである、と伝えられた。
 そして、ユーノとなのはには第97管理外世界――即ち地球――に反応が見られたジェルシードの回収依頼が出されたのである。二人はこの依頼に一も二も無く頷いた。どちらもジュエルシードが引き起こす災厄の恐ろしさを知っていたからだ。
 反応を頼りに、二人は太平洋上へ向かった。
 見渡す限り一面の海である。ジェルシードは海中に沈んだのだろう、と予想された。だが、ロストロギアすら複製してしまう科学者がそれを無為に捨て去ることがありえるのだろうか―――?
 疑問は最悪の形で解決する。空中から水面を見つめていたなのはとユーノの目に海中の奥深くを光源とした輝きが飛び込んできたのである。それは見覚えのある――ジュエルシードが何がしかの願望を叶えた時に発する――光だった。
 ややあって海面を貫いて十本の白い触手がそそり立った。触手は太く、両腕を広げた大人ほどはあるだろう。その長さは根元が水面の底に沈んでしまっているせいで測れないが、陸上にいたならば都市ビル程度は締め上げてしまえそうだった。
 特徴としては、先端から根元に向かっていくつもの吸盤がついていることが挙げられる。触手に比して巨大な吸盤は鯨ですらも難なく捕獲してしまえそうだった。
 なのはの背筋に冷たい汗が落ちた。
 あらゆる願望を叶えるロストロギア、ジュエルシード。それが叶える願いは人間のもののみと限定されてはいない。動物はおろか植物の願望ですら現実にしてしまうのだ。
 第97世界に落ちたジュエルシードは、とある動物の願いを叶えたようだった。
 それ、即ち、

 ――― もっとおおきくなりたいな! by 大王イカ

 で、ある。
 っざけんなテメー、イカ焼きにして店で売るぞ。と高町なのはが思ったかどうかは定かではないが、巨大大王イカの脅威は現実として眼前に存在している。なのはに巨大生物との戦闘経験が無いわけではなかったが、それにしたって巨大大王イカは大きかった。ついでに、対水中戦闘は流石に未経験だった。
 なのはは知恵を頼ってユーノに戦法を問うた。彼は苦い顔をしながらいくつかの注意事項を述べていったのだった。

 ―――あれだけ大きいと中途半端な魔法は効かない、と思う。ディバインバスターでも足を吹き飛ばせるくらいじゃないかな? 封印するには本体にスターライトブレイカーをぶつけるしか無いだろうけど、それにしたって問題があるよね。

 スターライトブレイカー、という単語になのはは思わず唸り声を上げた。高町なのはの切り札スターライトブレイカーは集束魔法に分類される砲撃魔法の亜種である。
 正しく必殺級の大威力を誇るが、集束魔法であることの弊害かスターライトブレイカーとして指向性を与えられた魔力は異様に早く空気中に拡散してしまうのである。某なのはwikiにもそう書いてある。
 噛み砕いて言えば、スターライトブレイカーは威力は高いが射程が短いのだ。短く言えば高威力短射程である。
 水面から突き出て見えるのは巨大大王イカの十本の触手のみ。本体は厚い太平洋の水に隠れて輪郭を捉えることすらできない。
 よって、

 ―――スターライトブレイカーをアイツにぶつけるためには、なのはが接敵しなきゃいけない。

 これが障害の一つ。
 だが、障害は一つだけではなかった。

 ―――そして、スターライトブレイカーのチャージが終わるまでアイツが逃げられない状況を作らなきゃいけない。

 これが最後にして最大の障害だった。威力に比してスターライトブレイカーは他のどの魔法よりも長い準備時間を要する。少なくとも十秒、相手の硬直が必要だ。
 魔導師同士の戦闘であるならば拘束魔法を用いればスターライトブレイカーのチャージは充分に可能だ。
 だが、巨大大王イカを捕縛できるほどの拘束魔法は高町なのはの手持ちに無い。そして、ユーノもそんな大規模拘束魔法は持っていなかった。
 戦う前から手が詰まってしまった。
 頭を悩ませるなのはとユーノ。ややあって、ユーノがとある作戦を閃いた。
 それはずいぶんと無謀なように思えた。
 曰く、

 ―――僕がアイツを引きずり出すよ。合図を送ったらチャージを開始して。ちょうどいい頃に水面から引っ張り上げるから。

 それはユーノ・スクライア決死の作戦だった。





     ◇     ◇     ◇     ◇





 ユーノに信じて欲しいと言われればなのはは口を噤む他無かった。彼に頑固なところがあることは十二分に知っていたし、彼女とて彼のことを憎からず想っているのだ。
 惚れた弱みと言えば言い過ぎだけれど、でもそのようなものだ。
 結局、なのはは頷いてしまった。
 ユーノのことを信じられない、とは嘘でも何でも言えなかった。

「でも、ユーノ君だけに全部任せるわけにはいかないよ。私だってできることは何でもやりたいよ。だって、私達は一緒に戦ってるんだよ……?」

 なのはは、明かせる限りの胸の内を打ち明けた。その根底には絶対にユーノを失いたくないという想いがあった。
 先ほどのように無謀な突撃を繰り返していては、ごくごく近い未来にユーノの命は失われてしまう。それは許容できない悲劇だった。
 固い決意の光がなのはの瞳に宿り、それは矢となってユーノを貫いた。今度は彼が悩む番だった。
 逡巡は、けれど一瞬で答えを弾き出した。彼とて一人っ切りの力で巨大大王イカを引きずり出せるとは――残念ながら挑戦した結果――不可能だと判断したのだ。

「僕が合図するまで誘導魔法シューターで援護してもらっていいかな? 足の動きを阻害してくれると大分楽になるんだ」
「うん、分かったよ。でもそれだけでいいの?」
「充分過ぎるくらいだよ。それに、合図したらスターライトブレイカーのチャージを始めてもらわないと、たぶん間に合わないと思うんだ。魔法を当てられるチャンスはアイツの本体が水面に出てくる一瞬、だよ」
「ん」
「できる?」

 ユーノの問いに、なのはは悪戯っぽく笑って答えた。

「私を―――信じて」

 是非も無かった。ユーノは表情に余裕を取り戻すと水面に顔を出した触手達を睨みつける。傍らでは、なのはが五個のシューターを用意していた。
 これよりユーノは深海に挑む。迫り来る十本の触手を掻い潜り、奥の奥に隠れた巨大大王イカを引きずり出すのだ。頼りは五つの光球シューターと自身の魔法、そして知恵である。
 息を大きく吸い込んだ。遺跡発掘に携わっていた関係上、潜水には少々自信がある。よほどのことが無ければ――自分の飛行スピードから察するに――巨大大王イカの眼前に出てから空中に引き返してくるまで息は持つはず。
 あとは覚悟を決めればいい。

「待ってるからね」

 なのはの―――大好きな少女の言葉に頷き、

「あ、なのは。僕、この戦いが終わったら君に渡すものがあるから!」

 返事を聞かぬまま、ユーノは戦いの海へ飛び込んだ。
 この時期、12月の海の冷たさは感じない。そう設定したバリアジャケットが外気温の変化から身を守ってくれている。同時に水圧からも守られており、改めて防護服バリアジャケットのありがたみを実感した。
 ユーノが水面に飛び込んだ震動を感知したのか、触手が彼を捕らえようと動き始める。まず、四本の触手が彼を中心とした四方に直立した。これでユーノは触手に取り囲まれたことになる。引くも攻めるも触手が立ちはだかる、というわけだ。
 残る六本がそれぞれ別の生き物のようにくねってユーノを追う。水の抵抗を感じさせない隼のような勢いだ。ユーノは真っ直ぐに巨大大王イカを目指しながら触手の脅威を察していた。背筋に悪寒が走る。
 だが、回避機動を取ろうとはしなかった。
 高町なのはを信じたからである。

「ユーノ君には絶対に指一本―――いや、足一本かな? ともかく、触れさせないんだから!」

 なのはが操る五個のシューターがユーノを追う触手を叩いていく。シューターに消し飛ばす、とか、引き千切る、とか、そういうことができる威力は無い。それでも触手がユーノを捕獲できないように邪魔する役は充分に果たしていた。五個のシューターは的確に触手が嫌がる場所を叩き、数で勝るそれを封じ込めていく。
 おかげで前進に全神経を集中できたユーノは全速力で深海を目指した。視界の端に映る触手の長さに辟易しながら本体の輪郭を捉える瞬間を待ち焦がれる。まだ何も始まっていない。ユーノの戦いは巨大大王イカと睨み合った瞬間に初めて火蓋が切って落とされるのだ。
 海が深みを増し、夜のような漆黒に塗りつぶされていく。
 決戦の時が近づいてくる。
 胸の奥、心臓が収められた場所では耳障りなほど喧しい鼓動が掻き鳴らされている。脳髄の芯が熱く、知らず妙な興奮が高まってきた。自然と握り拳を作った。どくん、心臓が跳ねた。
 うすぼんやりと巨大大王イカの輪郭が見えてきた。
 近づいていくほどの、まずその大きさに圧倒される。肥大化した闇の書の防衛プログラムと比較しても巨大大王イカの方が大きいかもしれない。十本の足の付け根には水を吸い吐いている口が見えた。もしも判断を誤ればあの中に放り込まれてしまうだろう。
 ついにユーノは巨大大王イカの眼前に辿り着いた。二つの大きな目がぎろりと彼を睨みつける。負けじと睨み返した。

 ―――勝負はここからだ。

 左手から魔力で編んだ鎖を伸ばすと巨大大王イカの胴体に巻きつける。右手を使わなかった理由は、利き手をこれから海面を目指して駆け上がる厳しい戦いのために空けておきたかったからである。巨大大王イカはその見た目以上に重く引き上げは困難に思われたが――ベルカの技術である――魔力を身体に通わせて身体能力を強化することで、可能とした。
 ユーノは一息吐きかけるが、その前に気を引き締め直した。貴重な空気を吐き出すことは避けたかったし、これは終わりではなく始まりだったからだ。
 顔を上げても厚い水に覆われた先、なのはが待つ空は見えない。空へ、彼女の下への回帰は半ば絶望的であるように感じられた。今はユーノを狙う触手をなのはがシューターで抑えてくれているが帰りにはそれが無くなってしまう。巨大大王イカを水面に引き上げようとするユーノに抗うように、触手は彼を襲いかかるだろう。それも六本ではなく十本が、だ。
 巨大で強力な吸盤に張り付かれれば脱出する術は無いだろう。死、あるのみだ。
 ユーノは、静かに瞼を閉じた。
 なのはの陽だまりのような笑顔が浮かんだ。
 覚悟が、決まった。

『なのは。これからコイツを水面に引き上げるからスターライトブレイカーの準備に入って』
『う、うん。…………シューター、本当に消しちゃっていいんだね?』
『うん、いいよ。大丈夫、僕を信じて』
『……うん』

 念話を切るといよいよ最終決戦が始まる。ユーノを守っていた五個のシューターが消え巨大大王イカは十本の触手その全ての自由を得た。ぎょろりと動いた瞳に灯った闘志を、ユーノは見逃さなかった。
 ユーノは飛ぶ。遥か彼方、天空を目指して。
 巨大大王イカは抗う。自らの生存本能に従って。
 互いに相容れないものがあるからこそ、彼らは戦う。

 ―――ユーノはポケットにしまったプレゼントをバリアジャケット越しに触ると、不敵に笑った。

 三本の触手がユーノに襲い掛かる。上方から叩きつけるように振るわれたそれらを難無く潜り抜けるとユーノは一気に加速した。一々触手の相手をしている余裕なんて無かった。右手には円盤状の防御魔法を展開して急襲に備える。今やユーノの生命線はこの薄盾一枚のみと言えた。
 水は、重い。バリアジャケットによって水圧から守られてはいるが、それでも深雪を掻き分けて進む以上の疲労がやってくる。恐るべきは深海の水圧であった。
 躱したばかりの三本、そして残る七本の気配を探りながらユーノは水中を翔け上がった。覚悟していたほど激しい猛攻はやってこない。十本全てがユーノに襲い掛かることはなく、それぞれが散発的に襲撃してくるだけだった。全ての足を用いた巧みな連携を恐れていたユーノは巨大大王イカの知能指数の低さに安堵する。
 だが、その安堵は愚か者が下した結論だった。
 ずんっ、と。巨大大王イカを引き上げていた左腕に掛かる負荷が急激に上昇した。何事かと視線を向ければ十本の触手の内の八本までもが再び深海に潜るべく律動を行なっていた。巨大大王イカが深海に向かう推力がイカを引き上げようとしているユーノに負荷となって襲い掛かっているのである。スピードが殺された。
 思うように前進できなくなったユーノに、残る二本の猛攻が始まった。絶対的に前進するしかないユーノは大きな回避機動を取れず、片腕一本で二本の触手を捌かなければならない。別々に相手をすればまだやりようはあったが、同時に襲われてはたまったものではない。身を捩って無理に躱が、そんな破れかぶれが何度も通用してくれるとは思えない。
 二本の触手を同時にやりすごすと、ユーノは賭けに出た。右手に展開していた盾を消し、代わり右手からも魔力の鎖を放つと巨大大王イカが推進力を得るために使っている足の半数を縛り上げたのである。守りの右手を捨て攻めに出たのだ。
 思うように進めなくなったイカが、たじろぐ。ユーノはその間隙を縫うようにして加速を掛けた。海水を掻き分ける頭や肩に水圧が掛かり、鈍い痛みが走った。急がなければならない、自由な六本の触手に襲われる前に。

『ユーノ君! あと、五秒くらいでチャージが完了するよ。そのあとは……たぶん、七秒くらいならブレイカーを保持しておけると思う』
『それで充分だよなのは!』

 口では何とも言えるな、と思いながら。その口八丁を現実のものにするためユーノは飛んだ。危機の中で聞こえたなのはの――その唇が紡いだ内容に関わらず――声が彼を元気付けていた。
 水面の光が僅かに見えたこともまた、ユーノの心に活力を与えた。
 最速で五秒、最遅で十二秒以内に巨大大王イカを空中に引きずり出してみせる……!
 決意を新たにユーノは翔けた。襲い来る触手をものともせず、飛ぶ。
 だが彼を襲う触手は数秒前以上の脅威となっていた。ユーノの左手は巨大大王イカを引き上げるために、右手は推力を得るために使われていた四本の触手を拘束するために使われている。両手が塞がった状態では防御魔法が行使できない。
 ユーノが水面に出るのが先か、巨大大王イカが彼を捕まえるのが先か。勝負は一瞬の気の緩みも許せない熾烈なものになっていた。
 横合いから突っ込んできた触手に対しては速度を下げて頭上を素通りさせ、逆側から突っ込んできた触手は速度を上げてやりすごす。足元で二本の触手が激突し、絡み合った。もう水面に出るまでの戦いにこの二本は関与できないだろう。
 残る四本の内に一本が下方から凄まじい速度で伸びる。追いつかれれば触手に巻きつかれ深海に逆戻りだ。速度を最大まで引き上げるが巨大大王イカを牽引する身では触手の速度には敵わず、恐ろしい先端がすぐ近くまで這い寄ってきた。水面はまだ遠い。

 ―――危機を前にして場違いな思考が流れた。

 これがもしもフェイトなら、シグナムなら、ヴィータなら、シャマルなら、ザフィーラなら、自分の知る自分以外の魔導師なら、たかが触手の一本程度は難なく打ち払ってみせるだろう。彼らは優秀な戦闘魔導師なのだ。
 なのはにしてもそうだ。彼女も――稀代の天才と噂されるほどの――戦闘魔導師なのだ。日常ではまだしも、戦闘能力をこそ求められる場において彼女の傍に自分の居場所は無い、、、、、、、、、、、、、、
 ぎり、と奥歯を噛み締めた。
 ユーノ・スクライアは証明しなければならない。彼女の背を、引いては彼女を守れることを。彼女が、そして自分がそれを信じられるように。
 ポケットの中のクリスマス・プレゼントを胸を張って渡すためにも、ここを突破するのだ。
 ユーノは自分の武器を、知識と知恵を総動員する。身近な戦闘魔導師達に比べて魔力量や攻撃魔法が圧倒的に劣っているユーノが戦闘をするためには頭脳を駆使しなければならないし、そうすべきだ。
 筆は剣より強し――戦略を競えば剣術より弁舌が勝る――を戦術級で実戦できなければ、ユーノ・スクライアに価値は無い。高町なのはの隣に立てない……!

 ―――作戦よりも手段よりも先に、覚悟が決まった。

 にゅるりと巻きつくイカの足。ユーノの細い足首に絡みつくと万力のような力で締め上げる。もう半呼吸分の時が過ぎればユーノは勢い良く深海に引きずり込まれるだろう。迷う時間は、無い。
 ユーノは咄嗟に閃いた策に己の幸運全てを注ぎ込む気概で、賭けた。足を水圧から守ってくれていたバリアジャケットのブーツに起爆指令、、、、を与える。なのはで言うところの緊急回避ジャケットパージだ。
 あわや水中に埋没するかと思われた瞬間、ユーノの足元が閃光のように輝いて、弾けた。彼の足首を捕らえていた触手の先端は堪らず千々になり深海へ消えていった。
 残る触手は三本だ。
 身の安全を得たユーノは敵の触手を半数以下に減らしたことを喜ぶが、犠牲は決して小さく無かった。高町なのはのジャケットパージが、上着を吹き飛ばし、だが衝撃そのものからは彼女の身を包むアンダージャケットによって守られていることに対して、ユーノが吹き飛ばしたブーツの下に足を守る物は無かった。せいぜいがただの布地で織られた靴下であるが、それも爆発の影響で散り散りになっていた。
 巨大大王イカの触手を吹き飛ばしたほどの威力だ。足首の表皮は焼け爛れ海水に触れて芯を裂くような激痛を伝えていた。バリアジャケットが無ければ即座に水圧の餌食になる深海から抜け出していたことは幸いだった。
 断続的に脳髄を焼く激痛を無視して、ユーノは翔ける。水面はもうそこまで遠くない。察するにスターライトブレイカーの輝きであるものを受けてきらきらと桜色に輝く天井が近づいていた。
 水面を抜ければユーノの勝ちである。
 だからこそ、巨大大王イカは残る三本の触手を駆使して彼を襲った。海の覇者である、という誇りと意地を賭けて。矮小な人間に海王の恐ろしさを見せつけるために。

 ―――大王イカとて、背負うものがある。

 小さなイカとして生まれ、天敵に怯えながら成長を待った。やがて小さな魚を食みながら、時に敵から身を隠しながら、長い時を生きた。いつしかイカは大王と呼ばれるほどに成長し、大海原に彼の敵は存在しなくなった。
 大王イカは、その生命の誇りは、背負ったものは、奪った命の総量だ。数多の命を奪ってきたからこそ、大王イカは王者として大海原に君臨し続けなければならないのだ……!
 大王はその逞しい脚を振るい、獲物を――そう、獲物だ――を追う。それぞれが大の大人を打ち倒すに充分な太さを筋力を持った脚を勢いよく叩きつけた。ともすれば動きを鈍重にさせるぶ厚い水の壁を強引にぶち破り、乱水流を生みながら獲物を襲う。三本の脚はそれぞれ別々の方向から獲物を狙った。
 だが、獲物は器用にも、二本までの脚を躱してみせた。脚が巻き起こした水流の乱れをものともせず、ただひたすらに海面を目指して翔ける。これまでアイツほど上手く大王の攻勢をいなした生物がいただろうか。いや、ない。
 ああ、こいつは、獲物ではないのだ。
 大王イカは認めた。
 相対している生物こそが、失って久しい己の天敵になりうると、認めた。

 ―――ならばこれは狩りではない。生存競争だ。

 大王イカは九足のコントロールを破棄すると最後に残った一本を大きく引いた。今にも海面を飛び出そうとしている強敵に狙いを定め、突き出す。白脚は槍のように鋭く、その先端によって高速で海水を掻き分け伸びる。強敵は水面が近づいてきたことによる安堵があったのだろう。また、躱した二本の触手が巻き起こした乱水流は強敵の上昇速度を僅かに鈍らせていた。
 結果として判断が遅れ、行動が遅れ、それは致命的な遅延だった。
 海という青に支配された領域に、黒々とした赤が広がった。
 強敵の身体を、呆気ないほど簡単に貫いていた。





     ◇     ◇     ◇     ◇





 水面の向こうにユーノの姿が見え喜んだのも束の間、彼の表情が苦悶のそれに変わった。遅れて、ごぼりと息が吐き出され、海が赤色に染まった。その赤はすぐに青に溶けて消えるが、赤色の発生場所に目をやると、槍のような脚がユーノを貫いていた。
 なのはの絶叫は言葉にならなかった。
 ともすれば霧散してしまいそうな魔力の奔流を抑え付けることは並大抵の苦労ではない。精神の乱れが魔力の集束を乱し爆弾スターライトブレイカーが弾けかける。レイジングハートが自爆警告を喧しくがなり立てた。けれど呆然となったなのはの耳に必死の警告は届かなかった。
 力が抜け降ろされた腕がポケットの中身、、、、、、、に引っかかったが、別段歯牙に掛けることもなかった。なのはの目には眼下に映る蒼白となったユーノのみがあった。
 声にならない声が後から後から胸を突き上げる。急激な息苦しさを覚え嘔吐のように息を吐き出した。皮肉にもそれによって訪れる現実感の回復がレイジングハートの警告を耳に届かせ、なのはの気を取り直させる。
 霧散し掛けたスターライトブレイカーの魔力を再びより集め一つの形にしていく。
 なのははぎりっと奥歯を噛んだ。ユーノは信じて欲しいと言ったのだ。その彼が信頼を裏切るはずがない!
 だから、自分もユーノに信じてもらった分、彼を信じるのだ!
 なのはは待った。ユーノが呼びかけてくれる瞬間を。溜めに溜めた魔力を解き放つべきその時を。
 今にも駆け寄りたい衝動を必死に抑えながら。
 なのはは、ゆらゆらと揺れる水面を睨んでいた。





     ◇     ◇     ◇     ◇





 ずいぶん情けない結果になったな、と。柄にも無く自嘲した。傷口を確かめる。思ったより広がっていない。巨大大王イカの太い足は、しかしその先端が我が身を貫いただけだ。まだ吸盤にすら触れていない。どてっ腹に空いた穴は急いで治療すれば充分間に合ってくれるだろう。たぶん。
 意識にかかったもやを振り払い、ユーノは顔を上げた。手を伸ばせばそこには水面がある。きらきらと輝く桜色の光が見える。ふっ、と笑った。ゴールはすぐそこにあった。
 疲弊した身体に気合という名を鞭を打つ。目を見張り、最後の力を振り絞った。
 脱力していた腕を踏ん張り、身体を酷使して、巨大大王イカを引き上げる。ユーノの復活を察知した巨大大王イカが彼の胴を貫く触手を暴れさせるが、無理やり魔力を流し込んで抑えた。
 大王イカを拘束していた魔力の鎖が消滅していなかったことは僥倖だった。
 空気を失って苦しむ肺を抑えつけ、歯を食い縛って大王イカを引き上げるべく空へ翔け上がる。
 水の壁を破り、あらゆる抵抗に軋む身体に鞭打って、ユーノは飛んだ。
 ざばん、という音が耳朶を打った。

 ―――蒼穹が広がった。

 ユーノの身体が水面から飛び出たのだ。顔を上げれば泣き出しそうになったなのはと目が合う。
 こくり、頷いた。彼女もまた頷いた。
 ユーノは血が噴き出るのも構わず胴を貫いたイカの足を引き抜いた。大量の出血にくらむが魔力の鎖で自らを縛り応急手当とする。力の入らない身体を動かして、ユーノは更に翔け上がる。巨大大王イカの本体を海面まで引き上げるために。
 力むと傷口が傷み、血が噴き出た。なのはに走る悲痛を見たが、構っていられない。自分に残った力の最後の絞りかすまで振り切って、ユーノは飛んだ。
 空中でなのはとすれ違う。その瞬間、目線を送った。
 全てはそれで充分だった。

「行くよ、レイジングハート!」
《Starlight Breaker ex》

 レイジングハートがマガジン内にある全てのカートリッジを吐き出した。なのはが抱えていた大きな光の玉スターライトブレイカーがより大きくなる。太陽のような眩い輝きが太平洋を照らした。
 なのははレイジングハートを振りかぶり、そして思いっきり光玉に叩きつける。それを合図として光玉は下部から裂け内部に保有していた莫大な魔力を眼下に―――ユーノが縛った巨大大王イカ――に向けて吐き出した。
 大王イカは逃げようともがくが、ユーノの鎖に縛られていてそれは叶わなかった。激しい光の奔流に飲み込まれ、無いはずの声帯器官を振り絞って絶叫を上げた。
 十足を振り乱して暴れる大王イカからジュエルシードが吐き出される。なのはが災厄の根源を封印すると巨大大王イカはするすると縮んでいき、全長10m前後のただの大王イカに戻った。

「ユーノ君!」

 大王イカが海中に逃げていくさまを尻目に、なのはは―――ユーノに抱きついた。顔面蒼白で今にも死にそうなユーノに声を掛けると反応があった。まだ意識は失っていない。
 なのはは急いでアースラへの回線を繋げた。通信はすぐに繋がり、二言三言のやり取りの後、二人は急いでアースラへ転送される。
 転送魔法の魔法陣が二人を囲った。

「あの、さ。……ちょっと聞いてもらっていいかな?」
「喋っちゃダメだよユーノ君!? 酷い怪我なんだから安静にしてないと……!」
「でも、たぶんもうすぐ気絶しちゃうから。そしたら渡せないだろうから、今、渡したいんだ。渡すものがあるって言ったでしょう?」

 ユーノはポケットをまさぐるとリボンが巻かれた包み紙プレゼントを取り出した。水中にいても濡れた様子が無いのは、バリアジャケットがそういう構造になっていたからだろう。
 なのはに手渡すと、ユーノは力なく微笑んだ。

「メリークリスマス、なのは」
「……もう。メリークリスマス、ユーノ君」

 ほとほと呆れ返ったなのはもポケットの中身を取り出し、ユーノのポケットにそっと入れる。
 そうこうしている内に転送魔法が発動し、二人は軌道上に待機していたアースラの中へ消えていった。



 ―――なお。互いが互いに贈ったクリスマスプレゼントは、そのどちらもが緑色のリボンだったとか。





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