音が聞こえない。
いや、聞こえているのだろうか?
それすらも分からないほどに、彼――ユーノ・スクライア――の頭の中は、一つのことでいっぱいになっていた。

頭の中に響いている事は、たった一つ。
高町なのはが――堕ちた。
彼の中で、尤も大切だ、と言える少女が、堕ちた。
それを聞いて、気づけばただ必死になって走り出していた。
確認したいのだろうか?
それとも、否定したいのだろうか。

堕ちたけれども、大したことではない、と思いたいのか。
重傷、軽傷――それとも、死?
頭の中に渦巻く何かは血を流す何かを指定してくる。

通信が入ったのは、ユーノが昼休みに業務の事を考えながらオムライスを突っついている時だった。
少しずつだが、無限書庫の稼動も波に乗ってきていて。
この調子で全て万事事もなく続いて行ってくれるのだろう、とのんびり思っていた。
なんと言う浅慮。
いや、浅慮と言う無かれ、それは、希望だったのだろう。
若くしてその才能を確かにしていた、高町なのは、フェイト・テスタロッサ・ハラオウン、八神はやて。
更には、その使い魔、騎士達。
過信、と言う事は出来ない、とユーノは頭の中で思う。
全員揃っていれば、それこそ不測の事態など、そうそう起こらない。
だが、全員揃う事など、そうそうあるものか。

「何を、考えていたんだ、僕は…」

前線組み、バックアップ。
たった二つに分けて考えていたからこそ、どこかで夢想を感じていたのだろうか。
ユーノは自問自答しながらも、その足をただただ前へと進めていく。
いつのまにか、目的地はすぐそこだった。
角を曲がれば――知った顔が、揃っていた。

「ユーノ…」

聞こえた声は、フェイトのものだろうか。
煩い、聞こえない、少し黙れ。
自分自身の荒い息にそう思考しながら、ユーノは天井を仰ぎ見ながら比較的冷静そうな顔を捜す。
ほぼ、全員がどこか顔に影を落としている。
当然だ。
高町なのはと言う少女は、仲間内、皆に慕われている。
そんな、人柄の女の子だったのだから。

「クロノ…」
「まだだ。」

徹底して、余計な言葉を廃した言葉だった。
それは、状態がわからない、と言う事だろうか?

「手術が始まって、およそ二時間、その程度では、まだだろう。」

二時間、と言う言葉を聞いて、ユーノはグッと唇を噛み締めた。
誤解でも、何でもない、本当になのはは――

「堕ちた、んだ。」
「――ああ。」

必死でひねり出したユーノの言葉を、クロノはあっさりと肯定した。
あっさりと?
否、違う、クロノの表情こそいつも通りだった。
だが、その拳からは血が流れ、顔からは色が抜け落ちている。
だからこそ、ユーノは少しだけ落ち着くことができた。

「…なのはの家族、には?」
「もうすぐこちらにこられる。」

シン、と凍っていそうなほど動かない空気の中で、だた、クロノとユーノの言葉が乾いて響いていく。
色もない、感情も見えない。
そんなクロノとユーノに、フェイトは少しだけ恐怖を覚えていた。
もっと取り乱して、つかみ合って言い合いをしても、なんら不思議ではない。
だと言うのに、冷静なこのやり取りはなんだろうか、と、フェイトは思う。

確認する事を全て終えた時点で、ユーノは床に座り込んだ。
何のことはない、足が言う事を聞かなかっただけだった。
もう、立っているような気分ではなかったのも確かだったのだが。

空間を支配したのは、また沈黙だった。
時間が流れていないような感覚。
ただジッとしていればいい、と頭の中で何かが囁く。
そうだ、とユーノは思いながら、そっと目を閉じて、頭の中にある思考を振り払うようにして、時間の流れに身を任した。
誰も、その様子に声をかけなかった。





時間は随分経っていた。
いつのまにか、高町家の人が扉の前に居並び、手術室を眺めている。
それ以外、特に変わったこともない。
皆の立つ位置が少し変わったくらいであろうか。

「…!」

息を呑む音がした。
全員が、一定の方向に視線をやっているのに気づいたユーノは、ゆっくりとそちらを向いた。
手術室のランプが消えていた。
動き出した空気に対して、ユーノは動かなかった。
ただ、恐怖に震えていたから。
なのはを失うかもしれない恐怖が、表情を消させ、行動を封じていた。
ただ、クロノとリンディはそんなユーノの様子に気づいていたのか、目配せをしてきた。
その目配せの意味は分からなかったが、ほんの少しだけ軽くなったような気がした。
そのままでいたら、何かに押しつぶされそうだった。

「シャマル…」

ヴィータのしゃがれた声が聞こえた。
酷く憔悴した声。
また、一瞬だけ、目を閉じて、ユーノは目を開いた。

「手術は…成功です。」

その言葉に、安堵の息が洩れる。
しかし、ユーノは少しも安堵などできなかった。
シャマルの顔は、とても成功した、と言う表情などしていなかった。
ギシリ、と、何かが軋む音がした気がした。

「ですが――」

続く言葉に、また、一同は息を呑んだ。
また、空気が凍った気がした。
しかし、その中で、ただ一人、シャマルは淡々と口に言葉をのぼらせる。
それは、医者としての矜持からだろうか。

「正直に申し上げます。 現段階では、魔法の使用、更には、足での歩行は、非常に困難と言わざるをえません。」

ざわり、と、全員の慄きが辺りに走った。
それは、きっと、信じたくない思い。
どうして、なのはが、と。

「どうして、どうして、なのはが…」

それを呆然と呟いたのは、なのはの父である士郎だった。
同じような言葉が、フェイトとはやてからも洩れるのが聞こえた。
そんな中で、ユーノは、一人、少しだけ冷静に働いている頭で、その言葉を反芻していた。

どうして、なのはがこんな目に合うのか。
簡単だ、と、非常に冷たくなった一部の思考はサラリとその言葉を口にした。
自分のせいだ、と。
元を辿れば、彼女がここにいるのは何故か。
自身が、魔法を教えたからだ、と、酷く冷たく囁く声がする。
その声を静かに聞きながら、ユーノは自嘲そのものな笑みを浮かべていた。
その笑みは、ただ、ただ、悲しみだけが透けて見えていた――冷静ならば。

既に彼の心には刃が押し当てられ、今にもその刃は引かれそうになっていた。
もし、誰かが、その刃を止めてくれたら、もしかしたら――

感情が、高ぶっていた。
ほんの30秒ほどだろうか。
たったそれだけの時間だった。
後になって考えてみれば、その程度だったろう、と、高町士郎は言う。
だけど、それがもし、10秒であれ、5秒であれ、その時の行動は変わらなかった、と言う。
その感情を向ける矛先を、探していた。
そして、その目が捉えたのは、ユーノであっただけのこと。

いつもと変わらないように見えた。
床に座り込んで、平然とそのことを聞いているように。
後から考えれば、冷静でなかったからだろう。
冷静であったのならば、その目が酷く、虚ろであった事に気づいたのかもしれない。
しかし、その時は、結局、気づく事ができなかったのだ。
――できなかったのだ。

気づいた時には、足が地面から離れていた。
ユーノがその事に気づいたのは、全てが終わった後だろうか。
意識を視覚に繋げば、そこには泣きそうな顔で怒っている士郎の顔があった。
思わず、息を呑んだ。

「お前が、元はと言えばお前が――」

その言葉を聞きながら、ユーノは心がざわめき出すのを感じていた。
ああ――そうか。

「どう、責任を――」

これは、断罪だ。
そう思ったら、胸の奥で重かったものが、全て腹の底に落ちた気がした。
鋭い痛みが腹から走ったがそんな事はどうでも良かった。
僕が悪い――言われて、一体、何ができるのか、と、凄まじく思考は空回る。

「あなた、落ち着いて!」

桃子に抑えられた士郎が正気に返ったように、うろたえた顔をして、ユーノを降ろした。
降ろした方は、本当にバツが悪そうに、申し訳なさそうに。
降ろされた方は――変わらず、ただ、目が、虚空を眺めていた。

「いや――すまな――」
「ごめんなさい。」

士郎の口から言葉が出る前に、ユーノの膝は折れていた。
頭は地面に擦り付けられ、手は放り出されるように地面に置かれ。
そして、その口からは、ただただ、壊れたテープレコーダーのように、同じ言葉を吐き出し続けた。

「ごめんなさい。 ごめんなさい。 ごめんなさい。」

一連のやり取りを見ていた者達は、ユーノを見て、呆然とした。
その口から吐き出される言葉に。
言葉を聞いていれば分かるからだ。
その全てに、絶望にも似た感情が宿っているのが分かるのだ。

「やめなさい、ユーノ君!」

リンディが気がついたように、慌ててユーノを引き起こしたが、ユーノ自身は何も変わらなかった。
ずっと、その口は『ごめんなさい』と言い続けていた。

「貴方が、気に病む必要なんて、どこにもないのよ!」

リンディの言葉に、ただただ、ユーノの眼からは光が消えていく。
気に病んでいるのでないから。
それはもう、確定事項として、ユーノの心に刻まれた。

『高町なのはが堕ちたのは、ユーノ・スクライアのせい』と。

なんと言う傲慢か。

どこが。

なんと言う勝手!

当たり前の事を当たり前として何が悪い。

葛藤も勿論あった。
だがそれは、とても小さな物で。

ユーノの心は、とても大切な物が、壊れてしまった。
この時、誰もその事に気づかなかった。




リリカルなのは 「お呪い」



あれから、不気味なほど平然と、ユーノは無限書庫にいた。
一抹の不安を誰もが抱きつつも、そんなユーノを平常時に見ていられる人間はいない。
これが、フェイトなら、ハラオウン家の人間でも、アルフでもいたろう。
これが、ヴィータなら、八神家の人間がいたろう。
だが、壊れてしまったのは、ここには家族がいない、ユーノ・スクライア。
仕事上で、誰が彼を見ていられると言うのだろうか。
司書たちは彼の部下でしかなく、また、強く言って聞かせる事などする必要もないほど、彼は普通だったのだから。

職務を続けながらも、ユーノの検索魔法は、たった二つの欲しい情報を探して走り回る。
少々、いつもより量が多いから、ほんの少しの頭痛を感じたが、些細な事だった。
ピタリ、と、頭の端に、パズルピースが嵌るようなそんな感覚。
それを覚えた瞬間、ユーノは自身が感じていた頭痛すら忘れて、一気にその感覚へと手を伸ばす。

「見つけた――」

探していたものの一つを見つけたことを確信したユーノは、それを呼び寄せる。
それを不信に思うものは誰もいない。
当然だった。
ユーノが無限書庫から書物を引っ張り出すことに、誰が疑問を覚えるのか。
検索魔法を多重起動していようと、誰が疑問を覚えるのか。
そして、ユーノは、その本を手に取った。

『禁術書』

ただ、それだけが書かれ、厳重に封印を施された書。
しかし、確かに厳重であるその封印は、既に解明されて久しい封印だ。
一時間もあれば、その封印を解く事はできるだろう。
そして、検索魔法に反応した、と言う事は、目的の魔法はあるだろう。
自身の周りにそれを浮遊させながら、ユーノはもう一つの魔法の検索に入る。
検索魔法が広がっていくのを感じて――先ほど置いた本が反応していた。
思わず呆気に取られたが、それで、顔を笑みに変えることができた。
見る人が見れば、自虐と悲壮しか感じられぬ笑みであったが。




それから、一週間もしたろうか。
なのはに面会の許可が降りた。
勇んで駆けつけたのは、フェイトとヴィータ。
他の皆は仕事の合間を見て、おっとりと、と言った所だろうか。
だけど、ユーノは現れない。
許可が降りて、一週間が経っても、まだ、彼は現れなかった。

「…ユーノ君、どうしたんだろう?」

なのはが寂しそうに呟くのを耳にしたものは、一様に、口をつぐんだ。
それは、あの日の事を思い出しているからだ。
耳から消えない、絶望の謝罪。
誰もが、誤魔化すしかなかった。
何より、なのはに、なんと言って、あの騒動を言ったものか分からなかった、と言う事もある。

それでも、変化は訪れるものなのか。
ユーノがのんびりと一人でなのはの病室に訪れたのは、面会許可が下りてから、2週間も経った頃だった。

「あ、ユーノ君!」

なのはの目から見えるユーノの様子には何の変わりもなくて。
穏やかな笑みに、少しだけ嬉しくなった。
そして、ユーノは――
なのはの笑顔を見て、ギシリ、と、唸る、自身の心を見てしまった。
しかし、それは内で振り払い、ゆっくりと備え付けの椅子に腰を下ろした。

「ごめんね、お見舞いにこれなくて。」

言いながら、ユーノは、これ、お土産、と、小さな本を置いておく。
まだ自由に動くには遠く、それでも、もしかしたら、と言ったくらいの事だ。

「ううん、でも、どうしてたの、皆、ユーノ君のこと、教えてくれなかったんだ。」

少しだけ不満があるの、と、なのはは口を尖らす。
それにユーノは苦笑するしかない。

「ちょっとばかり、仕事が立て込んじゃってね。 面会時間内に会いにこれなかったんだ。」

ある意味本当。
でも、半分は嘘だろうか。
仕事が立て込んでたのも確かだ。
だが、それ以上に、やることがあったから。

「あと、ちょっと早くよくなるお呪いとか、探していたんだ。」
「お呪い?」

魔法があるというのに、そのような気休めをどうして探すのか、となのはは聞きながら疑問に思う。
それに、ユーノは顔の表面に笑みを浮かべながら、答えた。

「魔法の方はシャマルさんにかなわないから、だから――」

言いながら、ユーノは小さな指輪をなのはの右手の小指につけた。
その小さな輪を、なのはは少し苦労してみていた。
ユーノが手を持ち上げてくれているから、少し楽だが。

「よくなるお呪い。 まずこの指輪をつけてからね。」

途端にその指輪をフッと、消えた。
小指に確かに感触は感じるのに、視覚では確認できないのだ。
なのははその事を不思議に思いながら、ユーノを見る。
笑っている。
でも、なのはは、それがどこか悲しそうだと、思った。

「『イタイのイタイの飛んでけ〜』」

本当にお呪いだなぁ、となのはは痛い体も忘れて反射的に笑いそうになった。
と言うか、笑ってしまった。
しかし――

「あれ…?」

激痛に支配されるはずの体は、ほんの少しの鈍痛を訴えてくるだけで、特に支障はない。
体の不自由さは変わらなかったけれど、痛みはあまりないではないか。

「聞いたみたいだね、お呪い。」
「え…本当に?」

不思議そうに、なのはは自分の体を見る。
確かに、あのユーノの言葉の後から、体はあまり痛まない。
とは言え、ひきっつったような体の感触は変わらないから、別に怪我がなくなったわけではないのだろう。

「まあ、良かったかな。」

この時、なのはがユーノをじっくりと見ていれば、頭に脂汗が浮いている事に気づいたのではないだろうか。
管理局本局内の気温は基本的に一定。
だからこそ、それは不自然で。

「さて、僕は行くね。」
「え、もう行っちゃうの?」

少し寂しそうななのはに、ユーノは首を振る。

「まだ、仕事が詰まってて、ね。 できるだけ、来るから、さ。」
「うん、分かった。」

手を振って、部屋から出て行くユーノを、なのはを少し寂しそうに見送った。




「が、は…」

胸に手をやって、ユーノはあえいでいた。
凄まじいと形容できる激痛が、その身を苛んでいたから。
それでも、ユーノはゆっくりとその身を進ませる。
幸い、通路に人はいない。
病院の人間に発見でもされれば、少し厄介な事になっていたろうから。
激痛に苦しみながらもユーノは足を進める。
その顔に浮かんでいるのは、少しだけ濁った目をした笑顔だった。




その後、なのははリハビリを続け、信じられないような速さで復帰した。
その体に何ら不都合はなく、完全な意味での復帰であった。
誰もがそれを感嘆の面持ちで見、また、さすがはなのはだ、と感心したと言う。
その頃には、あの時のユーノのことは、皆の脳裏から消えていた。
勿論、忘れてしまったわけではない。
しかし、あれからのユーノがあまりに普通であったから、誰もが思ったのだ。
ユーノは、自身で立ち直ったのだろう、と。
ずっと、彼を見ている人なんていなかったから、気づかなかったのだ。
もし、誰かが気づいていても、その時点で手遅れだったであろうが。
とっくの昔に、ユーノは賽を投げはなっていたのだから。




あれから、約8年。
なのはは何の問題もなく空を飛んでいる。
近年では、エースオブエースは傷つかない、とさえ言われているほどだ。
その事に、ユーノは微笑を浮かべる。
そして――消えなくなった胸の痛みを忘れるように仕事をしていた。
だけど、それは、いつも、の事だ。
今日だけは違っていた。

モニターに映っているのは、『聖王のゆりかご』と呼ばれる飛行物体。
今、そこでは彼女らが戦っている。
隣のアルフが心配そうにモニターを見つめている。
そして、ユーノは――

(なのは、派手にやってるみたいだなぁ)

全身を苛む痛みに、平然と耐えながら、そんな事を思っていた。
痛みになど、慣れた、と、ばかりに、ユーノはただ、モニターを見つめていた。
しかし、時間と共に、痛みは増大していく。
そして、何もしていないのに、ユーノの体の表面に、いくつものかすり傷が出来て――一瞬で消えた。
それはほぼタイムラグなどない。
だからこそ、アルフも全く気づかなかった。

(今日のなのはは…久しぶりに限界突破かな…)

胸の奥でそれを感じながら、ユーノは荒くなってきた呼吸を落ち着けるように努めた。
隣の長年の知人は勘が鋭いから、少しでも怪しければ何か聞かれるかもしれないから。
しかし、真剣にずっとモニターを眺め続ける様子に、こちらを気にする様子はない。
ホッとしながらもユーノは少しだけアルフと離れて、モニターを眺める。

その時、押し寄せるように激痛がユーノの体を苛んだ。
胸の奥が一番酷いが、何か、熱いものが喉の奥からせり上がってきて――飲み下した。
洩れそうになった声も一緒に飲み込む。
痛みはともかく、飲み下した方はすぐに消える。
ここまで負荷がかかるような事をしている実感はないんだろうな、とユーノは苦笑した。
当たり前だ、分かるわけがない。
なのはは、軽い痛みしか感じていないだろうから。

(まだだ…!)

目を見開いて、ユーノは全身の痛みに慣れていく。
アルフはモニターに釘付けになったままだ。
ここには他の司書はいない。
少なくとも、後、2年はこのままで、とユーノは自身の体を叱咤する。

「あ!」

アルフの声に、モニターを見れば、飛び出してくるなのはと機動六課の面々が映っていた。
なのはは少し埃に汚れていたけれど、特に怪我はない。
当たり前、なのだが、ユーノはその事にホッとした。

「良かったねぇ、見る限り、特に問題はないみたいだよ。」
「そうだね。」

アルフが笑顔で振り向いて、そう言ったので、ユーノも笑顔でそう答えた。
その胸の奥のリンカーコアが罅だらけだったとしても。





あれから、2年程が経った。
なのはは相変わらず、空を飛んでいる。
現場を離れず、その思いのままに、助けを求める人を助けるために。

「ユーノ先生!」
「お帰り、ヴィヴィオ。」

穏やかな笑顔でユーノは大きくなったヴィヴィオに答えた。
身長が伸び、小等部の中頃まできた彼女は、それでも天真爛漫なままだ。
真っ直ぐに成長していくのは、なのはの頑張りのおかげだろう、と思うと、ユーノの顔にも笑みが浮かんだ。

「ほら、通知簿〜!」
「へえ、どれどれ。」

見せられた通知簿に並ぶ、良く出来ました、の文字。
しかし、体育的な科目はもう少し頑張りましょう、が目立つ。

「こんなとこまでママに似なくても良かったのに!」

プン、と顔を膨らますヴィヴィオに、ユーノは苦笑するしかない。
穏やかな時間だった、ずっと続くよう、錯覚していた。
頭痛が消えなくなった、胸の奥は痛みを訴え続けている。
だけどそれでも、慣れてしまえば、穏やかな日々。
だったのに――

唐突に駆け抜けた痛みに、ユーノは左手を見た。
一瞬にして黒焦げになった左手を見て、ユーノは脂汗を浮かべる。
それは3秒もすれば、元に戻った。
痛みもそれと共にひいていく。
一息突いた時に、ヴィヴィオの顔が驚愕に染まっているのに気づいた。

「ヴィヴィオ…見た、よね?」
「…ユーノ先生…腕真っ黒になった、よね?」

夏が近づいてきて、少し気分で半そでを着ていたのが問題だった。
確かに、ヴィヴィオは真っ黒になった腕を見ていたのだ。

「――ヴィヴィオ、今の内緒だよ、絶対、誰にも言っちゃいけない。」

ヴィヴィオから見えたその顔は、怖かった。
真剣だからではない、どこか虚ろなその瞳が、いつもの人と同じ人と思わせてくれなくて。
まるでユーノがいなくなってしまったようで、怖かった。
だから、ヴィヴィオは、自身が頷いたことに、少ししてから気づいた。




「お帰り、ママ!」
「ただいま、ヴィヴィオ!」

その次の日、本局内にて、帰ってきた母に飛びつくヴィヴィオの姿があった。

「ふへえ、元気だな、お前。」

疲れた様子のヴィータに、なのはは苦笑する。

「本当は、ちょっと疲れているけど、ヴィヴィオを見たらそんなの吹っ飛んじゃった。」

笑顔で話しかけてくれる母に、ヴィヴィオも少しだけ怖かった昨日の事を忘れて、笑みを返す。
だが――

「えへへ、ママ、元気!」

それが嬉しくて、そう言ったのだが。

「お前のママは本当に無敵だからな! 今回だって、仲間を庇って、火龍のブレスの直撃受けたのに、無傷だったんだぜ?」

ヴィータのからかうような調子のその言葉に、ヴィヴィオはヒヤッとした。
ヴィータの方の気持ちとしては、直撃した瞬間に、全身の血が凍るような思いだったのに、蓋を開ければ無傷だ。
だからこそ、こんな軽口もでたのだろう。

「もう、ヴィータちゃん、無敵なんかじゃないったら!」
「何言ってんだ、左肩まで確かに直撃したのに、無傷じゃねえか。」

なのはもヴィータも、単純にジャケットパージが間に合ったから、傷はなかったのだ、と思っていた。
しかし、ヴィヴィオは――

「ママ、左腕、怪我したの?」
「え、あ、ううん、何ともないよ、熱くもなかったし。」
「何時頃?」
「え、う〜ん、あれはね…」

何時にない娘の様子に、なのははとりあえず、聞かれた事に答えようと、答えを探す。
そして、出てきた答えは――ヴィヴィオの予想通りの時間だった。

もし、ヴィヴィオが大人だったら、まさか、と思いつつも、否定しただろう。
しかし、子供ならではの率直さで、それはイコールであると、思ったのだ。
すなわち――なのはの代わりに、ユーノが傷を負ったのだ、と。





「ヴィヴィオ、そこ、間違ってる。」
「え、ど、どこ?」
「ほら、ここだよ。」

魔法式を書き込んでいる時だった。
うちの図が少し間違っていたらしい。
こういう点では宿題などになると、ユーノの方がなのはより頼りになる。
特に最初から計算式で論理思考で魔法を組むユーノであるから、こういう問題には非常に強い。

あれから、2週間ほど経っていたが、ユーノはあの時の事をおくびにも出さない。
ヴィヴィオも気にしながらもそれを言いだす事はなかった。
ユーノの目は確かに、あの時、触れるな、と言っていたから。
だと言うのに――時計は、無常にも回りだした。

「ここは――ゴホッ」

魔法式を書き込んでいた紙に、赤い液体が張り付いた。
顔を上げれば、ユーノが胸の中心を押さえて、口元を押さえて、咳き込んでいた。
その手の隙間からは、血があふれ出てくる。

「ユ、ユーノ先生!」

その絶叫にも等しいヴィヴィオの声に、無限書庫で業務に当たっていた大半がそちらを見た。

「し、司書長!」
「医務局に連絡を!」
「司書長、しっかりしてください、司書長!」

ヴィヴィオは、ユーノがはなれて行かないように、しっかりと抱きついていた。
無性に、そうしなければいけない気がしたから。
たとえ顔が、赤く染まっていても。





「最大で2ヶ月程の入院ですね。」

ユーノが血を吐いて倒れた、と言う報を聞いて、集まった一堂に、シャマルがそう淡々と答えた。
その言葉に、全員がホッと一息ついた。
とは言え、この日は面会謝絶だから、と、全員、おとなしく帰ることとなった。
全員が後ろ髪引かれるような思いで帰路につく中、ただ一人、リンディだけが、そこに残っていた。
それに、シャマルは首を捻りながらリンディに視線をやる。

「シャマルさん、最大で2ヶ月…だったかしら?」
「はい。」

唐突な質問に、シャマルは反射的に答えていた。
そう、と呟きながら、リンディはじゃあ、と一息ついてから、質問を言葉にした。

「最低は?」
「……何が言いたいんですか?」

シャマルは特に動じる事もなく、淡々とリンディに質問を返していた。
リンディも同じように淡々と言葉を紡ぐ。

「それじゃ、率直に聞きます、貴女の見立ては――」

少しだけ感情の篭った声。
シャマルはその問いかけに俯いて、ポツリ、と答えた。
リンディは険しい顔をして、口を開く。

「――理由は、分かるの?」
「…はい。」

二人の会話は、誰にも聞かれる事なく、その場で行われていた。
それは、幸運だったのか、不幸だったのか。
少なくとも、他人がユーノに対して思うなら、それは不幸であり、ユーノが思うなら、それは幸運な事だったのだろう。




「…ユーノ先生。」
「やあ、ヴィヴィオ、久しぶり。」

おおよそ、ヴィヴィオがユーノに会ったのは、一週間ぶり程だった。
ユーノが倒れて以来、会っていなかったから。
ベッドに力なく横たわっているユーノの頬はこけ、顔は青白い。
だと言うのに、迎えてくれる笑顔は何も変わらなかった。
それが、ヴィヴィオには、悲しい。

「ユーノ先生、教えて欲しいことがあるの。」
「なんだい?」

震えそうになる体を必死で抑えながら、ヴィヴィオは質問を言葉にした。

「ユーノ先生…いつまで、その…生きられそうなの?」
「……そっか、ヴィヴィオは気づいちゃったか。」

問われた内容にあっさりとユーノは肯定して見せた。
必死で否定するだろう、とヴィヴィオは思っていたのに。
――嘘だとしても、肯定なんてして欲しくなかったのに。

「シャマルさん、言ってたよね、最大で、2ヶ月って。」
「――どうして?」

涙が零れそうになるのを懸命に抑えながら、ヴィヴィオは言葉を紡ぐ。
その顔に、困った様な笑みを浮かばせて、ユーノは息を吐きながら答えた。

「…ヴィヴィオ、君の問いに答えることはできる…けど、それを誰かに話しちゃいけない。」

ヴィヴィオは俯いたまま返事をしなかった。
ユーノもそのまま、返事を返さない。
空間を支配していたのは、沈黙だ。
無音の世界に、二人はただ、時間が経つのを感じていた。

「…あい。」

涙交じりで聞こえた小さな返事に、ユーノは一度目を閉じてから、答えを話し出した。

長い話ではなかった。
さりとて、短い話でもなかった。
ただただ、淡々と紡がれた答えに、ヴィヴィオは聞き終えた途端に部屋を飛び出していった。
ユーノは、それを悲しそうに見つめていた。



ユーノの話を要約すると、こうなる。
『お呪い』を、なのはとユーノにかけた。
なのはにかけた『お呪い』は、なのはの受ける傷や過度な負担をユーノに移すもの。
ユーノにかけた『お呪い』は、傷を瞬間的に癒すもの、誰にもばれないようにしたかったから。
そして、ユーノにかけた『お呪い』の代償は、寿命。
どれほどの寿命など、一切記述はなかったが、ユーノは躊躇などしなかった。



ユーノは夜、一人で考えていた。
昼間、ヴィヴィオに話す必要などなかったのだ。
それでも、詳細まで語ってしまったのは、結局――

「ヴィヴィオに、なのはの事、任せようとしているんだろうな。」

自分の行動を考えながら、ユーノはそう、つぶやいた。
なんたる自分勝手だ、とユーノは自身をあざ笑う。
自分がとらなければならない責任を、誰かに受け継がせようしているのだから。
やはり、言うべきではなかったんだろう。

「どうしようもないね、本当。」



「ユーノ先生。」
「…ヴィヴィオ?」

入院生活も、もう一ヶ月ほど続いていた。
面立ちは、あまり一月前と変わっていない。
その間に、お見舞いに来た面々と軽いやり取りをしている。
あまりにもなその姿に、本当に後――で退院できるのか、とからかわれる事が大半だったが。
ユーノはそれに笑って答えていた。
さあ、どうだろう、と。
冗談のような言葉だが、ユーノの願望もそこに混じっていた。
もう少しだけ、生きたい、と。

「ヴィヴィオね、決めたよ。」
「何をだい?」

静かに言葉を紡ぐヴィヴィオに、どこか思いつめたものを感じて、ユーノは訪ねる。

「なのはママに、空から降りてって言う。」
「…ヴィヴィオ?」

どうして、と、ユーノは驚きでヴィヴィオを見つめる。
ヴィヴィオは分かっている。
なのはがどれだけ大きな存在で、そして、なのはの思いがどこにあるかも。
なのに、どうして、そんな――

「ユーノ先生の次に、できるとこまで、ヴィヴィオがママを護るから!」

決意の言葉を言ったヴィヴィオを、ユーノは眩しそうに聞いた。
護るために…なのはを護るために、なのはに空から降りて欲しいと言う。
護る…懐かしくて、輝かしい言葉だった。
ヴィヴィオは、ユーノがなのはを護っていたと、そう思っている。
そう感じたユーノは、フッと、全身の重たさが消えていくのを感じた。
しがみついていた、最後の重みが消えたような。
責任は、果たして取れたのだろうか。

「ヴィヴィオ…ありがとう。」

本当に、全てが解放されたように、ユーノは、晴れやかな笑顔を浮かべた。

「なのはに、あまり無茶しちゃ駄目だと、ヴィヴィオに心配かけちゃいけないよ、って伝えてくれるかい?」
「…ユーノ先生?」
「本当に…ありがとう。」

スッと目を閉じたユーノの顔はとても安らかで。
部屋の機械が、電子音を鳴らさなければ、きっと、誰も眠った、と思うだけだったろう。
静かに涙を流しながら、ヴィヴィオは、一言だけ、呟いた。

「さよなら、ユーノ…パパ。」

響く音は――悲しみの言葉。
吹いた風は、とても悲しいもので。

パキリ、と乾いた音が響いて、なのはの手から、小さな指輪が二つになって落ちた。
机の上に転がったそれを、なのはは無言で見つめていた。
去来した、10年前の思い出が、頭の中で何度も何度も再生されて。
我に返ったのは――ヴィヴィオから、泣き声交じりの電話がかかってきた時だった。

この後、すぐになのはは昇進をし、前線を退いた。
それは、娘の懇願だったとも言われているし、自ら思うところがあった、とも言われている。
ただ、なのはは確実に知らない。
亡くなった彼が、ずっとずっと、自分を護り続けていたことは。
それが――ユーノが望んだことだから。

ー終りー

何、書いてるんだぁ…、と言う悪性電波。
ハッピーエンドに持っていこうか迷いつつ、このままに。
ユーノスレより受信
駄目だ…ぁ。





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