そこは不思議な場所だった。空は赤い光に覆われ、それによって染められた森の木々が風に揺れ、葉を散らしている。周囲の景色はまるで膜でも掛かったかのように薄暗く変色していた。
 その森の中、開けた場所に、1つの人影が降り立った。それは茶色の髪を両サイドで束ねた、10歳ほどの奇妙な風体の少女。身につけているのは砂色のハーフパンツに焦茶色の半袖シャツ。袖が無いクリーム色の上着は前面に緑の刺繍が施され、裾は前面だけがズボンの裾辺りまで長く垂れている。服ではなく衣装とでも言うべきデザインだが、更にボロボロになった砂色のマントを纏い、手には紅い石を金の台座に固定した杖を持っていた。
 少女の足首に生えていた、桃色の光でできた翼が明滅しながら小さくなっていき、やがて消える。少女は杖を構え、肩で息をしながら周囲に視線を巡らせた。
《マスター、ここは一時撤退を。今のコンディションでの戦闘継続は危険です》
 少女が手にした杖が言葉を放つ。その忠告に、少女は首を横に振った。
「駄目だよ……今ここで逃がしたら、どこで暴れるか分からない。この世界の人達が襲われるようなことだけは、絶対に阻止しなきゃ」
《しかしもう限界です。無理な次元転送を行った結果、リンカーコアにかなりの負荷が掛かっていて、正常に機能していません。先の戦闘、封印作業の消耗もほとんど回復しておらず、今現在行使できる魔力は通常の1割以下にまで落ち込んでいます。精度も――》
「レイジングハート」
 なおも続ける杖を、少女は苦笑混じりの声で制止した。
「わたしは、何のためにここへ来たの?」
 そして素早く横へと振り向く。その先に、異形の姿があった。
 煙が集まってその場に留まっているような不定形な身体に2本の触覚を持ち、一対の赤く輝く目をした獣。強いて言うならば毛玉の化け物のそれが、少女へと向かってゆく。
「リリカル! マジカル!」
《Sealing Mode.Set up.》
 杖の先端を獣に向け、少女は高らかに告げる。それに答えた杖の声と共に、杖の先端、金の台座の下あたりの桃色の部分が少し伸び、その下が柄に沿って3箇所起き上がると先程足元にあったような桃色の光の翼が生えた。
「許されざる者を封印の環に!」
 杖の先に桃色の魔法陣が描かれ、そこから幾重にも同色の帯が飛び出していく。それらが絡みつくと、獣の動きが止まり、額と思える場所に刻印が浮かび上がった。
《standby ready》
「ジュエルシード、シリアル――っ!」
 しかし杖に続いた少女の言葉が途中で止まる。苦悶の表情を浮かべ、少女はその場に膝を着いた。集中が乱れたのか獣を拘束していた帯が弾け散る。自由を取り戻した獣は再び少女へと襲いかかった。
《マスターっ!》
「まっ、まだっ!」
 それでも少女は諦めない。再度杖を獣へ向け、言葉を放つ。
「ジュエルシード、シリアル]]T……封印っ!」
《Sealing!》
 杖の先が光り輝き、光条が走った。それらは光弾となり獣に次々と突き刺さる。数瞬後、獣の内側から光が溢れて弾けた。身体の一部を撒き散らしながら吹き飛んだ獣が重い音を立てて地に墜ちるが、少しすると活動を再開する。しかし、少女へと向かおうとはせずに、地を這いながら遠ざかっていく。
「しっ、失敗、しちゃった……追いかけないと……」
 杖で身体を支えながら少女はなおも獣を追おうとするが、その場に倒れた。
「誰か……わたしの声を聞いて……力を……」
 うわごとのように呟く少女の身体を、桃色の光が包む。一際大きく輝いた後、そこには白い毛並みを持つ小動物が残された。そして、先程まで杖だった物が紅い小さな珠へと変わり、その傍へと転がった。
 
 
 
 第1話:それが、運命の出会い
 
 
 
 遠くから音が聞こえる。次第に大きく聞こえるようになったその音は、携帯電話のアラーム音。目覚まし時計代わりにセットしてあるメロディだった。
 ベッドから起き出して、机の上に置いてあった充電ホルダーから携帯を手に取り、アラームを止める。
「ふぁ……」
 その場で大きく伸びをして残った眠気を振り払い、トレーニングウェアに着替えながら呟く。
「……変な夢……」
 見知らぬ森の中で、杖を持った女の子と得体の知れない化け物が戦う夢。まるでファンタジーだ。ここ最近、そんな夢を見るような要因となるほどに熱中した本やゲームに触れた覚えはないのだが。
 あの子はあれからどうなったのだろう。化け物に翼の生えた杖を構えたところまでは記憶にある。そこで終わったのか、それとも覚えていないだけで先があったのか。
「って、ただの夢じゃないか……何を考えてるんだろ」
 こんな事を考えても仕方ないのに、無視するにはあまりにも印象深く、何かが引っ掛かる。
 とはいえ、ここで考え事を続けていても埒が明かない。この時間に起きていることには理由があるのだから。
 着替えを終えて部屋を出た。なるべく音を立てないように階段を降りて1階へ。靴を履いて玄関を出て、
「おはよう、兄さん、姉さん」
 外で待っていた男女に挨拶する。兄の恭也と姉の美由希だ。
「おはよー優乃」
「おはよう。じゃあ、今日も頑張って行くぞ。まずはいつものランニングからだが、体調の方は問題ないか?」
「うん、大丈夫。無理はしないよ」
 問いに答えると、満足げに兄は頷いた。
「よし、行こう」
 恭也が先導で走り出す。自分がそれに続き、最後尾が美由希。途中で分かれるまではこの隊列で走るのが常だ。
 今日もまた1日が始まる。
 
 
 
 距離が違うのでランニングを恭也達より先に切り上げて、家にある道場で剣の稽古。といっても素振り程度だが、しばらくして恭也達と合流してからが本番だ。
 詳しいことは知らないが家に代々伝わる剣術らしく、兄を師として姉と2人で稽古に励んでいる。始めた切っ掛けは、道場で木刀を振るっていた兄を格好いいと思ったことだっただろうか。特に剣術を極めたいというわけではなく、身体を鍛える一環で今は続けている。
 一区切りがつく頃になると母の桃子が呼びに来て稽古は終了。身を整えてからダイニングへ行くと、父の士郎が待っていて、朝の挨拶を交わす。特に事情がない限りは家族全員が揃ってから朝食となるのが常だ。
 食べながら、家族をこっそりと観察する。今も目の前で、万年新婚夫婦と言われても仕方ないやり取りをいつもどおりに見せている父と母。隣で高校生の姉の身なりを整えてやっている、大学生の兄。そして自分。
 あからさまに疎外されているわけではない。愛されているという自覚はある。しかし、やはり自分はこの中では浮いていると思う。
「ごちそうさま」
 食事を終えて手を合わせ、席を立つ。食器を片付けようとしたところで、
「あら、優乃。寝癖が残ってるわよ?」
 桃子が自分を呼び止めた。頭に手をやるが、それで分かるはずもない。そんな自分を見て微笑みながら、桃子が言った。
「食器はいいから、直してらっしゃい。もうじきバスも来る時間だし、急いだ方がいいわ」
「うん、ありがとう」
 手にした食器をテーブルに戻し、洗面所へ向かう。歯ブラシと歯磨き粉を手に取りながら、鏡に映った自分を見る。母に指摘されたとおり、髪が跳ねている箇所があった。
 歯を磨きつつ、空いた方の手で寝癖を直す。
「……」
 寝癖は直った後もそのまま鏡を見つめる。正確には、鏡に映った自分を。
 自分が高町家で浮いていると思う理由。変えようのない事実。父母とも兄姉とも一致することのない身体特徴。家族と血の繋がりがないことを暗示するもの。
 金髪に近い薄栗色の髪の毛と、翠色の瞳。
 事実を問い質したことはない。そんな勇気はない。が、多分間違いないと思う。少なくとも知る限り、同じ特徴を持つ親族を自分は知らないし、聞いたことがない。
 この姿を見る度に、自問する。どうして自分はここにいるのだろう、と。自分はここにいてもいいのだろうか、と。
「優乃ー。バスが来る時間よー」
 リビングから届いた桃子の声で我に返る。乗り遅れると遅刻は必至だ。急いで口をゆすいで洗面所を出た。
 
 
 
 聖祥大附属小学校屋上。
 昼休みになったので、優乃は弁当を持って屋上へと上がった。同じ目的で集まっている生徒達がいるが、誰と同席するでもなく、ベンチの1つに腰掛けて弁当を広げる。
 それを食べながら、午前中の授業のことを思い返した。
 将来の仕事について。今から考えてみるのもいいと先生は言ったが、明確に決めているクラスメイトがはたして何人いるのだろう、と思う。今からそれに向かって努力をしている同級生などいはしないだろう。特に夢と言える程の特殊な職業であるなら尚更だ。
「あら、あんたもここにいたのね」
 タコの形に加工されたウインナーを口に運んだところで知った声が聞こえた。顔を上げると同じクラスの女生徒が2人。アリサ・バニングスと月村すずかだ。
 この2人とは1年生の頃にちょっとしたトラブルがあって以来、親しいというわけではないが、他の女子達よりは言葉を交わす機会がある間柄だった。
 手に弁当を持っているので目的は同じらしい。2人が座れるように独りで占領していたベンチから立ち上がり、端っこに移動して座る。
 礼を言ってアリサとすずかが反対の端に揃って腰を下ろし、弁当を食べ始めた。
 耳に入ってくるのは午前中の授業の話。アリサは家業を継ぐことを、すずかは工学系への進学を希望しているらしい。
「ところでさ、高町」
 不意に、アリサが話しかけてきた。
「あんたは夢とか将来とかあるの?」
「いや、別に何も」
「ふーん……まあ、あんたが翠屋を継ぐ、って風でもないわよねぇ」
 そんなことを言ってアリサがおにぎりを一口する。
 翠屋は、両親が経営する喫茶店だ。コーヒーと手作りの菓子が評判の店で、結構賑わっている。アリサ達も常連と言える程に出入りしているとか。
 アリサの言うとおり、その進路は選択肢にもなっていない。自分がコーヒーを煎れたりケーキを焼いたりする姿など想像もできなかった。たまに手伝うことはあるが、そこまでだ。
 本当は、なれるかどうかは別にして、なってみたいものが無いわけではない。数少ない自分の趣味の1つである考古学関連だ。
 物心ついた頃から、遺跡であるとかそういったものに何故か興味が湧き、今も図鑑や事典を眺めたり、そういう系統のテレビ番組を観るのが好きだったりする。博物館などのイベントにも足を運んだりしていた。
 ただ、将来の仕事ということは、それで生計を立てるということだ。考古学で食べていく自分というのもまた、想像できないものだった。
 アリサはそれ以上は何の興味もないようで、再びすずかと談笑し始める。
 自分も、中断していた食事を再開した。
 
 
 
 図書室に立ち寄ったりしている間に送迎バスに乗り遅れ、優乃は徒歩で帰路に就いていた。そこそこ距離はあるが、普段からの鍛練のおかげか大した労力でもない。むしろ、ちょっとした運動にもなるので自分の意志で歩いて帰ることもよくあった。
 舗装された道よりも無舗装の地面の方が好きなので、公園に差しかかったところで園内に入る。
 特に何事もない、いつもどおりの学校だったなぁと歩きながら今日を振り返る。後は家に帰って稽古に参加して、夕食と風呂、宿題をやって1日は終了だ。
「なりたいもの、か……」
 こうしてみると、本当に日々を過ごしているだけのような気がする。特に目標もなく、ただ同じことの繰り返し。
 自分くらいの年齢ならば、それが普通だとは思う。それでもアリサやすずかのように、既に将来の目標が見えている人もいる。家庭環境という要因もあるのだろうけれど。
 小学生、中学生、高校生と進むにつれて、先が見えてくるだろうか。自分のやりたいことが見つかるだろうか。そしてそれは、家族に迷惑を掛けずに済むものだろうか。今は義務教育だから仕方ないが、進学には金が掛かる。そしてそれは家族への負担となる。
「父さん達に迷惑掛けることなく、なおかつ自分が心からやりたいと思えること……」
 そんな都合のいい進路、あるはずないなと諦めの溜息をついた時だった。
『助けて……』
 声が聞こえた。いや、聞こえたというのは正確ではないのかもしれないが。何故ならそれは耳から入ってきたのではなく、頭の中に響いた声だったからだ。
 そして、その声を優乃は知っていた。
「これ……夢に出てきた女の子の……?」
 そんな馬鹿な、と思う。今朝見た夢に出てきた女の子の声が聞こえるなんて、幻聴か何かに違いないと。しかし、あり得るはずがないと考えながらも足は動いていた。
『誰か……助けて……』
 2度目の声が聞こえた。間違いない、これは現実だ。声の主を捜すため、力強く地を蹴って前へと進む。どこから聞こえたのかも分からないのに、そちらに進むことに何の抵抗も感じなかった。走りながら周囲を見回す。
「……っ、こっちっ!」
 無意識に急制動をかけて地面を滑る。視線の先には細い道。一度も通ったことのない、森の奥へと続く道だった。この先だ、と何故か確信する。
 巻き上がった土煙を突っ切って、迷わずそちらへと駆ける。日の光もあまり差し込まない薄暗い道を更に奥へと進んでいった。そのうち、あることに気付く。一度も来たことがないはずなのに、自分はここを知っている。
 そう、夢で見た場所に似ているのだ。ならばこの先に待っているのは夢の続きなのだろうか。
 確かめるために速度を上げて走る。道の先に白いものが見えたのは、それからすぐだった。
「あれ……?」
 白い毛並に長い身体と尻尾を持った小動物がそこにうずくまっていた。呼吸を整えながら近づき、足元で小さくなっているそれを観察する。イタチかフェレットだろうかと思ったが、微妙に違う気もする。紅い石を首から提げているということは、誰かのペットなのだろうか。
 白い毛の一部が血で赤く染まっていた。まだ生きているのだろうかと確かめる前に小動物が動いた。ゆっくりと頭を持ち上げ、こちらを見つめてくる。しかしそれはほんの僅かな時間で、そのままぐったりと横になってしまった。
 どうすればいいのだろう。声に誘われるように来てみれば、見つけたのは怪我をした小動物1匹だけだ。
「あぁもう……ほっとくわけにもいかないやっ」 
 このまま放置してしまうと死んでしまうかもしれない。見殺しにするのは寝覚めが悪い。
 声がぱたりと途絶えてしまい、確信めいた何かも消えてしまっている。この森にいる理由もなくなった。
 負担を掛けないようにゆっくりとその動物を持ち上げると、なるべく揺らさないように走る。
 いつもどおりだと思っていた1日が、思わぬことで珍しい1日になりそうだった。
 
 
 
「あ、もうこんな時間だ」
 時計を見ると、いつもの就寝時間が迫っていた。フェレットが映っていたブラウザを終了させてPCをシャットダウンさせる。
 公園で見つけた小動物は、場所だけ知っていた動物病院に連れて行った。幸い親切な獣医が応対してくれ、治療も終了。医師の見立てではフェレットっぽい動物、ということで今は預かってもらっている。
 今後、あのフェレットはどうするべきだろうか。人工物を首から提げていた以上、飼い主がいるのだと思う。ただ、それをいつまでも動物病院で預かってもらうわけにもいかない。
 見つけた自分が預かれればいいのだが、高町家は飲食店の経営だ。衛生面の問題がある。店には全く連れて行かないようにしてしまえばいいのかもしれないが、
「言えないよね……」
 そのまま背を逸らす。ギシリと背もたれが音を立てた。
 家族に相談してみるつもりではあったが、結局夕食時には話題にあげることができなかった。迷惑を掛けることになると思ったから。
「どうしようか、なぁ……」
 人気のない森かどこかへケージか何かに入れて隠し、エサは毎日運んで。後はチラシを公園周辺に貼って、飼い主を捜すようにするしかないだろうか。小遣いの残金との勝負になるが。
「……駄目だ。いい案がないや」
 考えが纏まらない。明日になれば少しはマシな案も浮かぶかもしれないと、仕方なく椅子から立ち上がり、上着を脱ぎながらベッドに向かおうとしたところで違和感を覚えた。遠くから聞こえてくるような音。耳鳴りとも取れるそれが次第に大きくなっていく。
 目を閉じ、音源を特定しようと意識を周囲に向ける。
『――聞こえますか……わたしの声が、聞こえますか……?』
 しかし次に聞こえたのは音ではなく、少女の声だった。夢の中で聞いたあの声が、公園で聞いた少女の声が、再び聞こえたのだ。
『わたしの声が聞こえるあなたにお願いがあります……わたしに少しだけ、力を貸してください……時間がもう……危険が……お願いです、わたしのところへ……』
 公園で聞いた時とは違う点が1つだけある。『わたしの声が聞こえるあなたに』という呼びかけは、特定の個人へ向けられたものであることを意味していた。
 夢の中、公園、そして今。3回も聞こえたなら、それは偶然で片付けられるものではない。恐らくこれは自分への呼びかけだ。
 ただ、分からないのは声の主が自分を知っていることだ。公園で聞いた時にはまだ『どこかの誰か』への呼びかけだった。つまりこの声の主は、それ以降に、自分を確認しているということになる。
 もしかしたら他にもこの声を聞いていた人がいるのかもしれない。その人への呼びかけが、自分にも聞こえているだけの可能性もある。
 それでも助けを求めているのなら、力になってあげたいと思った。いや、行かなくてはならない気がした。
 声が消え、軽い眩暈が襲ってきたが、頬を叩いて気合いを入れ直す。
 こんな深夜に家族に黙っての外出。悪いこととは思いながら、しかし理由を説明するわけにもいかず。
 罪悪感を抱きながらも、足は動き出していた。
 
 
 
 こっそりと自宅を抜け出し、夜の街を走る。あれから声は聞こえなくなったが、とりあえずは声の主の所へと向かわなくてはならない。
 今の時点での手掛かりは今朝見た夢と、聞いた声だ。夢の中で見た景色と聞いた声。そして、同じ声が聞こえた、その景色と同じ場所。
 帰宅途中に通り抜けようとした、あの公園だ。まずはそこを目指す。
 家を出てしばらくしてから、丸腰であったことに気付いた。一旦戻って木刀でも持ってこようかと思ったが、声の内容からは時間的な余裕がなさそうだったので諦める。
 しかし、このまま駆けつけて声の主と会うことができたとして。何やら危険もあるらしい状況で、できることがあるのかどうか。
 いずれにせよ会ってみないと何も始まらない。考えるのを止めて、走ることに専念しようとして、
「……?」
 思わず足を止めた。周囲の様子が変わったのだ。
 奇妙な耳鳴りのような音。声が聞こえた時とはまた違った違和感。風が木の葉を擦るようなざわめきが周囲に満ちていく。
 変化は一瞬だった。それらの音が一切消え、フィルター越しに見る景色のように、周囲の色が変わってしまったのだ。
「な、何だこれ?」
 明らかに異質な空間になってしまった、そう認識できる。風が止まった。音が全く聞こえない。遠くからかすかに響いていた自動車の音すらも。近くには家があり、必ず誰かがいるはずなのに、それが感じられない。
 その時、静寂を打ち破る轟音が響いた。何か大きな物がぶつかったような音。それは道の先から飛んできた。よく見ると、制止した世界の中で唯一動くものがある。倒れていく、1本の木。
 あの場所に見覚えがあった。今日、森で見つけたフェレットを持ち込んだ動物病院のある場所だ。
 さっきの音の結果でああなったのなら、あそこで何かが起きたということ。脳裏に保護したフェレットの姿がよぎる。無事だろうかとそちらへ向かおうとして――
「うわっ!?」
 目の前で動物病院の塀が吹き飛ぶのを見て足を止めた。一瞬だったが黒い塊のような物が飛び出したのが見え、それは向かいの塀に激突する。
 そして、病院の敷地から出てくる白い動物。自分が助けたフェレットだった。
 病院に預かってもらっていたはずのフェレットが建物の外にいる。恐らくその原因は、さっきの黒い何かだ。
 この場で何が起きているのか。さっきの塊は何なのか。分からないことは色々あるが、今すべきことは1つ。
 優乃はフェレットへと駆け寄った。包帯を巻かれたフェレットが、気付いたのかこちらを向く。逃げる様子はない。
 そっとフェレットを抱き上げる。あれから別の怪我を負ってはいないようだ。
「来て……くれたの……?」
「しゃっ、喋ったっ!?」
 フェレットがこちらを見上げながら口を開く。思わず放り投げてしまい、しかし我に返って慌てて確保した。
 ホッと息をつくのも束の間、瓦礫の崩れる音がする。そちらを見ると動物病院から飛び出した影が、塀にめり込んだままもがいていた。
「な、何だ、これ……」
 まるで煙が固まったような、奇妙な物体。しかも触覚のような何かが2本、ゆらゆらと蠢いている。
 これが何であるのかは分からない。ただ、この場に留まるのはまずい。フェレットを抱えたまま、優乃は踵を返す。
「一体、どういう事なのっ?」
 逃げながら、恐らく当事者であろう喋るフェレットへと疑問を投げる。
「あなたには、資質があります。お願いします、その力を、少しだけわたしに貸してほしいんです」
 状況への回答はなく、戻ってきたのは懇願だった。
「わたしはある探し物のために、こことは違う世界から来たんです。でも、今のわたし独りの力じゃ、どうにもならなくなっちゃって……だから、迷惑と分かってるけど、資質を持った人に協力してほしくて……」
 小動物が人の言葉を解するだけでも驚きなのに、今度は違う世界から来たと言う。荒唐無稽な事この上ないが、頭の中に響いた声、今も変わらぬ異常な空間、先程の化け物、喋るフェレットと、状況がこの世界の常識を覆していることを示しているのは確かだ。
 フェレットが腕から飛び降りる。そしてこちらを見上げて言った。
「お礼はします、何でもします! だから、わたしの持っている力をあなたに使ってほしいんです。わたしの力を……魔法の力を!」
「ま、まほぉ……?」
 その言葉を聞いた途端、胡散臭さが一気に増した気がした。今の状況すら理解の範囲ギリギリだというのに、魔法を使ってくれなどと。物心ついた頃からオカルトにはとんと縁がないのだ。漫画やゲームの世界ならばともかく、ここは現実で、魔法が使えたことなどただの一度もない。
 どう答えたものかと考えようとしたところで、悪寒が背筋を抜けていった。素早くしゃがんでフェレットを捕まえ、前方に飛び込むように跳ぶ。数秒も経たない内に上空から降ってきた塊が、自分のいた場所へと突き刺さった。さっきの化け物が自分達を追ってきたのだ。
「お礼は必ずしますから!」
「いや、お礼とかそういう場合じゃ……」
 近くの電信柱の陰に身を潜めながら、化け物の様子を見る。動きは素早いようだが、反応が鈍いのか、いちいち次の動作に移るまでに時間が掛かっているようだ。
 このまま逃げてしまおうと考えたが、異常な景色は続いたままだ。ひょっとしたら、こいつを何とかしなければ、元に戻らないのではないだろうか。
「どうすればいい?」
 腹をくくらざるを得ない状況、なのだろう。今ここで自分達が無事に逃げ延びることができたとしても、だ。この化け物が他の人を襲う可能性がある。フェレットが言うには、信じられないことに自分にはこの化け物を何とかする素質があるらしい。つまり、魔法とやらを使う素質が。
「これを」
 フェレットが口を使い、器用に首に掛かっていた紅く丸い石をこちらに差し出してきた。受け取ったそれはわずかに光を放っていて、温かい。
「それを手に、目を閉じて心を澄ませて、わたしの言うように繰り返してください」
 こうなった以上、フェレットを信じて言うとおりにするしかなかった。目を閉じ、石を握り込む。
「我、使命を受けし者なり」
「わ、我、使命を受けし者なり」
 フェレットに続いて同じ言葉を紡ぐ。どくん、と何かが跳ねた気がした。
「契約の元、その力を解き放て」
「契約の元、その力を解き放て」
 手にした石がゆっくりと、しかし確実に熱を増していく。
「風は空に、星は天に」
「風は空に、星は天に」
 何とも言えない一体感に包まれる。フェレットの次の言葉が分かる。まるで昔から知っていたように。
「「そして不屈の心は――この胸に!」」
 声が重なる。続くのではなく紡ぎ合う。身体の奥に生じた熱が全身に広がっていく。今まで眠っていた何かが動き出したのが確信できた。
「「この手に魔法を! レイジングハート、セットアップ!」」
《standby ready》
 石――レイジングハートを掲げると同時、翠色の光が広がった。それはレイジングハートから放たれる光であり、自身の身体から溢れる光だった。
「落ち着いてイメージしてください。あなたの魔法を制御する、魔法の杖の姿を。そして、あなたの身を護る、強い衣服の姿を」
 フェレットが言うが、急に言われてもイメージできるはずがない。一般的というか古典的なものはねじ曲がった木の杖とローブだが、果たしてそれが自分に合う物なのかと問われると疑問だった。
 どこかの媒体の強そうな魔法使いをイメージしてみようかと記憶を探ろうとして、しかし浮かび上がったのは夢で見た少女の姿。彼女の手にした杖、そして着衣。
「なら、これで……っ!」
 直感に従い強くイメージする。彼女が持っていた杖の形、そして着ていた衣服を。
 レイジングハートが一際輝き、その大きさを変えた。どこからともなく現れた部品が組み合わさり、見知った杖の形を取った。
 翠の光が身体を包み、身につけていた服が消える。光は文字のようなものが描かれた帯となり、身体を取り巻いた。それが弾けると、下からイメージどおりの服が姿を見せる。あの少女のものと違うのは、ハーフパンツが長ズボンに変わったことと、膝と肘に追加されたサポーターだ。
「あの……その恰好とレイジングハートの形って……」
「うん、借りた」
 目を瞬かせるフェレットにそう言って、レイジングハートを化け物に向ける。
「まずは、どうすればいい? 魔法って言っても当然よく分からないんだけど」
「えっと、わたし達の魔法は発動体に組み込んだプログラムという方式を取っています。基本的には心に願うだけで発動します」
 問うと、分かりやすい答えが返ってきた。つまり自分のイメージが魔法になるということだ。
 ならば、と化け物を観察する。相変わらず形が定まらない物体で、紅い目が一対と触覚というか触手のようなものが2本。降ってきた場所が陥没しているので、かなりの重量があるようだ。
 ぎらりと化け物の目が光る。こちらを敵と認識したのか威嚇するように唸り声を上げた。肌に叩きつけられるような威圧感があったが、退くわけにはいかない。震えそうになる足に力を込めて、頭の中でイメージを作る。
 赤く、熱く、目標を呑み込み焼き尽くす、不定型な化け物相手には定番の、炎の魔法を。
「ファイアボールっ!」
 杖を少し持ち上げて、化け物に向けて振り下ろした。イメージが魔法になるなら、これで生まれた火の玉が化け物目がけて飛び、焼き払ってくれるはずだ。
《エラー。該当術式が存在しません》
 しかし期待した効果は得られず。杖が無情にも失敗を告げた。
「なっ、何でっ!?」
 慌ててレイジングハートを振るが、何度やっても結果は同じ。火の玉どころかマッチ大の火すら出ない。
 そうしている内に、化け物の姿が消えていることに気付いた。前後左右どこを見ても、あの巨体が消えている。まさかと思いながら空を見上げると、高く舞い上がった巨体が、1つの砲弾と化してこちらへ向かってくるのが見えた。
「うっ、うわあああぁぁぁぁぁっ!?」
 咄嗟に逃げることもできず、思わず目を閉じて身を固める。もう何でもいい。自分を護ってくれとただそれだけを願った。
《Protection》
 それを手にした杖が叶えた。いつまで経っても衝撃が来ないので目を開けると、翠の壁が発生し、化け物を阻んでいた。
 弾かれた化け物が重い音を立てて道路に落ちる。とりあえず、自分の命は繋がった。
「どっ、どうなってるのさっ!?」
 攻撃手段がないのでは手の打ちようがない。体勢を立て直すために再びフェレットを抱え、その場から離脱する。
「思ったとおりに発動するって言ったのにっ!」
「えと、それは……具体的なイメージに沿った術式が存在しなかったからかと……」
「つまり、僕のイメージに合う魔法が、この杖に入ってないって事!? 火の玉を出したり吹雪を出したり雷撃を放ったり刃の網で捕まえたり隕石落としたりする魔法はないのっ!?」
「そ、そうなります……」
 申し訳なさそうに項垂れるフェレット。目の前が暗くなった。そういえば発動体に組み込まれたプログラム云々と最初に説明を受けていた気がする。
「じゃあ、どんな魔法なら……君が使ってた攻撃魔法って――」
 どんなものがあるのか、そう問う前に、頭上を黒い影が跳び越えていった。目の前に落ちた怪物がこちらを向く。触手の数が増え、形相が先程よりも更に醜くなっている気がする。
「ひょ、ひょっとして、怒らせちゃった……?」
 咆哮が、その返事だった。
「あーもう! レイジングハート!」
 こうなったら、自分の手持ちの分野で何とかするしかない。フェレットを地面に降ろして、手にした杖に問う。
「身体能力を上げる魔法はっ!?」
《あります》
「物理的な攻撃力を上げる魔法はっ!?」
《現在手持ちの術式はありませんが、魔力を武器に纏わせる等すれば可能です》
 それだけ分かれば十分だ。レイジングハートが提示した術式を使って、身体能力を強化する。次に魔力のコントロール。コントロールと言ってもあくまでそうするというイメージだ。ゆっくりと、レイジングハートを翠の光――魔力が包み込んでいく。
 当然化け物が大人しくしたままでいるはずはなく、こちらへ向かって突進してくる。レイジングハートを両手で強く握り締め、構えた。
「でやあぁぁぁぁっ!」
 化け物と衝突するかどうかのギリギリの間合いで、斜め前に踏み出す。強化された脚力が、通常以上の反応で身体を移動させた。自分がいた場所を通り過ぎようとした化け物の身体に、手にした杖を叩きつける。
 伝わってきたのは、意外と手応えがある感触。インパクトの瞬間に魔力が炸裂し、力となって化け物を襲った。全力で振り抜いたレイジングハートの一撃を受け、化け物の進む方向が変わる。身体の一部を撒き散らしながら、化け物が塀へ突っ込んだ。
「……よしっ」
 ひとまずの攻撃が通用し、安堵の息を吐く。しかしこれからが本番だ。というより、根本的にこいつをどうにかする方法を知らなくてはならない。
「次は、どうすればいい? このまま殴ってたら、あいつをどうにかできるのかな?」
 杖を木刀のように構えながらフェレットに何度目かの問いを投げる。吹き飛んだ化け物を呆然と見ていたフェレットが我に返り、こちらに視線を向けた。
「え、えと……このままだと駄目です。あれを停止させるには、レイジングハートで封印して、元の姿に戻さないと……」
「それは、どうすれば?」
「より大きな力を必要とする魔法には、呪文が必要になります。心を澄ませて。心の中に、あなたの呪文が浮かぶはずです」
 要は杖と服を作った時と同じように、意識を集中すれば何かが分かる、ということだろう。近接戦の間合いでは危険そうなので、一旦化け物から離れることにした。
 十分な間合いを取ってから目を閉じ、意識を集中する。自分の心に浮かぶという呪文。それを求め、意識をそれだけに向ける。
 しばらくの静寂の後、それは突然に、文となって浮かび上がった。
 目を開けるといつの間に復活したのか、化け物が跳躍したところだった。2本だった触手の数が増え、伸び、こちらへと向かってくる。
 しかし今度は慌てることも取り乱すこともなく、杖を向ける。紡ぐのは防御の魔法。意に応え、杖が告げる。
《Protection》
 翠の障壁が触手の攻撃を防ぐ。触れた触手は崩れ、散り、消えていった。
 明らかに動揺したように見える化け物を見据え、唱える。
「妙なる響き、光となれ!」
《Sealing Mode.Set up.》
 言葉を発した途端、レイジングハートが変形する。夢で見たとおりに、しかし桃ではなく翠の翼を生やして。
「封印すべきは忌まわしき器、ジュエルシードです!」
「了解! ジュエルシードを、封印!」
 構えた杖から翠の帯が伸び、化け物を絡め取った。しかし完全に動きを封じたわけではなく、戒めから逃れようと足掻いている。
 あと一押しが必要だ。レイジングハートを構え、地を蹴った。
「あ、あれ!? ちょっと!?」
 フェレットが何やら戸惑っているようだが気にしない。というよりもその余裕がない。また自由に動き回られる前に何とかしなければ。
「忌まわしきものを、封印の環に!」
 杖の先端に魔力を集中させる。抵抗し続ける化け物が触手を何本か繰り出してくるがそれを避け、かいくぐり、斬り払って間合いに捉えた。
「ジュエルシード……封印っ!」
 渾身の力を込めて振り下ろす。魔力を纏った杖が化け物の頭を割り、その身へと潜り込んだ。身体のあちこちから翠の光条が伸び、
「グオオオォォォォッ!?」
 断末魔の悲鳴をあげて化け物が四散し、光となって消え去る。
 化け物がいた場所に、文字が刻まれた蒼く輝く石が浮いていた。これが、フェレットが言っていたジュエルシードというやつだろう。
 杖で封印する、と言っていたのでレイジングハートを近づけてみる。赤い珠の部分で触れるとそれはそのまま吸い込まれて消えた。
《ジュエルシードNo.]]T、封印完了》
「ふぅ……これで、終わり……」
 レイジングハートの報告を聞いて、力を抜く。とんでもない展開の連続だったが、何とかなったようなので一安心だ。
 何げに周囲の様子を確認してみる。先程までの異様な雰囲気はすっかり消えている。あの化け物を封印したからだろう。
 しかし、だ。目の前の光景は酷い有様だった。えぐれた道路、崩れた塀、倒れた電柱。火花を散らす切れた電線。
 じわり、と嫌な汗が滲んでくる。近くの家からは人の声も漏れ始めた。遠くからはサイレンの音も聞こえる。たちまち誰かが通報して、ここへ向かっているというわけではないだろうが、ここに留まっていれば、いずれ近所の住人が出てくるだろう。そうなったらこの惨状を見て必ず通報するだろうし、自分が目撃されてしまう。そこから犯人扱いされるかもしれない――実際、関係者には違いないのだ。
 ならば今、すべきことはたった1つ。
 優乃はフェレットを連れ、その場から全力で逃げ出した。
 
 
 
 
 
 後書き
 
 KANです。第1話です。もう少し弄ろうかと思っていたのですが……諸事情あって、急ぎ投稿させてもらいました。
 ひょっとしたら『誓いを胸に』よりもこっちの方を優先して書くかもしれません。

 では、また次の作品で。

 H22.12.6 初稿





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