「うん」
 計測器の内容を確認して、シャマルはそれをなのはの胸元から離した。結果をカルテに転送すると緊張の面持ちで答えを待っている患者に告げる。
「ゆっくりとだけど、確実に快復に向かってるわよ」
「本当ですかっ!?」
 喜色を浮かべるなのはに、ええ、と頷く。
「脚の方も順調だし、普通に歩けるようになるのも、魔法がまた使えるようになるのも、そう遠い未来の話じゃないわ」
 医療局から依頼した資料、そして武装隊から回ってくる資料は、ほとんどが使えなかったものの、なのはの治療に有効なものは確かにあった。
 全てはユーノが頑張ってくれた、そして今も頑張ってくれているお陰でもある。とはいえ、このことをなのはには言えないが。きっと気に病むだろうから黙っておいてくれ、という約束を破るわけにはいかない。
 少なくとも今のなのはには、嬉しい話題、楽しい話題以外は振らない方がいいだろう。病は気から、という言葉は第97管理外世界にある、主の国のものだったろうか。フェイトが執務官試験に落ちた時のなのはの落胆ぶりと、それに責任を感じているようなネガティブな感情は、リハビリにも影響が出たのだ。
「もうしばらくしたら、魔法の方のリハビリも始めようかしらね」
 だから、いいことだけを挙げていこう。それでなのはが気持ち良くリハビリに専念できるなら、それが一番だ。
 しかし、喜ぶと思っていたなのはの顔は何やら思案の色。
「どうかしたの、なのはちゃん?」
「あの、シャマルさん。そのことで、お願いが……」
 表情を引き締めて、なのはがこちらを見上げてくる。
「なあに?」
「魔法がまた使えるようになるかどうか……試さなくちゃいけないと思うんですけど」
「ええ。回復具合を見ながら、簡単なのから順番に――」
「それなんですけど、わたし、最初に使いたい魔法があるんです」
 なのはの口から出た言葉。最初に使いたいと言った魔法。それは――
 
 
 第7話:空、再び
 
 
「飛行魔法、ですか?」
「ええ、そうよ」
 きょとんとした顔の末っ子に、それだけを答える。
 闇の書事件の当時、自分がなのはのリンカーコアを蒐集した時のリハビリは、魔力スフィアの生成から始めたと聞いている。それなのに、今回はいきなり飛行魔法を試したいと言ったのだ。
「シャマル、大丈夫なんか?」
「そんなの無茶ですよぅ!」
 はやてが不安げな、そしてリインが深刻な表情をこちらに向けている。そう思うのも分からなくはないが、
「別に無茶、って程じゃないわよ」
 と、答えてやった。飛行魔法自体は比較的初歩の魔法であり、決して難しい魔法ではないのだ。
 が、どうもそう思われている節がある。確かに飛行魔法の使い手、つまり航空魔導師と呼ばれるだけの魔導師は、管理局全体で見ると少ないが、理由は幾つかある。
 まず魔力量の問題。飛行中は魔力を消費し続ける。速度を上げれば消費量も上がる。ある程度の魔力が確保できないと、飛び続けることができないのだ。
 次に適性の問題。空間認識能力だ。これが低いと単調な飛行しかできない。それは、空間の奪い合いをする航空魔導師にとっては致命的だ。戦闘機動のパタンが限られるということでもあるのだから。
 そして並列作業。飛ぶだけならともかく、同時に他のことをするとなると話は違ってくる。航空魔導師の戦場は空である。空で戦えなくては意味がない。飛行術式を常に維持しつつ、攻撃をし、あるいは防御できなくてはならない。デバイスの補助はあるだろうが、それでも空に上がった途端、地上にいた時と比べて大幅に戦力が落ちるということが起こりうるし、実際に起きていた。
 つまり、飛べる『だけ』では航空魔導師として使えないのだ。移動するなら万全の状態でヘリや車両に乗ればいい。わざわざ魔力を消費して飛び、目的地に着いた時には消耗が激しすぎて実働時間がほとんどない、なんて馬鹿げた事態を起こしたり、魔力消費を気にするあまりに通常の交通手段よりも移動時間が掛かったりするようでは、飛ぶ意味がない。無理に飛んで墜落、あるいは建造物に激突して殉職などという不祥事を起こさずに済む。落下防止だけなら浮遊魔法があるのだ。
 要は、高々度高速飛行できるようになるため、つまりは飛行魔法を実戦レベルまで鍛え上げるためにかかる時間と予算、そして魔導師個々が飛行によって得られるメリットがデメリットを上回るかどうかなのだ。
 そういった理由から航空魔導師の育成は順調にいかず、数も少ない。そして航空隊がエリートに見られがちになり、飛行魔法について誤解する者も出てくるわけだ。実際に航空隊はエリート揃いと言えるだけの実力を持つが、それは隊員達の技量が高いからであって、飛べるからというだけではない。
 まあ、それは置いておくとして、なのはが飛行魔法を選択したのは、彼女の技量や経験を考えれば意外でも無茶でもないのだが。
「でもでも、いきなり飛行魔法だなんて、飛び立てないならまだしも、もし飛んでる途中で術式が乱れたりでもしたら大変ですよ? もっと本人に安全な魔法から順を追って試していくべきだと思うです」
 リインが手足をばたつかせながら言った。はやても無言で頷く。
 言うことには一理あるし、2人の気持ちは理解できる。正直に言えば、自分も順を追った方がいいと思う。が、なのはの考えていることも分かるのだ。
「なのはちゃんにとってはね、魔法が使えるようになるだけじゃ駄目なのよ。一番の目的は、空へ戻ることなんだから」
 この調子なら間違いなく、なのはは自分の足で以前と同じように歩けるようになる。後は魔導師としてどうなるか、だ。飛行魔法を真っ先に試したいというのはある種の願掛けなのだろう。
「まあ、一度墜ちたなのはがまた空を翔るには、避けては通れない道ではあるよな」
 主達とは対照的に、ヴィータはなのはの希望に理解を示す。はやてとリインはまだ何か言いたげだったが、 
「深刻に考えすぎることもないわよ。医者の目から見て無理、無茶だと判断するなら聞かなかったことにしてくれって本人も言ってるから」
 そう、なのははそれに固執してはいない。あくまで希望であり、何が何でも、というわけではないのだ。とはいえ、できることなら叶えてやりたいとは思う。うまくいけば精神的に弾みがつく。復帰までの期間も短縮が望めるだろうから。勿論失敗したら逆に長引く可能性もあるが。
「回復具合を見ながら、私が判断する。もちろんバックアップ体制は万全を期すわ。だから、心配は要らないわよ」
 安心させるように、シャマルは主と末っ子に笑いかけた。
 
 
 
 
 
 ミッドチルダ首都――クラナガン。
 都市部から外れた、緑の多い郊外になのははいた。他にははやて、リイン、ヴィータ、シャマルだ。
 今日はあの事故以来、初めて魔法を試す日だ。同じ飛ぶなら空が見える所の方がいいだろうと、シャマルが外出の手配をしてくれた。
「それじゃあ始めましょうか、なのはちゃん」
「はい」
 見守ってくれる友人達から少し離れた所で車椅子を止め、ゆっくりと立ち上がる。普通に歩くことはまだ無理だが、一歩一歩踏みしめるように歩くことは可能になっていた。
 胸元に視線を移すと、久方ぶりに定位置に戻った愛機がある。
「よろしくね、レイジングハート」
《お任せください》
 返ってきたのは頼もしい声。そっと相棒を手に取り、口づけて、命じる。
「レイジングハート、セットアップ」
《All right》
 桃色の魔力光が形を変え、一瞬の後には見慣れた白いバリアジャケットを構成する。事故前までは毎日着ていたこの恰好が、随分と懐かしく感じられた。
「なのはちゃん、身体に変化はない?」
「あ、はい。特におかしいところというか、バリアジャケットを作ったことでの異状は何も」
 背後のシャマルに答え、レイジングハートで身体を支えながら車椅子から離れる。10歩ほど歩いた所で足を止め、目を閉じた。ゆっくりと深呼吸を繰り返す。
 いよいよだ。自分が空へ戻れるかどうか、それを試す時が来た。シャマルが許可をくれた以上、魔力的には何の問題もないはずだ。フェイトらは仕事なのでいないが、はやて達も見守ってくれている。
(いない、んだよね……)
 あと1人、見ていて欲しかった人がいるが、恐らくは仕事が忙しいのだろう。自分を立ち直らせてくれたあの少年に、もう大丈夫だと示したかったのだが、それは少し残念だった。
 でも、結果は教えられる。だから頑張ろう。そしてお礼を言うのだ。
 気持ちを落ち着かせ、向かう先を見つめる。使い慣れていた飛行魔法の術式を紡ぎ――
《マスター?》
「あ、あれ……?」
 しかし足元に桃色の翼は生まれなかった。久しぶりだったからどこかを間違えたのだろうか?
「よし、っ」
 今度こそ、と再び術式を展開しようとする。それでも結果は同じだった。レイジングハートの補助があるというのに、それができない。
「な、なんで……?」
 分からない。一体、何がどうなっているのか。どうして術式が途中で消えてしまうのか。
 その原因を教えてくれたのは、愛機だった。
《マスター、どうして術式にキャンセルをかけるのです?》
「え……?」
 今、レイジングハートは何を言っただろうか? 術式にキャンセルをかけた、そう言っただろうか?
(つまり……違う……構成できないんじゃない……したくないんだ)
 飛ぶための補助を、レイジングハートはしっかりとしてくれていた。それを無駄に終わらせたのは、他の誰でもない、自分自身だったのだ。
(なんで……決めたのに……また、空に戻るんだって自分で決めたのに……)
 どんな苦難が待っていても、また飛びたい。そう自分は望んだのではなかったか。だというのに、無意識で拒絶してしまっている。飛べばまた、墜ちる。身体にそう染みついてしまっているのだろうか。
 足が震え始めた。左腕が痛い。頭も痛い。既に癒えたはずの、傷があった箇所から次々に痛みが押し寄せてくる。
 苦しい。呼吸がうまくできない。歯がカチカチと鳴り始めた。
(だ、だめ……飛ばなきゃ……)
 周囲から音すら消えた。あの時の恐怖が甦ってくる。バリアジャケットを着ているというのに寒くてたまらない。
(みんなが今まで応援してくれたから……だから頑張らなきゃ……応えなきゃ……)
 空の蒼が曇天の灰に変わり、緑の地面が白く染まる。
(絶対に……飛んで見せなきゃ……じゃないと――っ!?)
 その中に、朱をデコレートした『白い防護服の少女』が倒れているのが視えた。
 
 
「シャマルさん」
 ようやくリハビリ会場に到着すると、なのはは既にバリアジャケットを纏い、車椅子から立ち上がっていた。
「あら、ユーノ君。間に合ったわね」
「ギリギリでしたけどね」
 出る直前にトラブルがなければ皆と一緒に来ることができたのだが。本来なら仕事を優先するべきだが、今日ばかりは普段の見舞いとは事情が違うから外せない。
 一時的に仕事を引き受けてくれている同僚に心の中であらためて礼を言い、はやて達の方へ注意を向けながら、シャマルに問う。
「どんな感じですか?」
「リンカーコアの完全回復はまだなんだけど、バリアジャケット構築と飛行をする分には問題ないわよ」
 緊張した面持ちでなのはを見つめているはやてとリイン、ヴィータがいる。自分もまた、なのはへと注目した。
(あれ?)
 そして、気付いた。どうも様子がおかしい。空を見上げていた頭が下がっていく。よく見ると身体が震えているようだった。
(どうしたんだろう?)
[心拍数が異常に上がってるな]
 頭の中にスプリガンからの文字が走った。なのはのバイタルサインをチェックしたのだろう。
[リンカーコアも不安定だ。シャマル姐さんはああ言ったが、あれじゃとても飛べたもんじゃねぇぞ]
[まさか……フラッシュバック?]
[だろうな。思い出しちまったんだろうさ]
 撃墜の時の記憶。なのはにとっての悪夢が、再生されてしまったのだ。死にかけた時の記憶だ。平静でいろと言うのが酷な話だった。
[で、どうする? いや、どうしたいんだお前は?]
 スプリガンからの問いかけがあった時には足を踏み出していた。
「ちょっ、ユーノ君?」
 シャマルの呼び止める声が聞こえたが無視して進む。はやて達が何か言ったようだがそれも放置して進んだ。なのはの力になる、そう自身に誓ったのだから、今は成すべき事を成すために動く。
「なのは」
 なのはの隣で止まり、呼びかけるが反応はない。視線を地に落としたまま、なのはは蒼白い顔で歯を鳴らしていた。
「なのはっ」
 少し大きい声を出し、肩を掴んで軽く揺する。びくりと大きく震えた後、ゆっくりとなのはがこちらを向いた。
「ゆ、ゆーの……くん……?」
「うん、僕だよ」
「わ、わた……わたし、あの……とっ、飛ば――」
 今にも泣き出しそうな表情で、なのはは必死に何かを訴えようとしているが、これでは先に進めない。なのはの両肩に手を置いて、目線を合わせてから、諭すように言う。
「なのは、まずは落ち着こう。ゆっくり息をして、気を落ち着かせるんだ。これからしようとする事は今は忘れて、楽しかったことを思い出しながら、ゆっくりと呼吸を。できる?」
 なのははぎゅっと目を閉じて、身を固くした。少しすると、肩に置いた手に伝わる震えが次第に小さくなっていく。顔色も元に戻り始めた。
 時間にして1分くらいだろうか。呼吸も落ち着いたなのはが力を抜いた。ゆっくりと顔を上げる。完全に立ち直ったわけではないのか、恐怖と不安で揺れる瞳がこちらを見つめた。
「落ち着いた?」
 優しく問いかけると無言で頷く。無理をしているのは明らかだったが、それには触れずに、また問いを投げる。
「なのはは、空に戻りたい?」
「うん……」
「でも、恐いんだよね?」
「……うん……」
「恐くて恐くてたまらない。でも、飛びたいんだ」
「……うん……」
 問いかける度に、なのはの目に涙が溜まっていった。
 しかしどうして飛べないのか。シャマルの見立てが間違っているとは考えにくい。何らかの要因があるはずなのだが。
 外からの情報だけでは判断材料が少なすぎる。本人にも聞いてみなくてはならない。
「なのは……どうして飛べないのか、自分で分かる?」
「わ、分からない……」
 ぼそぼそと、消え入りそうな声でなのはが告白した。
「飛びたい、そう思う気持ちは、間違ってないの……でも、いざそうしようとすると、身体が動かなくなって……レイジングハートもちゃんと補助をしてくれてるのに、自分で術式をキャンセルしちゃって……」
 次第に嗚咽を漏らし始めるなのはを見ながら考える。
 魔法自体は構築できている。だから飛ぶことに問題はない。問題はなのはのメンタル面だけだ。しかしそうなると、これ以上は自分ではどうにかなりそうにない。カウンセリングは医者の領分だ。
(ここまでの恐怖を取り除く方法なんて、心当たりがないし……)
 やっぱり自分は無力だ。肝心な時に力になってやれない。そう思った時だった。
「飛ばなきゃいけないのに……飛ぶのが恐くて……飛べないのが恐くて……」
(飛べないのが……恐い? つらいでも、悲しいでもなくて?)
 続くなのはの言葉。瞬間、脳裏に閃くものがあった。
「なのは? ひょっとして、絶対に飛べなきゃいけない、って考えてる?」
「だって……みんながずっと応援してくれて、支えてくれたんだよ? だからそれに応えなきゃ……」
「それだ」
「え……?」
 不思議そうになのはがこちらを見る。
「なのは、まずはその考えを捨てちゃおう。飛べなきゃいけない、なんてことはないよ」
「で、でも……」
「だって、なのはは『飛ばなきゃいけない』んじゃない。『飛びたい』んでしょ?」
 飛ばなくてはならないというのは義務的な考えだ。そして、飛びたいというのは気持ち、望みだ。墜落した時の恐怖はもちろん残っているだろう。それが飛びたいという意志を阻害しているのも多分間違ってはいない。だが、今のなのはを縛っているのはそれ以上に、周囲に応えようとするプレッシャーだ。
 飛べないのが恐いのではない。飛べないことで周囲の期待を裏切ってしまうことが恐いのだ。
「なのはは自分の意志で空に戻ることを決めたんだ。そして、自分の意志で飛びたいと思った。そこで他人のことを考えることはないんだよ?」
 ハンカチを取り出し、零れそうになっている涙を拭いてやりながら、続ける。
「今日絶対に飛べなきゃいけないわけじゃないんだよ?」
「だって……飛べるようになってるから、シャマルさんは許可をくれたんだよ? だったら飛べなきゃ――」
「飛べるよ。間違いなく」
「え?」
「だって、飛行魔法の術式をキャンセルできたんでしょ?」
 術式をキャンセルしたということは、飛行魔法の術式に介入できた、つまりキャンセルのための術式を紡げた、ということなのだから。
「飛べるんだよ、なのはは。ただ、ちょっとみんなのことを気にしすぎて、大きな重りを自分からたくさん背負っちゃってるだけなんだ。だから、それを全部捨てちゃおう。飛ばなきゃ、じゃなくて、飛びたい、に気持ちを切り替えよう。誰が何と言おうと関係ない。どうして飛びたいのか。その最初の気持ちを思い出して。そうすれば――」
 ハンカチを片付け、なのはの頭をゆっくりと撫でながら、その目を真正面から見つめて、言った。
「きっと、大丈夫だから」
 
「うー……どうなってるんやろ……」
「気になるですぅ……」
 なのはとユーノを見ながら、主と末っ子が不安げに漏らした。
 距離はそこそこある。様子がおかしくなった時にはやて達もまた近寄ろうとしていたが、シャマルがそれを止めていた。2人には会話が聞こえていないようだから気になるのも仕方がないが、ここはユーノに任せるべきだ。
「大丈夫ですよ」
「だな」
 そんな主にシャマルが笑いかけた。それにヴィータは相槌を打つ。
 なのはの顔には生気が戻り始めている。ユーノの言葉は、きっとなのはに届いたはずだ。
 ユーノがなのはの傍から離れる。ほんの数歩の距離で足を止め、何も言わずに信頼の眼差しだけをなのはに向けていた。なのはの事故以来、ずっと変わらないユーノのスタンスがそこにある。
 ユーノは言った。きっと、大丈夫だから、と。ならば何の問題もない。
 視線の先で、再びなのはが空を見上げた。
 
 向かう先にある空は曇天の灰ではなく、鮮やかな蒼。足元は雪の白ではなく、瑞々しい緑だ。地に墜ちた魔導師は、どこにもいない。
(もう、大丈夫)
 過去の幻は既にない。あるのは今だけだ。
「レイジングハート、ごめんね」
《お気になさらず》
 視線を下げることなく謝ると、どことなく嬉しそうな声が返ってきた。これ以上の言葉は不要だ。後は行動で示すのみ。
 目を閉じて、想う。自分が空を飛びたい理由。空を望んだ理由。初めて翼を得た時に感じた純粋な気持ち。
 それを心の中で噛みしめて、一旦ユーノを見た。何も言わず、微笑みながらユーノは一度だけ頷く。
 きっと、大丈夫だから――
 ユーノの言葉が胸に満ちる。かつて感じていた温もりが、背中に戻ってきた。
 恐くないと言えば嘘だ。だがそれ以上に、自分を支えてくれるものがあった。自分を奮い立たせてくれるものがあった。
 頷き返し、再び空を見上げて相棒に意志を伝える。
「行こう、レイジングハート!」
《Accel Fin》
 足元に生まれる桃色の翼。やや前傾姿勢を取り、軽く膝を曲げる。力強くは無理だったが、それでも地を蹴った。重力の鎖から解き放たれる心地よい感覚。そして、
 ゴウッ――!
唸る風の音を認識した時には、視界の端にあった緑の地面が消えていた。その向こうに見えていた木々も消えた。目の前にはどこまでも続く蒼い空。
 かつて飛んでいた空が広がっている。一度は諦めようとした空が、恋い焦がれた空が、あれから何度も夢にまで見た空が、そこにはあった。
《マスター、もう少し速度を落とした方が。いきなりの全力運転は大きな負担が掛かります》
 レイジングハートからの忠告が聞こえた。全力運転――墜ちる前と遜色ない速度で、自分は今飛んでいるということだ。
(夢じゃ……ないんだ……)
 自分は確かに『ここ』にいる。失ったものを、取り戻すことができたのだ。
《マスター?》
「あ、ごめんね、つい……」
 再度、レイジングハートの声。気遣ってくれる愛機に応え、速度を落とそうとして、
「え……?」
 動きが止まった。そう、感じた。心地よい抵抗感が消え失せ、足元にあった力が失せた。
 術式を確認する。飛行魔法の術式が崩れていた。
《マスターっ!》
「あ――」
 脳裏に走ったのはあの時の記憶。蒼い空が、再び曇り始めたその時――
「――っとっ!」
 温かく、力強いものが自身を包み込んだ。
 
「ふぅ……」
[間一髪、ってとこだな]
[ありがとう、スプリガン]
 なのはを強く抱き止めながら、頭の中で礼を言う。
 リンカーコアが揺らいだと相棒から報告を受けた瞬間、ユーノは飛行魔法を構築し、最大速でなのはの元へと飛んでいた。
 追いついたのは桃色の翼が消えた数秒後。なのはが落下を体感する前に止められたと思いたいが。トラウマを呼び起こすようなことは避けたい。
「なのは、大丈夫?」
「ゆ、ユーノくん……」
 なのはの顔が、自分の顔のすぐ斜め前にあった。一息ついてしまうと自分がしていることを冷静に見てしまう。なのはを真後ろから抱き止めている――とんでもないことをしていることに気付いた。
「ごっ、ごめ――!」
「わたし……!」
 しかし謝ろうとした声を遮って、なのはの声が耳を打った。何だろうか、と緊張しながら次の言葉を待つ。この体勢のことを言われたらどうしようかと心臓が騒ぎ始めたが、
「わたし、飛べたよね?」
 聞こえたのは問いかけだった。信じられないような、少し不安げな声だった。なのはは視線は正面のまま、遠くを見つめている。
 そんな彼女に言ってやる。事実を。抱き止める腕に力を込めて。
「うん。間違いない。確かになのはは、ここまで飛んだよ。誰でもない、自分の力で」
「わたし、また、飛べるんだね?」
「うん」
「飛べる……また、飛べるんだ。この空を……」
「なのは……?」
 震える声で独り言のように呟き、なのはがこちらを向く。大粒の涙を零しながら、それでもなのはの横顔には喜びの色があった。
「なのは……よく頑張ったね」
「ううん、わたしだけの力じゃないよ。フェイトちゃんやヴィータちゃん、シャマルさんや他のお医者さん達が助けてくれたから……何より、ユーノくんが助けてくれたからだよ」
「僕は何もしてないよ。なのはの努力が、空へ戻りたいっていう強い意志があればこそだ」
「ううん。あの時、ユーノくんがああ言ってくれなかったら、きっと今でもベッドの上だった……いつまでも自分に嘘をついて、それが我慢できなくて泣いてたと思う……もう一度羽ばたく勇気を、諦めないっていう不屈の心をユーノくんがくれたから。そして今日も、わたしに勇気をくれたから。だから、わたしはまた、飛ぶことができた。ありがとう、ユーノくん。わたし、ユーノくんに何てお礼を言っていいのか分からないよ……」
 礼なんて必要ない。それが欲しくてなのはに接してきたのではないのだから。ただ、なのはが笑顔でいられるように。それだけが望みだった。実感はあまりないが、なのはのためにできたことがあるのなら、それで十分なのだ。
「とりあえず話は後にしよう。このままってわけにもいかないし。下で待ってる人達もいるからね」
 まずはこの喜びを皆と分かち合おう。そう思って声を掛けると、
「あ、あの……ユーノくん。ちょっと、わがまま言っていいかな?」
「何?」
「あのね、できればゆっくり、降りてくれないかな……もう少し、もう少しだけ、空にいたいの」
 恐る恐る、といった感じでなのはがお願いしてきた。はやて達からは文句が出るかもしれないが、いいよと答える。
「そ、それと、ね? こ、この体勢だと、ちょっと腕とか痛いんだけど……」
 言われて自分が今もなのはを後ろから抱えていることを思い出した。力任せに確保している状態だ。それがそのまま、なのはへの圧力になるのは当然のことだった。
「あ、ご、ごめん! すぐに直すからっ!」
 左腕を離して素早く下へ。なのはの膝の裏を抱えるようにして持ち上げる。右腕は少し引いて、なのはの右肩を掴んで固定した。
「こ、これなら痛くない?」
「う、うん……少し……恥ずかしいけど……」
「あ……」
[ヒュー。やるねぇユーノ。まさかお姫様抱っこってやつを拝めるとは思わなかったぜ]
 事実を認識すると同時、頭の中に文字が走った。
[すっ、スプリガンっ!?]
[いいじゃねぇか。お姫様も満更じゃなさそうだしよ]
 どちらにせよ選択肢は限られているのだ。まさか正面から抱きかかえるわけにもいかない。あの体勢から自然に移行できる状態にしただけなのだから、やむを得ないことだ。深い意図は何もないのだ。
 相棒のからかいに抗議しながらもなのはを見ると、頬を染めた顔をこちらに向けていた。カッと顔が熱くなる。
「あ、あはは……」
「にゃ、にゃはは……」
 何かを誤魔化すように笑い合いながら、とりあえず飛行魔法を中断し、浮遊魔法へと切り替えた。これなら一定の速度で下まで降りられる。
「えーと、このくらいの速さならいいかな?」
「うん。ごめんねユーノくん。わがまま言って」
「いいよ。これくらい」
「ありがとう」
 なのはは顔をこちらから逸らし、空へと向けた。
 それに倣い、ユーノも空を見る。考えてみれば空のある場所で飛んだのは久しぶりだった。空ってこんなに蒼かっただろうか、などと考えていると、
「あれ?」
「ん、どうしたのなのは?」
「そういえばユーノくん、随分と髪、伸びたね」
 なのはにそう指摘されたので、自身の髪を見た。風に靡いている髪はそれなりに長い。男でここまで長い人は、そうはいないだろう。
「切りに行く暇もなかったし、伸ばすに任せてたからね。前髪とかは時々自分で切ってたんだけど」
「伸ばそうと思ってそうしてたんじゃなかったんだ。でも、それだけ伸びると無限書庫じゃ邪魔にならない? ほら、ぶわぁって広がっていきそう」
「実際、そんな感じかなぁ」
 ちょうど、風に流されるままになっている今のような感じだ。なのはの言うとおり、最近は少し邪魔に感じることもある。そろそろ、散髪に行った方がいいのかもしれない。
 なのははこちらの髪を見ながら何やら考えていたが、
「うーん……そうだ!」
 何かを思いついたのか、声を上げるとバリアジャケットを解除し、レイジングハートを待機状態に戻した。
「なのは? ジャケットを解除すると、この高空じゃ寒くない?」
「大丈夫だよ。ユーノくんが温かいから。それよりも――」
 平然と恥ずかしいことを言って、なのはがこちらの髪に手を伸ばしてくる。
「ちょっと、じっとしててね?」
 どうやらこちらの髪をまとめようとしているようだ。撫でるように梳きながら、髪をまとめ上げ――
「あの、なのは?」
 てはくれなかった。何故か延々と、髪を撫で続けている。
「あ、ごめん! 手触りがとっても気持ち良かったからつい……」
 誤魔化し笑いを浮かべながら、なのはは自身の髪を結っている緑のリボンを解いた。長い髪が風に晒され、舞う。そして、そのリボンをこちらの髪へと結びつけた。
「うん、これでよし。これならばらけないよ」
 いわゆるポニーテールという髪型だ。これなら確かに、あちこちに広がることはない。しかし、
「いや……でも悪いよ」
 これはなのはのリボンで、なのは自身の髪を結うものが無くなってしまう。こういう対処法があるのだと分かれば、後はどうとでもなる。ゴムなり紐なりで結えばいいのだから。
「大丈夫だよ。これはこうして、と」
 しかしなのはは言いながらもう一方のリボンも解いた。そして同じように一纏めにする。違うのは、後頭部の自分に対し、なのはは側頭部で纏め上げていることだ。サイドポニー、とでも言えばいいのか。
「ね? だから、そのリボンはユーノくんにあげる。本当は、もっとちゃんとしたお礼をしたいんだけど……今はこれが精一杯だから」
「ううん。嬉しいよ。ずっと大事にするから」
 申し訳なさそうに言うなのはに、正直な気持ちを返した。なのはが感謝の気持ちを込めてくれた物なのだ。文句など出ようはずもない。
「でも、似合ってるかな?」
 リボンで結ぶ、という発想はなかった。そもそもリボンは女性の装身具だ。最近では髪の長い男もしているのを見かけることがあるが、それが自分に似合うかどうかは別問題である。
「うん、似合ってるよ」
 しかしなのはははっきりと言い切った。自分ではこういうのはよく分からないが、なのはが言うなら間違いはないのだろう。
 嬉しそうになのはがこちらを見ている。そんななのはを見ているだけで、自分も嬉しかった。
(だから――)
 思う。この笑顔をいつまでも護りたいと。なのはにはいつでも笑顔でいてほしいと。
(だから、これからも)
 自分にできることをしていこう。なのはのためにできることを。なのはが望むことを。
(この笑顔を絶やさないように、全力を尽くそう)
 あらためて自身に誓い、地上に目を向ける。
 こちらに向かって抗議の声を上げているはやて達が見えた。
 
 
 
 
 
 後書き
 
 KANです。本編第7話。ようやっと、書き上げました……これで第4話に続き、書きたかった話がまた1つ消化されました。
 なのはさん、復活です。完全復活には今しばらくの時間を要しますが。
 とりあえず、なのはさんはこの後退院して海鳴へ戻ります。後は向こうでリハビリです。魔法のリハビリの時は本局へ来ますが。
 てことで、次の話は――どれにしましょうかね……まあ、書き上がったのからですか……
 ではまた、次の作品で。
 
 H22.10.7 加筆修正





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