“闇”の中に居る―――。 “闇”―――。 “闇”とは一体なんなのだろ―――。 光の届かない場所―――? 暗い場所―――? ここは白く――温かい――――。 “闇”は夜に仕え――夜は“闇”に君臨する――――。 故に“闇”の名を冠したその魔導書は――古き真名を“夜天の魔導書”と云った―――。 けれども彼方から溢れ出す白き“闇”は、夜の領域を削り取るかのようで―――。 それでも此処は“闇”と呼べるのだろうか―――? 此処―――? (ここは……どこや………?) 見渡す限りの白い“闇”―――。 それは別れのあの日を思い出す―――。 降りしきる雪―――。 冬の静寂―――。 白く――白く―――。 儚く白い“闇”のその奥から―――。 (―――!?) 風琴のように揺れる―――。 銀色の――髪―――。 (リインフォース……?) 紅い瞳が揺れている―――。 泣いているように―――。 憂いを帯びて―――。 (なんで――なんでそんな哀しそうな顔をするんや―――?) 問い掛けても――応えはない―――。 手を差し伸ばしても――届かない―――。 雲のように――風のように―――。 夜を見まもる月のように―――。 其処に在って――其処に無く―――。 (なんで……なんにも喋ってくれへんの……?) 涙―――。 止め処なく溢れ出す――胸の想い―――。 小さく――深く――切なく――熱い―――想いの滴―――。 (わからへん。教えてくれへんかったら、リインフォースが哀しい顔をしている理由が、わたしにはわからへん―――!) 伝えたい想いと―――。 叶わない願いと―――。 銀の髪が絡むように揺れて―――。 薄く――静かに―――白い“闇”に溶けてゆく――――。 それなのに――彼女の側に近付けない―――。 歩けない―――。 動かぬ足は――役立たずの足は――まるでそれ自体が枷のようで―――。 (待ってリインフォース! まだなんにも……一言も声を聞かせてくれてへんやんか―――!) 例え得られないと判っていても―――。 例え触れられないと判っていても―――。 ただ、一言―――。 せめて、もう一度だけ―――。 (リインフォース――――!) 夢から醒める――その前に―――。 貴女が願う――白き“闇”と瞳の意味を―――。 「リインフォース―――っっ!?」 飛び起きた瞬間、視界に差し込んできたのは――白い光と小さな影。 視界を埋める光の束は、思考の奥に詰った澱まで掻き乱すように眩しくて、はやては咄嗟に手を翳した。 「夢―――?」 はやては呆然と呟いた。 手を翳して固まったまま、心を落ち着かせるようにゆっくりと息を吐き出す。 リインフォースはもう居ない。それを誰よりも知っているのは、最後の“主”となってしまった自分自身。 だから今のはただの夢で、ここは――ここは―――。 「ここは、どこや……?」 戸惑いの言葉と眼差しが、見慣れぬ部屋の壁に虚しく弾かれた。 眩しいと感じていた明りにもようやく慣れはじめ、はやては指の隙間から周囲の様子を伺った。 機能的で、けれども簡素で殺風景な部屋は、もちろん八神の家ではなかった。 むしろ病院の個室に近く、そして少し現実離れした――まるでSF映画に登場する、宇宙船の医務室にも似ている。 慣れ親しんだ世界とは明らかに異質で、不安や不快感を感じるほどではないが、心が落ち着く場所でもない。 そしてそれ故に――はやては自分の居場所を、ほぼ正確に諒解した。 「管理局の医務室―――?」 まだ半分寝ぼけていた記憶が、少しずつ彩と像を結んでゆく。 次元世界と関わりを持つようになって以来、同じような部屋には幾度か脚を運んだこともある。 雰囲気的に考えても、まず間違いないだろう。 幸いにして、今日まで直接的なお世話になったことはなかったのだが―――。 「……そっか。結局わたしは、あのあと倒れてしまったんやな………」 誰もいない独りきりの部屋で、はやてはため息交じり呟いた。 呟きは、沈黙となって跳ね返った。 虚しさと、なにもできなかった不甲斐なさが蘇り、ずっと光を翳していた腕を下ろし―――。 不意に――気付く。 頭上に漂う、小さな影の存在に。 「え―――?」 目線を上げたはやては、そのまま石になったように硬直した。 “ソレ”がなんであるのか、瞬時にしてはやては理解をしたが、理屈が“ソレ”を否定する。 冷たい汗がドッと流れ、ドクン、ドクンと野太い鼓動が耳朶を打つ。 在り得ないはずだと――理屈が“ソレ”を否定する。 けれども心の最深部では“ソレ”を望む自分が居て、現実に“ソレ”はそこに在って―――。 虚空を漂う一冊の魔導書―――。 「なんで……リインフォースが………?」 「目が覚めたようでなによりだ、はやて―――」 「!?―――」 部屋の扉が静かにスライドして、声と一緒に黒衣の少年が入ってきた。 年齢よりも幼く見える顔立ちをした、少しばかり小柄な少年――クロノ・ハラオウンは、その面持ちに困惑を浮かべていた。 『闇の書』事件以降、なにかとお世話になっている若い執務官が、こんな顔を浮かべている姿は珍しい。 だが、目の前の状況を見れば、その理由も頷ける。 「早速で悪いんだが、状況が状況だ。少し話しておきたいことと、訊ねたいことが―――」 と、クロノが切り出した瞬間――緑の突風がクロノの背中を弾き飛ばした。 「はやてちゃん、目が覚めたんですかぁー!?」 飛び込んできたのは、シャマルだった。 自分が突き飛ばした黒衣の少年が、顔面から壁にメリ込んでいる光景を無視したまま、シャマルははやてに抱きついた。 「シャ、シャマル!?」 「はやてちゃん! はやてちゃぁ〜〜〜ん!! あぁ〜もう、心配したんですからぁ〜〜〜!!!」 「わ、わわ、シャマル落ち着き! まずは落ち着き!? ソレにクロノくんが―――」 壁からズリ落ち、今は床の上に転がってしてまった黒衣の少年。 その背中の上を、今度は烈火の踵が踏み潰すように駆け駆け込んで―――。 「主はやて―――!」 ゴキュ、という生々しい異音が、はやての顔から血の気を引かせた。 当然であろう。騎士甲冑を装着したシグナムのブーツは、ほとんど金属の塊に近いような構造をしているのだ。 「ちょ、ちょうシグナム!? 今のはとってもエエー音や――じゃなくって、いくらなんでも危険な音やろ!?」 「そんなことはどうでもいいのです! まだ独りで戦闘に加わるのは無理ですと、あれほど申し上げたではありませんか!」 「や、そんなことって―――今のはやっぱり、スゴイことになってると思うんやけど……」 「シグナムの言う通りアッチは放っておいても大丈夫です! 賭けてもいいくらいです!」 随分とオッズの高そうな賭けに、はやては乾いた汗を流した。 「それよりも怪我は!? 怪我の具合はいかがなのですか!?」 「そうですよはやてちゃん! 今ははやてちゃんの傷の具合の方が、よっぽど重要なんですから!」 血相を変えて詰め寄る2人に圧倒されて、はやての身体が3センチほど後退する。 一方で、クロノの横には褐色の肌をした寡黙な人狼が付き添っていた。 まるで同類を悼むような眼差しを伏せながら―――。 「……すまぬ。だが、彼女たちに悪気はない。だた、周りが見えなくなると、人を踏みつけても気付かない時がある。わたしも……家ではそうだ」 「その言葉は、背骨がへし折れたかと思うような痛みを感じたボクにとって、どれくらいの慰めの意味があると……?」 「慰めようなどとは思わぬ。だが、尻尾を踏まれる辛さは――決して勝るとも劣らない」 「そうか……。キミも苦労しているのだな……」 「………」 お互いに一瞥させた瞳の端から、世代と術式――種族すらも超えた、微細なシンパシーの光が繋がる光景をはやては視た。 不器用な彼らはきっと、傷を舐め合いたいのではない。 ただ――識って欲しかったのだろう。 自分という“魂”の立ち居地の、その在り処を―――。 (そ、そっとしておいた方が、ええんやろうか―――?) 無言で交わされる男の言語に、はやては乾いた汗を頬に流して―――。 そして、不意に気付く。 この場にいるべき顔ぶれが、1つ欠けていることに。 「ヴィータは……ヴィータはどないしたんや?」 シャマル、シグナム、ザフィーラ、そしてクロノ―――。 だがそこに、誰よりも真っ先に抱きついてくるはずの少女の姿が――ない。 そしてその名前が出た瞬間、部屋の空気が重く変わったことにも、はやては気付いた。 「なぁ、シャマル……。ヴィータはどないしたんや?」 自分の声が、不吉な響きであることを自覚しながら、はやてはシャマルに訊ねた。 「えっと、それは…あの………」 けれどもシャマルは、慌てて目線を外して―――。 「それにフェイトちゃんは? フェイトちゃんはどうなったんや!? この“本”は――このリインフォースは、なんなんや!?」 言いながら、徐々に感情の水嵩が昂ぶってゆく。 それは瞬く間に理性の堤防から溢れ出し、濁流となって騎士たちに向けられた。 「わたしが眠っている間に、何が起こっていたんや!? シャマル! シグナム! ザフィーラ! ちゃんと答えて!」 雷鳴のような金切り声が、部屋の空気を一瞬にして凝固させた。 全身を硬直させた騎士たちは、見えざる手によって後頭部を押さえつけられたように視線を下に向けた。 まるでそうする以外に、謝罪すべき方法を知らないかのように……。 押し黙ったままのそれぞれの胸に、無機質な時計の針だけが刻まれてゆく。 1分、1秒がもどかしいほどゆっくりと流れる、沈黙の回廊。 空気が鉛よりも重い回廊の中を、最初に突き破ったのはシグナムだった。 「主はやて、それは―――」 将に相応しい毅然とした眼差しではやてを直視し、シグナムは言葉を続けようとした。 だが、その口をクロノの腕が唐突に遮った。 「待った。今回のことはボクから話そう。既にコレは、キミたち個人だけの問題ではなくなる可能性が高い。 いや、現にその魔導書が出現した時点で、そうなっている。間もなく正式に、管理局が扱うべき“事件”として認定されるだろう」 「………」 はやての頭上に漂う魔導書に、全員の眼差しが集中した。 「だが、まずははやてにも判るように、順をおって現状を説明しよう。 キミがここ――管理局本局の医科棟に運ばれてきたのは、約11時間ほど前の事だ。 キミが受けたフィジカルへのダメージは比較的軽症で、シャマルの回復魔法も大きな問題にはならなかったのだが―――。 リンカーコアから異常を示す数値が検出されて、その原因を監査しようとした途端――ソレは出現した」 光り輝く白銀のベルカ式魔法陣と共に、ソレは現れたという。 クロノの口から語られた光景に、はやては『闇の書』の第一の覚醒を思い出さずにはいられなかった。 違いがあるとすれば、騎士たちの存在がすでに在るというだけで―――。 「じゃあ、やっぱりこの子は―――」 「その結論は、まだ早い。キミが気を失っている間に、ボクらだってただ驚いていたわけじゃない。 調べられる限り、ラボでその魔導書の中身を調べてみたんだが――ほとんど“空っぽ”だった」 「え―――?」 「幾つかの基礎的なプログラムファイルは見つかっている。いや、それはプログラムと呼ぶよりも魔術書としての 在って当然のプログラムばかりで、あの厄介な自動防衛プログラムや、転生プログラム、再生プログラムも見つかっていない。 もちろん1頁の“蒐集”も行われていなから、全ての頁は白紙のままだ。そしてキミが一番、気にしていることだと思うが―――」 「………」 「管制プログラムも見当たらない。つまり現状では、この魔導書は『闇の書』に非常に酷似した、ただの膨大な蓄積型のストレージだ」 「そんな―――!?」 管制プログラムが存在しない―――。 驚くべき言葉は、けれども同時にはやてをひどく納得させるものがあった。 繋がりを――感じないのだ。 この空虚な胸が――現実を受け入れようとしない自分の感情は、そこに起因しているのだろう。 つまりこの魔導書はクロノの語った通り、『闇の書』に酷似したストレージであって、それ以上でも以下でもない。 少なくとも、はやてにとっては……。 だが――だけれども―――。 ギュッと拳を結んだはやての耳に、今度は別の少年の声が被さった。 「ただし、基幹となっている魔力資質――リンカーコアや魔力の流れは、はやてと密接にリンクしていることは確認されているけどね」 「ユーノくん!?」 驚くはやての眼差しの先に、亜麻色の髪の少年――ユーノ・スクライアが苦笑して佇んでいる。 「おはよう、はやて。今、ラボの方は大慌てだよ。検査中に突然、その本がどこかに消えてしまった――って。 まぁ、現れるとすればきっとはやての元だろうと思って来てみたのだけれども、正解だったみたいだね」 「ユーノ。あれから何か、新たに判明したことはあるのか?」 「いいや。コレといって、特に。一応、仮説らしきものは組み上がってきているけど、なにせ調べている最中に消えてしまう本だからね……」 そう苦笑したユーノの顔には、疲労の影が浮かんでいた。 ただでさえ忙しい無限書庫の司書という仕事に加えて、不眠不休で調査に立ち会っていたのだろう。 「仮説でいい。訊こう。ユーノの見解で、この魔導者は一体なんなんだ?」 「もっとも可能性が高いのは――この魔導書は『闇の書』の“写本”だ」 「“写本”だと? 莫迦な―――!」 吐き捨てるように言ったのは、シグナムだった。 「そ、そうですよ! 『闇の書』に“写本”が在るだなんて、わたしたちだって聞いたこともありませんよ!?」 「『闇の書』は唯一にして一冊。それ以外に存在する道理など無いはずだが……」 シャマル、ザフィーラも口々に異論を唱え――ユーノは静かに頷いた。 「判っている。だけど、ひとつ勘違いしないで欲しい。“写本”といっても、この“写本”は遥か以前から存在していたワケじゃない。 もし、この“写本”が創られた起源を限定しようとするのなら、それはおそらくはやてが覚醒の第一段階を迎えた時だと思う」 「――それはどういうことなん?」 「つまり、これは『闇の書』のバックアップだと思うんだよ。 本体に“もしも”の時が発生した時に備えて用意されたバックアップファイルが、はやてのリンカーコアに隠されていた。 これは『闇の書』本体の転生機能とは独立して組まれた、おそらくはリインフォース本人も知らなかったプログラムだった可能性が高い。 それがリインフォースの完全消滅から約半年を経て、遂に再起動を果たした。何故、半年の時間が必要だったのかは、それも正確には判らないけど。 元々、それくらい修復時間が必要だったのかもしれないし、本来はパスコードを入力しない限りずっと再起動しないシステムだったのかもしれない」 「パスコードを入力って、まさか―――!」 騎士たちの瞳が驚きに歪み、はやては自分の胸を呆然と眺めた。 「まさか、あの時に―――」 屈辱的な戦闘の後、胸のリンカーコアに腕を突き入れた様子を思い出し――はやては顔を蒼ざめさせた。 あの時、彼女はリンカーコアの中に『闇の書』を隠していないかと、確かにそんなことを言っていた。 その本当の意味が――或いはコレだったのだろうか? もしくは、あの時に“写本”を生成する仕掛けを打ち込んでいたというのなら―――。 「可能性はある、としか言えない。そもそも自分をコピーして“写本”を創る機能があるだなんて、これまでの記録には一度だってないんだ。 だからこれ以上のことは、もっと詳しく調べないとハッキリとは言えないんだけど……」 申し訳なさそうにユーノが表情を曇らせると、その肩を労うようにクロノが叩いた。 「いや、記録がないのは仕方がない。第一、これまでは1人の例外もなく、『闇の書』よりも先に主の方が死んでしまっていたんだ。 いくら無限書庫とはいっても、存在しない記録を探しても成果は期待できないだろう……。今の意見でも充分、参考にはなった。ありがとう」 「すまない……」 ――と、謝罪の言葉を口にしたのは、シグナムだった。 「我らの転生前の記憶が曖昧なばかりに、主にも管理局にも迷惑を掛けっ放しだ……。 前回といい今回といい、『闇の書』とその主の守護騎士を名乗っておきながら、なんとも不甲斐ない話だな……」 「いや、それもキミたちが責任を感じる話じゃない。責任を感じて落ち込む前に、キミたちにはすべきことが幾つも残されている」 「……そうだったな。我ながら、埒もないことを言ってしまった」 言って、シグナムは自らの怒りを切り替えるように、腰に吊り下げたレヴァンティンの柄に手を触れた。 擦れた切羽が澄んだ音色を響かせて、はやては電流に打たれたようにシグナムを見やった。 今になってようやく、はやては気付いた。 シグナムやシャマル、ザフィーラが局内にも関わらず、騎士甲冑を纏っている理由を。 護ってくれていたのだ―――。 はやてがずっと気を失っている間、安全であると判っているはずの本局内ですら、彼らは武装を解かなかったのだ。 騎士甲冑を常に纏い続けることは、例え彼らのような一流の騎士であっても負担である。 それでも自らを“剣”として“楯”として、彼らは常に傍らに控えていたのだろう。 そんな彼らに労いの言葉ひとつなく、自分は一時の感情から見っともない声を張り上げてしまったのだとしたら―――。 「シグナム……シャマル……ザフィーラ………ちょう……」 「はい」 「なんでしょう」 「………」 手招くと、神妙な面持ちをした騎士たちが並ぶ。 どのような罰でも賜ろうと、そんな決意すらしていることは明白で――はやては自分の情けなさに、憤りすら感じた。 「さっきは……わけもわからんまま叱ってしまったりして……ごめんな」 「いえ、決して主が謝るような―――」 ハッと顔を上げるシグナムを制し――その赤い前髪を、そっと撫でる。 「いいんや。さっきのはやっぱり、わたしが間違ってた。皆に心配かけてしまって、それやのに……ホンマにごめんなさいや」 「……いいえ。あなたが謝るようなことではありませんよ、主はやて。そのお言葉を賜っただけでも、我らは充分なのですから」 「そうですよ、はやてちゃん。こんな時くらい、本来の役目を果たさせて下さい」 「主の御身を心配するのは、我ら守護騎士に与えられた特権であれば……。この権利、主命であろうと返上いたしたくはありません」 「……そっか。そうやったな。せやったら、感謝の言葉は言わせてな。――ありがとうな、みんな」 「――はい」 差し出した手をシグナムが掴み――頭を垂れる。 それで全てが済むわけでもなく、また済んでいいとははやても思わない。 けれども、これ以上は誰も望まない。この胸にトゲのような罪の意識が疼くというのなら、それこそが“罰”だと受け容れよう。 主としての自分の使命は、騎士たちを幸せにすることであって、哀しませることではないのだから。 「なぁ、クロノくん。この魔導書のことも気になるけど、フェイトちゃんとヴィータはどうなってるんや?」 「フェイトなら大丈夫だ。あの子ははやてとは逆に、大きなフィジカルダメージを負ってしまったけど、シャマルが直ぐに治癒してくれたからな」 「そっか……。ありがとうな、シャマル。ご苦労さまや」 「いいえ。治癒はわたしの本領ですから♪」 シャマルはニコリと微笑んだ。 「まだ意識は回復してませんけど、なのはちゃんが側で看病していますから心配要りません。全快には、1週間ほど掛かっちゃいますけど……」 「そっか……。じゃあ、ヴィータもやっぱりやられてしまったんか?」 「いえ、それが、その……」 と、またしてもシャマルは言いよどみ、はやては重い空気を肌の上に感じ取った。 けれども、今度は叱らない。 真っ直ぐにシグナムを見据え、彼女が言葉を紡ぐのを待つ。 「――実は、戻らないのです」 そんなはやての眼差しを受けて、シグナムはハッキリと応えた。 「戻らへん――って?」 「言葉の――通りです。貴女を襲った襲撃者を追撃したまま、行方がわからないのです」 「行方がわからないって、そんな―――!?」 「あのテスタロッサを手玉に取るような相手です。ヴィータであっても苦戦は免れないでしょうが――やられたとは、正直思えません。 仮に撃墜されたのなら、少なくとも周辺にその痕跡くらいは残るはず。ですが、それすら見当たらないとなると―――」 「捕まってしまったっていうんか、ヴィータが!? せやけど、なんで―――」 何故―――。 その言葉を、はやてはグッと堪えた。――否、咽の奥まで無理矢理呑み込んだ。 特別捜査官候補生としての自意識が、ともすれば暴発しそうになる感情を抑え、鋭利な知性を働かせるように努めさせたのだ。 ヴィータが心配ではないから――ではない。ヴィータが心配だからこそ、冷静に状況を考えなければならなかった。 仮にヴィータを連れ去ったというのなら、少なくとも相手には交渉をする意思があるということだろうか? 交換材料――もしくは人質―――。 その時、要求されるものが“写本”である可能性は、おそらく否定できないだろう。 彼女は『闇の書』が破壊されたことを 「クロノ 敢えて執務官と呼ぶことで、はやては自分を奮い立たせた。 今はベッドの上に居る自分でも、有事に際していつまでも取り乱したままの少女ではいられない。 そう成る自分を、はやては選んだのだから。 「保留中――だ。現状では、まだ判断材料が揃ってない。だが、破壊の方向で進むと思う。それは覚悟しておいて欲しい。 “写本”だとしても、あの『闇の書』の“写本”だ。今は無害なストレージでも、時を置けば防衛プログラムを自己構築する可能性さえある」 「――せやろうな」 はやては頷いた。 あの時も――暴走したプログラムから解放したリインフォースですら、自らの中で再びプログラムが暴走することを恐れた。 そうなる可能性が限りなく100%に近かったからこそ、彼女は自らの破壊を願ったのだ。 ならば、この“写本”にも同じ現象が起こる可能性は、充分すぎるほど高いだろう。 そうなったら――聖夜の悪夢の再現は避けられない。 「だから――恨んでくれてもいい。それでも危険なプログラムが構築される前に、破壊するのが一番なんだ」 「判った。この本に関しては、クロノ執務官の判断に委ねます」 「主はやて――!?」 「ほ、ほんとうにいいんですか!?」 はやてが栗色の頭を垂れると、真っ先に驚きの声を発したのはシグナムとシャマルだった。 「もちろん、ええわけがないやんか―――」 泣きそうな笑顔で、はやては言った。 「他に方法があるんやったら、わたしは死んでもこの“魔導書”を護る。せやけど、他に方法がないのはあの子が教えてくれたことやんか。 リインフォースに……あの子に自己破壊の道を選択させてまで、受け取った未来と意思を台無しにするような選択は、わたしにはできへん」 「主はやて……」 「鬼というんやったら、そう呼んでくれてもええ。せやけど、これは絶対や」 「いいえ。我らも想いは同じです。――正直、どうやって主を説得しようかと悩んでいましたので、主のお言葉が少々意外だったのです」 「でも、はやてちゃんの言葉を聞いて、より決意が固まりました。この“写本”を破壊するのが罪だというのなら、その罪はわたしたちも承ります」 「主の―――」 「主の罪を背負うのも、守護騎士としての特権にございますれば――か?」 「――御意」 言葉の先を制されたザフィーラが恭しく頭を垂れ、シグナムとシャマルがそれに倣った。 「なら、決まりだな。正式に命令書が発行され次第、この“写本”は破棄する。尚、その場に立ち会う意思はあるか? 『夜天の王』とその守護騎士たちよ?」 「無論や。――っていうか、それが最低限の条件や」 「了解した。では、その方向でボクも動く。ただ、厄介なのは襲撃者の正体と、その目的だ。 彼らの狙いがこの“写本”だというのなら、必ず次のアクションを起こす。それも近い内に――だ」 クロノの言葉に、全員が頷く。 向こうも“写本”が破壊される可能性くらいは、考慮に入れているだろう。 そうなる前に仕掛けてくる可能性は、充分にある。 「もっとも、この管理局本局を襲撃するとなると、一国の軍隊でも動員しない限り、まず目的は達成されないだろうけどね」 と、不意にクロノは硬くなった表情を崩す。 年齢とは不釣合いだった鋭い顔つきが、一瞬だけ少年のソレになった。 だが、直ぐにまた表情を引き締めると、そこには再び時空管理局執務官の顔が現れる。 因果な職業だと、はやては思った。 だからこそまだ少年でしかない年齢であっても、彼が信用に値する人間なのだと強く再認識できる。 そしてもう1つ思う。 そんなクロノの横顔が、共に戦った時のフェイトの面影とよく似ている――と。 笑った時の柔らかさと、なにかに立ち向かう時の燐とした眼差しが、特に。 2人の間には全く血の繋がりはなく、正式に家族になったのもまだ数ヶ月足らずであるというのに―――。 心のかたちが、そのまま眼差しの奥から浮かび上がっているかのように、ソックリだった。 「じゃあ、手続きと平行してヴィータの捜索体制を強化してくる。八神はやて特別捜査官候補生は、現状のまま待機していてくれ。 それから“写本”は預けておく――というより、勝手にキミの元に転送してしまう以上、ボクらが預かるだけ無意味だろうから」 「は、はい。了解しました。――ヴィータのこと、よろしく頼みます」 「ああ、任せておいてくれ」 はやては深々と頭を下げた。 なにもできない自分に代わって、大切な家族の捜索に力を貸してくれるクロノに向かって。 ヴィータ―――。 誰よりも一番懐いてくれていた赤毛の少女を、今は無事だと――無事でいてくれるはずだと、信じるしかなかった。 強い子なのは知っている。一途で、なにがあっても諦めたりするような子でないことも、知っている。 ヴィータは強い―――。ただ、その強さは自分を傷つけてしまうことすら躊躇わない、余りにも一途すぎる強さ。 だから、余計に心配になってくる。 ヴィータが自分を省みずに無理をする子だと、判っているから。 本当は直ぐに飛び出して、自分の手で探したいと――そう渇望する自分が居る。 けれども、それは赦されない。それがどれほど多くの人間に迷惑を掛けてしまうのか、容易に想像がつく。 ただの迷子や、家出少女を捜索するのとは、わけが違うのだ。 相手は管理局の人間と知って襲ってくるような存在で、既に“エース”といっても過言ではないフェイトをすら撃墜するほどの強敵で―――。 「………」 自分も実際、手も足も出なかった相手だ。 未だに無力な自分の“力”を、これほどまでにもどかしく感じたことはない。 もし仮にこの“写本”が本物で、リインフォースが健在であってくれたのなら、本当に飛び出していただろうに―――。 「それからユーノは引き続き、可能な限りの多角的な情報収集を頼む。 戦っている相手の素性でも目的でも、とにかく相手の顔も見えてこないような捜査は、どうにも不安でやりにくい」 「判った。じゃあ、さっそくもう一回情報を洗い直してくる―――って、ちょっと待って。なのはからの念話が―――」 その瞬間、ユーノの顔に全員の視線が集まった。 「うん――うん―――。それで――うん――コッチも大丈夫――うん―――わかった。直ぐにソッチに行くから」 「………」 「なのはから、フェイトちゃんが無事に目を醒ましたって。皆に心配かけて、申し訳ないって。それからはやて―――」 「は、はい?」 「護りきれなくって、ごめんなさいって。直接謝りたいことと、どうしても伝えておきたいことがあるから来て欲しい、だって。 それからできるなら、守護騎士の皆にも来て欲しいそうなんだけど――大丈夫?」 「も、もちろんや! ――あたたた」 「ああ、はやてちゃんも無理はダメですよ! テスタロッサちゃんに比べたら軽症だ、ってくらいなんですから!」 「う、うん、わかった……。せやけど、逢いにいかなあかんのや。わたしかて、フェイトちゃんには謝らんといかん。そうやろ?」 「はやてちゃん……」 「では、お供します主はやて。テスタロッサもそれを望んでいるとあれば、尚更です」 シグナムは力強く断言した後、不意に表情を崩した。 なにも心配はいらないと、その穏やかな眼差しは語っていた。 ザフィーラは無言のまま、部屋の片隅に置いてあった車椅子の準備している。 「うん、じゃあ、みんなで連れて行ってくれるか? ひょっとしたらフェイトちゃん、なにか手掛かりを掴んでいるのかもしらへんし」 だからこそ直接逢いたいだけではなく、守護騎士を呼んだではないのだろうか―――。 その疑問が、軋む身体をベッドの端にまで移動させた。 シャマルとシグナムの手を借りながら、どうにか車椅子の上に腰を落ち着ける。 「ボクも一緒に行くよ。新しい情報は、少しでも欲しいから」 「うん。ユーノくんも、そうして」 はやての車椅子に、ユーノも付き添う。 1人と3人――そしてもう1人。 合わせて5人は、フェイトの病室に向かって移動する。 車椅子の少女の膝の上に鎮座する“写本”に、漠然とした不安を胸に抱きながら―――。 突如としてはやての前に現れた、『闇の書』を知る謎の襲撃者―――。 誰一人として知らなかった“写本”の存在―――。 そして―――。 (ヴィータ………) この場にいない大切な家族の名を刻み、はやては“写本”の表紙を指先で撫ぜる。 その感触は誰にとって望ましいことなのか、かつての『闇の書』と全く変わらないもので―――。 「リイン……フォース………」 夢に見たばかりの少女を、はやては無意識の内に唇に乗せた。 その呟きは乾いた廊下の大気を揺らして、他の4人の聴覚にまで確かに届いた。 けれでも、誰もなにも言わなかった。 それが優しさのためか、それとも戸惑いのためなのか、誰1人として明瞭な回答を持ち合わせてはいなかった。 そこは適度に気温と灯りを調整された、けれども殺風景な場所だった。 綺麗に手入れの行き届いた狭い牢屋―――。 そんな意味不明の言葉が思考を過ぎったが、ソレを否定する材料も見当たらない。 「まぁ、寒くねぇーし汚くもねぇーし、そういうところはありがたいんだけどよ……」 頭上からジャラリと、金属の重なる耳障りな音が落ちてくる。 そして足元に視線を落とせば、証明の代わりにもなっているミッドチルダ式の丸い魔法陣が、深い紫の魔力光を放っている。 任意の空間の魔力結合を阻害するサークル型の結界であるらしく、一切の魔法が使えない。 おかげでこんな鎖1つ、引き千切れない―――。 散々暴れた結果、擦り切れた手首からは血が滲み出ていた。 だが、そんなことはどうだっていい。 足元には、ウサギの人形が縫い付けられた大きな帽子が、無造作に転がっている。 コレは――できれば回収したい。 とはいえ、両手を鎖に繋がれてバンザイしかできない格好では、どうすることもできなかった。 「―――ハァ〜」 そしてヴィータは、不貞腐れたように大きなため息を吐き出した。 このため息が、もう何度目になるか判らない。 ついでに言うならアレからどれくらいの時間が流れたのかすら、ヴィータには判らなかった。 「ちきしょう……。グラーフアインゼンも取り上げられちまったし……はやて……心配してるだろうな……」 心配を掛けるような危ないことをしてはいけないと、何度も言い聞かされてきた。 でも、今回ばかりはどうにも自分を抑えることができなかった。 他の誰でもない、八神はやてをあの女は襲ったのだ。 それを見逃すことなんて、ヴィータには死んでもできることではない。 ただ――その結果がコレである。 自分の身よりも、はやてに心配を掛けてしまっていることの方が、ヴィータには不安だった。 「にしても、何者なんだよあの女……。やたらと強くて速ぇーし……。つーか、あたしの闘い方のクセとか、一々知ってやがったし。 それにこのミッド式の魔法陣。あの女はベルカ式だったから、この結界を造ったヤツは別にいるってことかよ――クソッ」 そもそも生け捕りにされたのも、ミッド式のバインドだった。 それも遅延発動式のバインドで――要するに、自分は上手く吊り出され、捕縛されたということだ。 「……あれ、待てよ? つーことは、最初っから狙いはあたしだったってことなのか?」 ヴィータは首を捻った。 人に恨まれる覚えは――まぁ、ないと言い切れるほど厚顔にはなれないが、ここまで周到なワナを仕掛ける相手とは誰なのか? それに今では一応、罪滅ぼしの従事とはいえ管理局に仕えている身だ。 それを知って襲ってきたというのなら、管理局をも敵に回す覚悟があるというこのなのだろうか? もしくは単に、恨みを晴らすことができれば後はどうなってもいいと考えているような、短絡的な犯行なのだとしたら―――。 「!っ―――」 不意にヴィータは人の気配を感じて、険しくした双眸で正面の扉を睨む。 「……久しぶりだな、“紅の鉄騎”ヴィータ」 入ってきたのは50歳を少し越えた程度の、初老に差し掛かった男性の魔導師だった。 白髪の髪や顔の皺は、彼の積み重ねてきた歳月の長さを物語っているが、その相貌は精悍といってもいいだろう。 瞳には復讐者が持つ狭窄した光は感じられず――むしろ対極ともいうべき、確固たる意思と知性が漲っている。 「誰だよ、テメェーは。ふざけた真似をしやがって、あたしを直ぐにここから出しやがれ!」 「まぁ、そう暴れるな。直ぐに熱くなるなと、いつも“烈火の将”から注意されていたであろうに――全く、変わってないな」 「うっせぇー! お前なんかに、ンナことを言われる筋合いは―――」 ――ない。そう、ないはずだった 少なくとも初対面の相手から“紅の鉄騎”や“烈火の将”などという二つ名で呼ばれることなどは――――。 この二つ名は『闇の書』の管制プログラムだけが、騎士に対して使う名称だ。 今となってはそれを知っているのは、騎士たち本人と主はやて、そして数名の近しい知人のみ―――。 だが、目の前の魔導師は、その二つ名を口にした。 しかも、久しぶりなどと、まるで以前に一度逢ったことがあるかのように……。 「まさかじぃーさん――11年前の『闇の書』事件の関係者なのか?」 「いや、違う。私が関わったのは30年前の話だ。しかし、覚えてはおらんのだな。やはり転生されれば、記憶ファイルは破損を受けるらしい」 「30年前って――な、なにを言ってるんだよ、アンタは……」 初老の魔導師の反応に、ヴィータはたじろいだ。 元々、海鳴の老人たちに可愛がられている関係から、老人に対しては敵意を削がれるヴィータだったが、この男はソレだけではない。 そもそも敵意そのものが、ヴィータには感じ取ることができないのだ。 向けられているのは敵意とはほど遠い、老人特有の追懐の眼差し―――。 だが、そんな眼差しを向けられるいわれを、ヴィータは知らない。 「っ―――!」 ヴィータは強く頭を振った。 相手が誰であろうと関係ない――が、もし誤解をしているようなら、それは解いておきたかった。 そうすることで無用の流血が避けられるなら、それに越したことはないのだから。 「おい。30年前の事件だってんなら、今のあたしの主は――八神はやては無関係だろ? じぃーさんがどんな恨みを持っているのかは知らねぇーけど、はやてを巻き込むのは止めてくれ。頼むから」 「恨みだと? そんなものはない。ただ、私を突き動かすのは“望み”だけだ」 「はぁ〜〜〜?」 望みと、この初老の魔導師は確かに言った。 時々、『闇の書』の性質を勘違いして、望みを叶えるための道具として『闇の書』を欲する輩が現れる。 彼らは例外なく勝手に身を滅ぼすわけだが、目の前の魔導師もそんなマヌケの同類なのだろうか? 本来なら、勝手にしろと吐き捨てたいところだが――流石に気が引けた。 破滅の坂を真っ逆さまに転がり落ちてゆく老人の姿を見るのは、決して愉快な光景ではないだろう。 なによりも老人を見捨てて死なせたとあっては、騎士として目覚めが悪すぎる。 ヴィータはため息交じりに言った。 「あのなぁ、じぃーさん。じぃーさんがなにを望んだって『闇の書』は応えてくれねーっつーの! 大体、もう『闇の書』は消滅しちまったんだ。信じちゃ貰えねぇーかもしんないけど、『闇の書』は―――」 「『闇の書』は消滅した。雪の朝――管理局の魔導師たちの儀式によって、自ら消滅の道を選んだ――そういいたいのかな?」 「なっ―――」 老人の冷笑を浴びて、ヴィータは絶句した。 この老人は――知っているのだ。現在の“主”と“騎士”と『闇の書』が辿った物語を―――。 それでいて尚、『闇の書』を手に入れようとしているというのなら、狂っているとしか言いようがない。 だが、この老人からは一切の狂気が伝わってこない。 つまり彼は冷静で、客観的な事実として『闇の書』の消滅を知り――ごく当たり前のように、『闇の書』の入手を願っている。 その矛盾にヴィータは底知れぬ寒気を感じた。 「悪いがお前たちの知っていることで、私が知らぬ『闇の書』の事実は1つもない。例えお前が、ヴォルケンリッターであろうとな。 そればかりかお前たちの知らぬ事実ですら、私は幾つも知っている。例えば―――」 彼は、語った。 彼が知っているという『闇の書』の真実。 そしてこれから起きる出来事と、その結末の全て―――。 それはヴィータをして驚嘆させるには充分であり――故に、俄かには信じ難いものであった。 「なっ!? う、嘘だぁ! そんな話をいきなり言われたって、信じられるわけねぇーだろ!」 ヴィータは叫んだが、その声に含まれた怯えの色を完全に隠し切ることはできなかった。 それは、ちょうどあの時の感覚に似ていたからだ。 これではやてが助かると、ただそれだけを信じてリンカーコアを“蒐集”していた、あの時の違和感と―――。 あの時も、ヴィータだけが感じていた。 なにかがおかしいと、こんなハズじゃないという心の声を―――。 覚えていないはずの記憶が、必死になって警鐘を鳴らしていた。 あの声と同質の焦燥感が――老人の話と重なって、ヴィータの胸を焦がすのだ。 「真実の前には、我が言葉の真贋などは問題にもならん。どうしても確かめたいというのなら、その目で確かめてくることだ」 男が腕を翳すと、足元の魔法陣が忽然と消えた。 同時に手首を繋いでいた鎖も外れ――ヴィータは呆然と、彼に襲い掛かることも忘れて立ち尽くした。 「だが、これだけは覚えておくがいい。これが『闇の書』を“真なる主”の元に還す、最後のチャンスなのだということを。 ヴォルケンリッターが本来仕えるべき相手は、『闇の書』そのものであり、その真の主となるべき器なのだと―――。 それ以外の仮初の主など――ましてや『闇の書』の破壊を望むような輩に、真に仕えるべき価値も意味もない」 瞬間、ヴィータは自分の呼吸が止まるほどの激昂に駆られた。 老人が口にした言葉は他でもない、現在の主がその器ではないと、痛烈に嘲笑してのけたのだ。 現在の主――つまり、八神はやてをだ。 「テメェ! それははやてに対する侮辱か!」 怒声を発したヴィータの全身から、恐るべきほどの殺気が迸った。 「それを確かめてこいと言っているのだ、“紅の鉄騎”ヴィータよ。幸いにして、お前は他の騎士よりも感受性が高い。 使命感に捉われ過ぎる“烈火の将”や“蒼き狼”では、こんな会話すら成り立たぬ。 お前をここに呼んだ理由も、その真実を見極める能力があるからこそだ」 「だからって、誰がお前なんかに手を貸すかよ! はやては本当にあたしたちの主だ! 誰もはやての悪口なんかは言わせねぇ!」 「それも同時に見極めてくることだな。見誤ればお前たちを創造した『闇の書』は、何度も何度も破壊されてしまう運命のままだ。 再生の度に呪いを振り巻き、怖れられ、憎まれ、永遠と続く夜は終わらぬ。それでも構わぬというのなら、好きにするがいい。 それからこれもお前に返しておこう。私が持っていたところで、役には立たぬからな」 魔導師の腕に光が集い、それはヴィータの見慣れた鉄槌を形づくった。 「グラーフアイゼン……」 「破損箇所は修復しておいた。無論、おかしな細工はしていない。信じる、信じないかは自由だがな」 ヴィータは無言で、まるで新調されたかのような輝きを放つグラーフアイゼンを握った。 手に馴染むグリップの安定感と感触は、決して間違うはずもない、ヴィータの相棒のものだった。 「じぃーさん。あんたは一体……」 「救われぬ連鎖を断ち切り、『闇の書』に真の力を振るう機会を与えてやりたいと本気で願うのであれば――判っているな?」 静かな――ただ静かな眼差しが、ヴィータを見下ろす。 それはヴィータの見たことのない眼差しだった。 圧倒的な信念を元に、ただ一冊の魔導書のために己の生を費やすれば、或いはこんな眼差しができるのだろうか? ヴィータは押し黙ったまま、老人の横を通り過ぎた。 怒りは納まらなかったが、内なる声もまた納まることもなかった。 「内なる声の願いを叶えたいのなら、このグラナートの元に戻るがいい。その方法を知っているのは、唯一、この私だけなのだからな」 老人とは思えぬ張りのある声が、ヴィータの後ろ髪を微かに引いた。 |