フェイトはベッドに横たわったままの状態で、はやてを待っていた。 「ごめんね、はやて。わざわざ呼びたてたりして……」 「それはええんやけど、傷の具合はどないなん?」 「うん。……まぁ、大丈夫だと思う。これくらいの怪我、へっちゃらだから」 ぎこちないその笑みに、はやての胸がちくりと痛む。 困ったような、照れたような――微妙な成分を含んだ笑み。 腕に刺さったチューブの束が音もなく揺れ、痛々しいその姿の裏側に隠させたものをはやてに気付かせる。 かつて何度も入退院を繰り返してきたはやてには、判るのだ。 そしてそんなフェイトの笑みに眉根を曇らせ、何かを言いたそうな目を向けるのが親友のなのはであり―――。 「フェイトはさぁ、もうちょっとくらい休んだ方がいいよぉ。怪我した時くらいはさぁ」 悼むような眼差しを浮かべて、アルフがベッドの上に身体を乗り上げる。 2人はフェイトの微笑みの奥に隠されたやせ我慢に、肌で不安を感じているのだろう。 はやては2人ほどフェイトとの交友は永くはないが、かつての境遇からなんとなく判る。 だからはやては、フェイトの腕をそっと握った。 触れれば壊れてしまいそうなほど細いフェイトの腕は白く透き通っていて、とても漆黒の戦斧を振り回す腕とは思えない。 けれども自分は、この腕に護られたのだ―――。 はやては瞳を少し和らげ、落ち着いたリズムを刻むフェイトの鼓動を指先で感じながら言った。 「ありがとうな、フェイトちゃん」 フェイトは一瞬、はっとしたように瞳を丸くした。 ほんの僅かの空白と、静寂。 そしてフェイトは瞳を和らげ、コクリと頷く。 「うん……」 薄く瞼を閉じたフェイトの胸が薄く上下して、微かな吐息が静寂を揺らした。 そして消え入りそうなほどの小さな声で――フェイトもまた「ありがとう」と呟く。 どこか張り詰めていたような印象がすっと消え、先ほどよりも幾分穏やかな微笑がフェイトの表情に戻っていた。 ――と、その微笑が不意に曇る。 「けど、ごめんねはやて……。はやてのことを護るっていっておきながら、こんなザマで……」 「それをいうんなら、わたしかて同じや。援護くらいならできる自信はあったのに、なにひとつできへんかった」 「うん……。正直、思っていたよりもずっと強かった」 「そやな……。油断した……なんて、いいわけなんやろうけど、とにかくあの子はわたしたちよりも強かった」 思い出し、はやては拳を握った。 瑠璃の魔力光を放ち、フェイトをすら翻弄し――自らも成す術もなく敗れた、ベルカの騎士。 握った拳が、微かに震える。 戦慄が――蘇る。 「そのことなんだけど……。あの子ことで少し気になることがあって、はやてとシグナムたちに来てもらったの」 「うん……?」 「あの子――自分のことを“エリス”って呼んでいた。ヴォルケンリッター“瑠璃の閃光”エリス―――って」 「なっ―――」 「なんだそれは!?」 峻烈な声が、はやての背中越しに爆発した。 驚いたはやてが振り向くと、燃え立つような紫光を放つシグナムの瞳が在った。 射るような眼差しは無論、はやてやフェイトに向けられたものではない。 が、それ故に虚空を貫く矛先は鋭く、激しい怒りが烈火となって噴き上がった。 「ヴォルケンリッターだと!? ふざけた真似を―――」 吐き捨てた声は、シグナムの中にある“ヴォルケンリッター”という称号への自負なのだろう。 はやてですら初めて目にするようなシグナムの怒りの焦点は、全てそこに集約されていた。 “ヴォルケンリッター”―――群雲の騎士。 かつては『闇の書』に仕えた守護騎士は、けれども今ははやて個人に忠誠を誓う騎士であり、誰よりもその幸せを願っている。 その自負と誇りが、シグナムをして感情を極度に沸騰させていた。 そしてそれはシグナム1人ではなかった。 「―――冗談にしては、随分とたちが悪いみたいね」 湖面を白く染める真冬の朝霧のような冷やかな笑み―――。 冷笑――と呼ぶにはあまりにも悪意の成分に満ちた声は、酷薄な三日月を描くシャマルの唇からこぼれ出た。 シグナムとは対照的な輝きを宿す紫水晶の瞳は、触れれば切れそうなほど――冷たい。 「……我らが称号も、安くなったものだな」 淡々と呟くザフィーラの言葉は短く、けれども自嘲気味に揺れる言葉から滲み出すのは、等しく“怒り”―――。 この場に居合わせる守護騎士全員が、あの瑠璃の騎士――エリスに対して不快感を抱いていた。 それは“主”であるはやてを傷付けられたことに対する純粋な怒りと、彼らの誇りとする“ヴォルケンリッター”の名を穢された屈辱。 両者の微妙なブレンドが、騎士たちの怒りを危険な水準にまで高めているのは明白だった。 「じゃあ、やっぱりシグナムはエリスという騎士に覚えはないんですね? 5人目のヴォルケンリッターも―――」 「当たり前だ! そんな名前の騎士など初めから存在しない! ヴォルケンリッターは、常に我ら4人だ!」 「ましてやはやてちゃんを傷つけるだなんて、ヴォルケンリッターのすることじゃありません!」 「……茶番だな」 「みんな……」 そんな騎士たちの反応がはやての胸に吹き込むものは、喜びでもあり――戸惑いでもあった。 大事にされていると、改めて実感する。同時に、彼らの深い部分に根付く攻撃性は哀しくすら思える。 今、この瞬間、あのエリスという少女が目の前に現れれば、騎士たちを止めことはきっとできない。 自分は彼らに、本当は今でも戦うことを止めて欲しいというのに。 管理局の仕事に従事する以上、それは叶わぬことだと理解はしているものの、それでもはやては穏やかな生活を望んでしまう。 「……ん? あれ? でも、ちょう待ってや」 不意に、はやての思考に奇妙な疑問が掠めた。 騎士たちのことは、少し置いておく。 本当は置いておけるほど軽い問題ではないと承知の上で、はやてはもう1つの問題に思考をシフトする。 エリス――瑠璃の閃光―――5人目のヴォルケンリッタ――――。 これと同じキーワードを、最近どこかで耳にしなかっただろうか? 「“瑠璃の閃光”エリスって……そんな、まさか………」 「ユーノくん?」 唐突に呟きに、部屋の視線が亜麻色の髪の少年に集中する。 思うところがあるのか、軽く結んだ右手で口を押さえるユーノ。 なにを考え込むような彼の仕草に、はやては小さな声をこぼした。 「あ……」 ユーノ――そう、ユーノなのだ。 聞き覚えのあるキーワードは、彼の口から聞かされた言葉であったのだ。 だが、果たしてそんなことがあるのだろうか。 あれは物語の――それも30年前の話ではなかったのだろうか? それが何故、今になって―――? 「エリスという少女だけど、ボクの方に少し心当たりがある。調べてみれば、何か判るかもしれない」 「本当なの、ユーノくん!?」 「本当だよ、なのは。もっとも、それが“正解”かどうかは判らないけど、調べてみる価値はあると思う」 「しかし……我らヴォルケンリッターの名を勝手に語るような姑息な輩とはいえ、テスタロッサを一方的に手玉に取るとはな。 気に入らぬ相手であることには変わりないが――侮れぬな。実力だけは騎士クラスということか」 舌打ちするシグナムの胸裏は、色々と複雑であるのだろう。 その所業は赦しがたいとはいえ、好敵手と認めるフェイトを一方的に負かせた実力には興味がある。 はやての瞳には、そんな風に映った。 「疾い――とても疾い相手でした。一撃の重さはシグナムには劣りますけど、その疾さと熟練した身体の動きにわたしは翻弄されました。 それにあの子、わたしとシグナムについて、なにか知っているような口ぶりでした。 シグナムが貴女を気に入るワケがよく判る。その澄んだ太刀筋はきっと彼女の心を躍らせたのでしょうね――って」 「それだけやない。『闇の書』の――リインフォースの消滅に関する件も、少なからず知ってるみたいやった」 「では、全くなにも知らずにヴォルケンリッターの名を語っている――そういうわでもないということか」 「何者なのかしら、本当に」 考え込むように口を閉ざすシグナムに、困ったように眉根を寄せるシャマルが言葉を続ける。 「ところで、あの――はやてちゃん?」 「? どないした、なのはちゃん?」 どこか遠慮した様子のなのはに、はやては小首を傾げた。 「その……少しクロノくんとユーノくんからお話は聞いたんだけど、その膝の上の本―――」 「ああ、この“写本”のことか?」 「はやて……その本だけど、どうするつもりなの?」 なのはとフェイトはお互いに目を見合わせ、再びはやてに目を向けた。 その様子から、おおよその説明は受けているのだろう。 戸惑いと気まずさに表情を硬くしつつ、けれども真っ直ぐに向けられる二人の瞳―――。 「今は破壊する方向で、話を進めとるよ」 「そんな―――!?」 「はやて、いいの!?」 あっさり応えると、二人はシグナムやシャマル以上に驚いた表情を浮かべた。 「可哀想やけど他に方法がないんや……。このまま放っておいたら、また不幸の連鎖の始まりや。そんなんきっとリインフォースかて望んでへんから」 「でも、はやてちゃんは―――」 「なのは―――」 椅子から腰を浮かすなのはを制するように、その腕をフェイトが掴む。 「フェイトちゃん、でも――でも―――! その“写本”がバックアップなら、プログラムの不具合を直すチャンスとかにはならないの?」 「なのは……」 「残念だけど、なのは。その“写本”がバックアップしているのは、歪んだプログラムが入った後の『闇の書』なんだよ。 だから写されたファイルも当然、歪んだままだと考える方が妥当なんだ」 大きな瞳を一杯に揺らすなのはに、しかしユーノが力なく首を振った。 「調べては……みたんだ。まだ機能とファイルが空白だらけで、絶対とはいえないけれど……。 プログラムの一部は、既に自己再生を始めようとしている兆しがある。これが活発化したら、何が起こるか判らない」 「でもでも、ひょっとしたらなにも起こらない可能性だって、あるってことだよね」 「なのは……。確かにその可能性がないとは言わない。けど、そうじゃなかった場合、あのクリスマスの再現は避けられないんだよ? 一番怖いのは、暴走する防御プログラムと転生プログラムの復活だよ。これが現実のものになったら『闇の書』の悪夢は再び復活する」 「でも……」 なのはは納得しかねるように、ユーノを見やる。 『闇の書』の――リインフォースの犠牲に心を痛めていたのは、なのはも同じなのだ。 完全に救えなかったことへの無力感と――強い悔恨。 雪の空に溶けた想いが蘇り、なのはの胸を動かしているとして、誰がそれを非難できるだろうか? 少なくともはやてにはできない。 それ故に、はやての胸は熱くなった。 「高町なのは。我々守護騎士も“写本”の破棄には賛成している。それはおそらく、リインフォースも同じ思いだ。 危険で分の悪い賭けに、主の身を晒すわけにはいかない。失敗すれば、失われるのは主の生命なのだからな」 「シグナムさん……」 「うん。そういうことなんよ。……そやけど、ありがとう。なのはちゃん」 「ふぇ?」 びっくりしたように、目を丸くするなのは。 「はやてちゃん……?」 「わたしの代わりに…この本とあの子のことを想ってく…て……あ…ありがとうな………?」 「!?―――」 言葉が詰ってしまうくらいに、熱く――熱く―――。 なのはの言葉は、叫ぶことの赦されないはやての代弁だった。 ダメだと、壊すなと叫びたいはやての胸の内を察してくれているからこそ、なのはは叫んでくれている。 それは“家族”である騎士には無理で、“友達”だからこそ言える身勝手な我がまま。 そんな我がままをぶつけられた方が、心が軽くなる時が人にはあって―――。 嬉しくて――そんな心遣いが、胸に込み上げてくるほど本当に嬉しくて―――。 でも――だけれども―――。 ここでは――いま、ここでは―――。 「ユ、ユーノくん! そういえばさっき、技術スタッフの人がユーノくんを探していたよ!」 「え? ――あ、うん。判った」 慌てたようななのはの声に、ユーノは疑問を挟まずに立ち上がる。 「アルフもユーノを手伝ってあげて」 「あいよ」 同じく全てを承知したように、フェイトとアルフが言葉を交わす。 「シグナム、ザフィーラ。わたしたちも、ちょっとユーノくんの作業を手伝っていきましょうか?」 「いや、主ひとりを残していくのは―――」 「残るなら我が残ろう」 「い・い・か・ら! 2人とも一緒に来るの!」 半ば強引に、シャマルが2人の背中をドアへと押して―――。 「………っ」 スライドするドアが閉じる瞬間―――。 「うっ――くっ―――」 「はやてちゃん」 はやてはなのはの胸にすがりつき――抑えていた溢れるほどの思いの全てを、吐き出した。 「どういうつもりだ、シャマル」 廊下に出るなりシグナムはシャマルに詰め寄ると、鋭い声で問うた。 「どうもうこうもないでしょ、シグナム。今、わたしたちはあの場所にいちゃいけないの。その意味は判るでしょ?」 「………」 寂しげなシャマルの声に、シグナムの瞳に微かな動揺が奔った。 「――やはり無理をしておいでなのか、主はやては?」 「うん。顔にはなかなか出さないけど――でも、はやてちゃんはそういう子だもの」 言って、シャマルは瞳を伏せた。 寂しさと悔しさを滲ませながら、指の上のクラールヴィントをそっと撫でる。 通信とサポート機能に優れた“湖の騎士”自慢のアームドデバイスは、けれども人の心の内側までは推し量れない。 ましてや、その傷口をふさぐことなど―――。 「今、はやてちゃんは自分を納得させるのに、必死だと思うの。わたしたちを心配させないために、結論から先に出しちゃってたみたいだから」 「結論から先に? それはどういうことだ?」 要領を得ないといった顔で、シグナムは首を傾げた。 「そうね――強いて例えるなら、抹茶アイスとバニラアイスの関係かしら?」 「なだんそれは」 途端にシグナムの顔が呆れる。 「だから例え話よ。例えばシグナムが3時のおやつに、どうしても抹茶アイスが食べたくなったとするでしょ?」 「わたしはそこまで意地汚くはないつもりだが?」 「いいからそこは黙って聞くの! なんなら宇治もなかアイスに例えを変更する?」 「そういう問題では……いや、わかった」 半目で睨むシャマルの眼差しを受けて、シグナムは諦めたように口を閉ざした。 「つまりは、こういうことなの。シグナムは抹茶アイス一個分のお金を持って、お店に行くの。 ところが抹茶アイスは売り切れで、残っているのはバニラだけ。でも、Lサイズの抹茶アイスは残っていて――けれども、お金は足りない」 「ふむ……」 「それでも3時までにアイスを買おうと思ったら、バニラを選ぶしかない。だって迷っている間にも、時間はどんどん過ぎてゆくんだもの。 どんなに悩んでも、嘆いても――手に入れられるのは、バニラだけ。結論は、最初から判っている。 後はどうやって自分の心を納得させられるか、それだけなんだけど―――」 はやては、自分を納得させる理由も持てないまま、結論だけを優先させた。 他の誰でもない、騎士たちを心配させないために。 自らの胸に、持て余さずにはいられない心だけを置き去りにしたまま―――。 「だが、持て余した心を軽くするために、我らがあの部屋にいては邪魔というのは――少々寂しいものだな」 「それは違うとアタシは思うけどなぁ、シグナム」 珍しくアルフに意見され、シグナムは目を瞬かせた。 「アルフ……。違うとは、どういう意味だ?」 「アタシはさぁ? フェイトと昔っから付き合っていたワケで、色々とフェイトのことを知っているからいえるんだけどね。 きっとはやてはシグナムたちを大切な“家族”だからと思うからこそ、見せられない姿があるんじゃないのかなぁ。 だってさ、はやてが無理をしているってんなら、それは間違いなくシグナムたちのためなんだろ?」 「それは……そうなのだろうが……。だが、何故我らが駄目でも、テスタロッサや高町なのはなら構わないのだ?」 「それはの2人が、はやてちゃんの“家族”じゃなくって“お友達”だから――かしら」 と、少し考えるようにシャマル。 「ボクもそう思う。“家族”にだからこそ、見せられない姿がある。逆に“友達”には見せたくない姿だってある。 どっちが大事かじゃなくって、どっちも大事なんだと思う。なにより重要なのは、今のはやてはそのどちらも持っているということだよ」 「………」 「はやてはシグナムを頼りにしている。だからこそ、頼れない時がある。 それは一方から見れば寂しいことなのかもしれないけど、はやてがキミたちを本当に“家族”だと思っている証拠なんだよ」 「そうか……そうだったな……」 呟くと、シグナムの顔立ちから険しさが消えた。 憑き物がおちたような晴れやかな面持ちを浮かべ、ただ真っ直ぐに前を見る。 「我らはいつだって主を護っているつもりで、いつも護られてきた……。その優しさに触れるたびに、人間らしい温もりを感じてきた」 「シグナム……」 「我らは“騎士”であり、なにより“家族”だったのだな。忘れているつもりはなかったのだが、少々頭に血が上りすぎていたらしい。 少し頭を冷やすとしよう。それにヴォルケンリッターを名乗ったエリスというベルカの騎士――やはり、気になる」 「我らの記憶に5人目はない。だが、そもそも転生前の我らの記憶は、そうあてにはならぬ」 ザフィーラの呟きは、悔恨となって今も騎士の胸に根付いている結論だった。 よかれと思ってリンカーコアを“蒐集”してみたが、結果としてそれは破滅の道に他ならなかった。 『闇の書』を完成させた先に存在したのは、絶大な力の暴走が招く破局のみ。 それすら判らず、ただ必死に『闇の書』の完成を急いでいた姿は――思い出すだけで、冷や汗が流れる。 「そうね、ザフィーラ。あの時だって、自分たちの記憶に違和感を感じていたのはヴィータちゃんだけだったものね……」 「ヴィータ……か」 シグナムの呟きが引き金となって、重い沈黙が彼らを包んだ。 ヴィータ―――。 ヴォルケンリッター随一の衝角にして、誰よりも一途に主のために戦場を翔ける“鉄槌の騎士”―――。 そんなヴィータが、はやてを残してどうにかなるはずがない。 それは確信であり――切望だった。 「仮に――仮にだ。ヴィータにもしものことがり、そうしたのがエリスと名乗る輩の仕業だというのなら―――」 シグナムの右手が自然に動き、レヴァンティンの切羽が澄んだ音色を響かせる。 「うん。判っているわ、シグナム。でも、1人でだなんて赦さない。わたしにも、ちゃんと手伝わせて」 そして拳を握るシャマルの指には、クラールヴィントの《青》と《緑》の水晶体が静かに光を放ち―――。 「無論、我が噛み砕く腕の1本や2本はあるのだろうな?」 ザフィーラの静かな怒りが、凍て付く空気を軋ませる。 「あのさぁ、ユーノ。今さらなんだけどさぁ」 「なんだい、アルフ」 「フェイトとなのは……コイツらを相手に戦って、本当によく無事でいられたもんだと思ってねぇ」 「そっか……。実はボクも、同じようなことを考えていた」 護るべき仲間と、主のために―――。 ヴォルケンリッターの強さは、彼らがもつ潜在的な戦闘力だけでによって成り立つものではない。 限りない“絆”に裏づけされた幹があるこそ、彼らは“八神”の名の元に集い、戦う。 故に――強い。 それは理屈ではなく、ことの是非でもなく――ただ“想い”によって結ばれた、彼らだけの強さなのだから。 ―――――だが、仮に――――― ―――――その“絆”に亀裂が入った、その時は――――― ―――――彼らの強さは何処に往くのだろうか――――― ―――――騎士の願いは、何処に在るのだろうか――――― それはきっと、考えたこともない設問。 考えるまでもなく、考える必要もなく――考えられない以上、在り得もしない無意味な答え。 そのはずだった。 少なくとも、この時は、まだ―――。 「ヴィータが戻っただと!?」 喜ぶべき吉報が舞い込んできたのは、それから二時間後のことだった。 「それはホンマか!?」 自分の病室戻ったはやては、ベッドに腰掛けたまま空間モニターのエイミィを食い入るように見つめた。 思い瞼をこじ開けるには、充分過ぎるほどの吉報――そのはずだった。 それなのに、告げるエイミィの顔は冴えない。むしろ困惑しているといってもいい。 『あー、うん。まぁ、一応、無事に帰ってきたみたいなんだけど……』 歯切れの悪い言葉が、却ってはやてを不安にさせる。 無事という言葉には安堵するものの、だが、それではエイミィの冴えない表情は何を意味するのだろうか? 「それで、今はヴィータは何処におるんですか?」 『そ、それがね……。制止する局員を薙ぎ払って、どっかに走り去っちゃったの』 「な、なんやってぇ!?」 はやては唖然とした。 ヴィータが局員を薙ぎ払った。意味がまるで判らない。 そもそもヴィータが、そんな乱暴な真似をしなければならない理由が判らない。 『た、多分、はやてちゃんを探しているんだと思うんだけど……思念通話とか通じないかな?』 「え、えと――取りあえず、ウチらも探してきます! シグナム!」 「心得ました。参りましょう、主はやて」 『え!? あ、はやて―――』 一方的に通信を切って、ガウンを纏ったはやてはシグナムと一緒に車椅子で病室を飛び出る。 思念通話は使わない。使えば、ヴィータの位置が他の局員にまで逆探知される可能性がある。 そうなる前に自分たちでヴィータを見つけ出し、 事情を知りたかった。 「主はやて。シャマルとザフィーラも、今、無限図書から飛び出したようです」 「うん。シャマルが捜索を手伝ってくれるんやったら、早よう見つかるかもしらへんな」 バックアップが専門のシャマルは、別次元の世界に存在する任意のリンカーコアすら検索する能力を持っている。 いくら本局が広いとはいえ、シャマルの能力の前ではその広さも意味がない。 そう思って通路の角を曲がった瞬間、その少女はソコに立っていた。 深紅のドレスと、燃えるような赤い髪。 手に握る鉄槌のアームドデバイスは、鈍い銀色の輝きを乗せて―――。 「はやて……」 届く声は、間違えようもなくヴィータのもので―――。 「ヴィータ……よかった」 不安と安堵が、交互に入り混じる。 胸の部屋に居座り続けていた心配が霧散し――けれども、次に部屋を訪れてきたのは違和感だった。 「ヴィータ?」 ヴィータの瞳―――。 真っ直ぐで純粋であるはずの瞳が、けれども今は違う。 深い悲しみと、不安と――そして――恐れ。 伏せるように、怯えるように―――。 「なんで……だよ――――」 呟いた声は眼差しに乗って、はやての膝の上に置かれた一冊の“写本”に注がれる。 「なんでその“本”が、またはやての手元にあるんだよ……!」 「ヴィータ、なにを―――」 「ヴィータ! 貴様、何故無用に局員を傷つけるような真似をした! それが主はやてを困らせる―――」 「うっせぇシグナム! 黙ってろ!」 膨れ上がるヴィータの怒気がはやての頬を駆け抜け、背後に控えるシグナムを刺す。 これまでにも幾度か、ヴィータとシグナムのケンカをはやては観てきた。 その度に苦笑し――時には本気で叱り、2人の仲を取り持ってきた。 だが、今回のコレは明らかに次元が違った。 触れた肌が火傷しそうなほどの烈気は、これまでに見たこともない本気の“敵意”―――。 「なっ―――」 予想もしていなかった敵意に打たれたシグナムは絶句して、だが同時にレヴァンティンの柄に手を触れた。 それは純粋な――戦う者としての、当然な反応。 武器を手に持ち、命を奪う用意を告げた者に対する、当然の備え。 ただ、その相手がヴィータだった。 瞬間、はやては悲鳴のような声で叫んだ。 その両手は、シグナムの両腕をきつく握っていた。 まだ柄の表面に触れただけの、レヴァンティンを抜く仕草ですらないその腕を、はやては泣き出しそうな顔で止めようとしていた。 その行為が、同時にシグナムをハッとさせた。 自分の指先がなにに触れているのか、初めて気が付いたように。 「あかん! シグナムあかん!」 「主はやて……いや、わたしは別に……」 「ヴィータもどないしたんや! なんでそないな顔で――そないな目で、わたしを見るんや!」 言いながら、はやてはヴィータに視線を戻す。 「だって――だって、じゃあ、なんで『闇の書』がまたはやての元にあるんだよ! 戻った時にエイミィから聞いたんだ! 『闇の書』のコピーが、はやてのリンカーコアから生成されたって!」 「……それは事実や。けれども、それと局員に怪我をさせたのは―――」 「はやて!」 髪を振り乱すように叫ぶヴィータの声に、はやては言葉を詰らせた。 伝わってくるのは、必死の感情。 なにをそんなに怯えているのか―――? なにをそんなに怖れているのか―――? なにがヴィータを突き動かし、怯え、苛立たせ――局員に怪我まで負わせてしまったのか。 ヴィータは口調こそ乱暴でも、決して安易に暴力を振りかざすような子ではない。 それを誰よりも信じているからこそ、はやてにはヴィータの瞳が宿す不安げな光の意味が判らない。 「エイミィに聞いたんだ。その本を破壊するって――本当なの、はやて!?」 揺れる瞳が、はやてを捉える。 なにかを訴えたくて、泣いているようにヴィータの顔がくしゃくしゃに歪む。 怯えた面持ちで握るグラーフアイゼンのハンマーヘッドは頼りなく揺れ、黒い手袋が小刻みに震えている。 だからはやては、小さな深呼吸で自らの困惑を削り取る。 今のヴィータに必要なのは、適当な言葉でもはぐらかすことでもない。 ただ真っ直ぐに、自分の答えをぶつけることだから―――。 「――ほんまや」 正直に、はやては告げた。 「この本は破棄処分になる。管理局はその方向で動くはずやし、わたしもそれに許可を出した」 「な、なんでだよ!? その本は……それはリインフォースの生まれ変わりみたいなもんじゃんかよ!」 瞬間、ヴィータの顔色が蒼白に染まった。 信じられないものを見たような眼差しで、はやてを見やる。 「例えそうでもや! 例えそうでも……今のまま、この“写本”を置いとくわけにはいかへんのや! このまま放っておいたら、この子はまた暴走を始めるかもしれへん! そうなったら一番哀しむのはリインフォースや! それはヴィータかてよう判ってるはずやろ。そうなる前に、破壊するしかないんよ!」 「わかんねぇーよ! そんなことしたって、なんにもならねぇーじゃんかよ! その本は……その本はなぁ!」 「ヴィータ!」 はやては叱ったが、ヴィータも下がらない。 「じぃーさんが言ってたんだよ! その本は何度も蘇るって! 何度破壊したって、はやてが生きてる限り何度でも蘇る! それをはやてはその度に壊すのかよ! 何度も何度も、自分の言いなりにならないからって壊しちまうのかよ!」 「ヴィ、ヴィータ……?」 「あたしたちも言うことを聞かなくなったら、壊しちまうのかよ……」 「ヴィータ……」 「畜生〜〜〜っっっ!」 突然、ヴィータは叫ぶと駆け出した。 握り締めたグラーフアイゼンを振りかざし――はやてを掠めて、通路の壁に叩き付ける。 ハンマーヘッドが圧搾する魔力が爆発的に燃焼し、激しい炎が噴き上がる。 「きゃぁっ―――!?」 爆風に煽られ、倒れた車椅子の上から―――。 「ヴィータ、貴様―――っ!?」 ヴィータは“写本”を掴むと、破砕した壁から本局の外へと飛び出した。 |