Episode 4
  A wish ――― 光望:NOZOMI





「ふぅ……。なんだか大変なお仕事になってきちゃったわね」

 シャマルは疲れた身体を床に下ろした。
 どうにか氷漬けからは抜け出せたものの、対価として支払った魔力や体力は決して安くはなかった。
 と、いうよりもむしろ赤字決済だろう。
 せっかく安全で簡単な調査で済むと思っていたら、蓋を開けたらコレである。

「ひっく……ごめんなさいです、シャマル……」

 弱々しい声がシャマルの前髪を微かに揺らした。
 視線を横に滑らせる。
 涙で濡れた顔が、直ぐ目の前に浮いていた。


「……もう」
 俯く銀色の頭にポンと手を乗せる。

「リインちゃん。そんなにしょぼくれないの。失敗なんて誰にでもあるんだから」

 別に怒ってなんかいない。
 そのことを伝えようとシャマルは苦笑を浮かべたが。

「でも……ひっく」

 リインフォースは顔を上げなかった。

「でも、せっかく……ひっく…せっかくはやてちゃんにお仕事を任されて……精一杯頑張ろうって……。
 お仕事をカンペキに終わらせて、みんなのお役に立とうって………ひっく」
「リインちゃん……」
 
 ああ、やっぱり―――。

 シャマルはアメジストの瞳をそっと閉じた。
 思い返してみれば、その傾向はずっとあった。
 先走って結界の中に入ってしまった時も、制止する声も聴かずに凍結魔法を使ってしまった時も。
 他にも小さなことなら色々と。

 そんなに無理をする必要はないのに。
 そんなにも急ぐ必要だってないはずなのに。

「それなのにお役に立つどころか、失敗ばかりです……わたしのせいで、ザフィーラだって……」

 泣き止まない祝福の風。
 傷口から自らの罪を抉り出すように。
 嗚咽混じりの声が乾いた地下神殿の大気を哀しく揺らして。

「リインはちっとも……ちっとも………」

 リインフォースはシャマルを見つめた。

「優秀なユニゾンデバイスなんかじゃ……なかったのです」

 澄んだ空色の瞳が涙で溢れていた。
 きっとリインフォースはリインフォースなりに張り切っていたのだし、自信もあったのだろう。
 形や思惑はどうであれ、はやての元を離れての初めてのお仕事。自分が一人前であることを自分自身の活躍で証明したかったに違いない。
 送り出してくれたはやての期待に応えたい一心で。
 そうする事がはやてに喜んで貰える唯一の方法だと思い込んでいるのなら、なおさらに。

 それなのにリインフォースは失敗した。ミスばかり犯してしまった。

 当たり前だ。
 何かもが経験不足で世間知らずで、魔力運用だって半人前にも届かないリインフォースが一人で解決できるようなら、最初から管理局が扱うような事態にはならない。
 冷たい言い方をするなら――そういう事なのだ。
 けれどもリインフォースにはそれがわからない。
 そして自分に対する不信や無力感ほど自分自身を傷つける刃がないことを、シャマルは経験から知っていた。
 必要なのは慰めではない。
 ましてや甘えさせる事でもない。
 この幼く小さい無垢なる風は、背負いきれない荷物を背負い切ろうと必死になっている。それは間近で見ていたシャマルが、誰よりもわかっていることだった。
 こんなにも頑張っている。
 だけど上手くいかず、失敗ばかりで―――。
 それはどんなに悲しい事だろうか。
 どんなに辛い事だろうか。
 確かに間違えもしたし、失敗もした。
 未熟で無謀な行いは、きっと赦されるものではない。

 だけど、それでも―――。

 わかってしまう。
 目の前の祝福の風は、別々の時代を往く事になってしまったあの祝福の風と同じ願いを抱いている。
 誰に言われたわけでも、ましてや刷り込まれたわけでもなく。自らの意思で、彼女の叶えられなかった夢と未来を目指して必死になって。

 それを叱れと?

 違う―――。

 シャマルの胸を否定の声が鋭く叩く。
 褒めて甘やかすのも違うけれど、この幼い願いを、理解もしないで叱る事はもっと違う。

「大丈夫。失敗なんていくらでも取り戻せばいいんだから。ザフィーラだって、きっと無事だわ」

 そして胸の上に手を置いて。

「わたしには、ちゃんとわかるの」

 気休めでもなく、慰めでもなく。

「それは守護騎士システムのリンク機能ですか? でも、それは初代さまが消滅してから、次第に弱くなってきている感じがするって、この前はやてちゃんが―――」 
「違うわよ、リインちゃん」

 柔らい手でシャマルはリインフォースの言葉を遮った。

「信頼している家族だからわかるのよ」

 信じている自分の言葉を。

「リインちゃん」
「……はいですぅ」
「あなたの前にいるわたしは、誰だか知っている?」

 笑顔の問いに、リインフォースの眉が困惑したように八の字に歪んだ。
 言葉の意味が理解できなかったのかもしれない。
 けれどそれでも構わない。理解できなくてもいいのだ。

 ただ知っておいて欲しいだけなのだから。

「わたしはシャマルなの」
「それは……知っているです」
「じゃあ、どうして―――」

 返ってくる弱々しい声に、シャマルはリインフォースの涙をそっとすくった。

「どうしてもっと、わたしの事を頼ってくれないの?」
「ふぇ……?」

 リインフォースは涙の滲んだ空色の瞳を瞬かせた。

「リインちゃんの知っているシャマルは、闇の書の守護騎士プログラムとしてのシャマル? 
 それとも八神の家で、はやてちゃんと大切な時間を共に過ごす家族としてのシャマル?」
「え……あ……」
「どっち?」

 訊ねると、リインフォースは返答に詰まった。
 それこそが答え。

「わたしは――少なくともわたしたちは、リインちゃんの事も家族だって思っているわ。
 わたしとザフィーラが繋がっているように、リインちゃんとわたしも繋がっているって」
「シャマル……」
「だからリインちゃん。お願いだからリインちゃん一人で頑張らないで。わたしたちにも手伝わせて。
 失敗したからって、一人で上手くできなかったからって……そんな事くらいで自分で自分をダメだなんて言わないで」

 そんな事は誰も望んでいないのだから。
 世界から「こんなハズではない未来」を削るために、そして皆から愛されるために生まれてきたはずの優しい風が、自分で自分を嫌いになってなんになるというのだろう。
 いつかは猛けき風となり、仲間を護るために孤独な戦いを強いられる事もあるだろう。
 だけどもそれは『今』ではない。
 最初からなんでも出来る完璧な命なんて、この世界にはありはしないのだから。だから―――。

「だからお願い。わたしを家族と思うのなら、もっと頼りに思って。盛大に迷惑を掛け合えるのも、家族の特権なんだから」

 それを疎ましいと思う人間はあの家にはいないのだ。
 迷惑を掛けられて嬉しく思う――そんなお人好しが集う場所。
 それが八神の家なのだから。

「ね?」
「っ……!」

 リインフォースはギュッと瞼を閉じると、溢れ出た涙をゴシゴシと拭った。

「リインは全然気づいてなかったのですよ」

 そしてニコリと滴を散らす。

「リイン、いつも思っていたです。どうしてリインだけが守護騎士じゃなくって、ユニゾンデバイスなんだろう、って。
 はやてちゃんはリインも同じ『家族』だって言ってくれましたけど、でもリインだけが弱くて、小さくて、ずっとずっとシャマルたちが羨ましくって―――」

 だから背伸びをしていたのだろう。
 だからこんなにも必死だったのだろう。

 答えはいつだって簡単で、ただ悩みの深さが問題を複雑に見せていただけなのに。

「でも、今の言葉で少しホッとしたのです。リインも八神の家の家族なら、シャマルもわたしの家族なのです。
 そんなことも知らなかったリインは、本当にまだまだ小さな子供でした」

 その笑顔には涙の跡が残っていて、未熟な部分が解決したわけでもないけれど―――。
 優しさも寂しさも、嬉しいことも哀しいことも。
 全てがいっぱいに詰った宝箱のような八神の家に、たまたま後から加わることになった空色の絵の具。
 それが素敵な色であることに、間違いなんてあるはずがないのだから。

「……うむ。やはり家族というものはいいものじゃな」
「教授……?」
「こんなワシにも家族がおる。妻と別れることになってから、たった一人で育ててきた大切な娘がのぅ……」

 それは遠い過去を懐かしむような眼差しだった。
 シャマルはこの眼差しを知っている。
 はやてが先代リインフォースを思い出す時、これと似た眼差しを空に向けているから。

「娘の名前はシルビアといってのう」

 フォレスタは懐から一枚の写真を取り出した。
 写真の中では金色の髪にすみれ色の瞳をした、出逢った頃のはやてと同じ年頃の女の子が笑っていた。
 それを見つめるフォレスタもまた笑みを浮かべて。

「ワシはこの仕事が終わったら長い休暇をとって、シルビアと一緒に―――」
「わっー! わっー! ストップ! ストップです! その先は死亡フラグですからっ!」
「そうなのか?」
「こんな不吉な場所で、お願いですからこれ以上不吉になりそうな発言は謹んで下さい」
「……それにしても、はやてちゃんみたいに利発そうな子供なのです。とても教授さんの子供だとは信じられないです」
「利発なのは当然じゃ。シルビアにはわしが直々に英才教育を施しておるからのう。別れた妻に任せておったら、とてもこうは育たんかったじゃろうて。ワハハハ」
「別れ……え?」

 パチクリとシャマルは瞬きした。

「あの、奥さんは亡くなられたんじゃぁ……?」

 すると心外とばかりにフォレスタは目を丸くした。

「バカを言っちゃいかん。確かにワシの魅力が理解できなくなった可哀想な女じゃが、勝手に殺すのは感心せんぞ?」

 正論だ。
 でも、何故だろう。
 素直に納得できない自分がいた。

「じゃが、まぁそれはいい。とにかくワシは娘をワシ色へと染め上げるべく、多額の慰謝料を支払ってでもシルビア引き取ったというワケじゃ。
 そして志は半ば達成されつつある!」
「シャマル。この教授はこのまま地下に置き去りにしちゃった方がいいような……」
「言わないでリインちゃん。決意がグラついちゃうから」

 シャマルは眉間を押さえた。

「おお、そうじゃ。なんならお嬢さんがウチのシルビアの新しいお母さんになってみるか? 
 ワシとしてはもちっとこうバッ・キュン・ボンないたずらボディーが好みなんじゃが―――」
「教授っ!」

 叫ぶなりシャマルはフォレスタの襟首を掴んで、そのまま床に組み伏せた。

「おおぅ!? なんという大胆な!?」
「黙って!」

 シャマルの声に轟音が被さった。


 
   ※   ※   ※   ※   ※      


 
 バチバチと大気を引き裂く光の鞭が視界を迸った。
 磨き上げられた石壁の表面に蒼光が滑り、躍動する漆黒の影が視界の中へと躍り出る。
 唐突な襲撃にシャマルは息を呑んだ。

 トラップの類は常に警戒していた。
傀儡兵が配置されている可能性さえも考えていた。

 けれども、これは―――。

「なんですかコレ!? 誰かの使い魔さんですか!?」

 半ば引っくり返ったリインフォースの悲鳴に、シャマルは即答できなかった。
 しなやかな肉体を包む漆黒の短い体毛。
 薄い闇に炯々と灯る黄玉色(トパーズ)の瞳。
 体長は優に四メートルを超えている。
 太古の生物を思わせる剣のように長い牙を左右に生やし、赤い口角の中で転がる唸り声は友好的とはほど遠い。
 なんとなく空腹に苛立っているように見えるのは、できれば気のせいであって欲しい。
 だが、それ以上に問題なのはこのザフィーラを一回りも大きくした四脚の生物が、雷撃系の魔法を行使したことだ。
 
 使い魔――いや、違う。
 
 こんなにも通信の通らない空間で、際立った知性を感じさせない使い魔を放ったところで制御するのは不可能だ。
 そもそも誰かに襲撃される理由がない。そうなると残る答えは先天的に魔法を使える野生生物――魔獣の類ということになるが。

「コイツは驚いた。グルーヴキュリアではないか」

 驚嘆する声にシャマルはフォレスタを見やった。

「グルー……なんですかソレは」
「手っ取り早く説明するなら現地の言葉で『雷を放つ黒い者』という意味のネコさんじゃよ」
「リイン、こんな怖いネコさんイヤですよぉ〜〜〜」

 全く同感。
 同じネコなら月村さん家のネコがいい。

「付け加えておくとコヤツの食性は肉食じゃ。……となると、行方不明の原因が魔獣に喰われたというアレは、あながち的(まと)ハズレでもなかったか」
「感心している場合ですか!」

 叫ぶと同時に二発目の雷光が視界を掠めた。

「防いで!」

《Wind Schid》

 轟音の隙間に素早くコマンドを滑らせる。
 シャマルが扱う中でも高位に位置する『風の護盾』が半自動的に展開しつつ、荒れ狂う雷光の鞭を一度は弾いた。

 だが―――。

「くっ……!」

 視界が揺れる。
 大量の魔力を削り取られる悪寒。ただの雷撃ではない。魔力付与された正真正銘の攻撃魔法だ。
 威力B――いやAランク。
 闇の書事件の折には多数の野生生物を蒐集してきたが、これほど強力な魔法を操る生物となると―――。

「無理にでもシグナムを連れてくるべきだったかしら」

 苦々しい声でシャマルは呟いた。
 シグナムが苦戦した超巨大サイズの砂蟲と同じレベルか、或いはそれ以上。いずれにしても勝ち目は薄い。
 ならば逃げるか? 逃げる? どこに逃げる? 
 この俊敏そうな獣を相手に一体どこへ?

「シャマル!」

 リインフォースの声に我に返った時、シャマルの視界から黒い影が忽然と消えた。
 疾走――直上!?
 見上げた先から躍り掛かる魔獣の爪が、シャマルの瞳へ真っ直ぐに伸びる。
 シャマルは上半身を内側から捻り、右腕のクラールヴィントを射出した。
 虚空を翔ける青と緑の条光は血に飢えた二本の前脚に絡み付いたが、しかし一本が弾かれる。

「しまっ―――」

 迫る死の影を瞳に映して、シャマルは咄嗟に前へ走った。
 刹那、灼熱した痛みが右肩から迸る。
 浅く入った爪先は騎士服の一部ごと皮膚と肉を引き千切り、赤い鮮血が石壁を叩いた。
 しかし構わずシャマルは振り向きざまに左手のクラールヴィントを閃かせる。
 攻撃能力は皆無に等しいクラールヴィントでも、そのワイヤーを活かしたバインド『戒めの鎖』で絡め捕れば、勝負は一瞬にしてつくはずだった。
 二色のペンデュラムは、しかし獣に触れる遥か手前で蒼光とぶつかり、火花を散らして弾き返された。

「まさか―――」

 シャマルは目を見開いた。
 攻撃系だけではなく、防御系の魔法まで目の前の獣は操ってみせたのだ。
 それはシールド系やバリアー系といった高度な防御魔法ではなく、ただの魔力フィールドだったが、それ故にシャマルの驚嘆は小さなものではなかった。
 本来、フィールド系は魔力攻撃に対する減衰効果が有効で、物理的な攻撃を弾く効果はそれほど期待できない。
 それなのにクラールヴィントは弾かれた。
 一体どれほどの出力を持ったフィールドであるなら、そんな芸当が可能なのだろうか。

「フリジッドダガー!」

 加速する光が高速で横切った。
 魔獣との隙間に突然割って入った極寒の短剣。
 躱すことなど不可能な高速誘導弾が次々と着弾、対象を凍結させる白銀の旋風がシャマルの髪を冷たく揺らす。

「リインちゃん!?」
「リインにだって援護くらいならできます――って!?」

 冷気が流れ、そこに無傷の魔獣が姿を現した。
 魔獣は煩わしげに漆黒の身体を小刻みに振るい、短い体毛に付着した薄い氷をパラパラと足元に散らした。

「気をつけるんじゃぞお嬢ちゃんたち! ソイツにAランク以下の攻撃ではまるで通用せんぞ!」
「そういう大切な情報は最初に教えて下さい!」

 叫びつつ、シャマルはジリジリと後ずさった。
 高出力なフィールド魔法。
 本能的な攻撃衝動を前面に押し出す攻撃スタイル。
 普通なら難しく考える相手ではない。
 小手先の作戦に頼らず、正面からフィールド出力を上回る打撃攻撃をぶつけてやれば、なんの問題もなくダメージは通る。
 例えばヴィータのアイゼンのように。
 だが、ここに鉄槌の騎士ヴィータはいない。

「そうじゃ! わしにいい考えがあるぞ?」
「絶体絶命です。打つ手がないです」
「いや、だからワシの話をじゃな?」
「おじさんのお話が役に立つとは思えないです」

 これ以上なく湿ったリインの眼差しに、フォレスタはがっくりと肩を落とす。

「うう、せっかくいい方法なのに……。高い知能を持っているとはいっても、所詮は獣なんじゃから、囮を使ってワナにハメればきっと倒せるハズじゃと思うのに」

 獣――? 囮――?

 カチリとシャマルの思考に何かが落ちた。

「もちろん囮の役目はおチビちゃんということで」
「どうしてもちろんなんですか! 絶対にいやですぅ!」
「それでいきましょう」

 シャマルは言った。

「はぅ!? シャマルまでヒドイですぅ!?」
「勘違いしないで。囮になるのはわたしの方よ」
「シャマルが? どうするつもりですか?」

 魔獣から目線は外さないまま、シャマルは応えた。
 危険な賭けかもしれない。
 でも、一人では無理でも、二人一緒なら―――。

 シャマルの説明に、リインフォースは目を丸くした。

「そ、そんなの無茶です! 危険すぎます! シャマルが大丈夫でも、もしもリインが失敗しちゃったら―――」
「大丈夫よ」

 青ざめる少女にシャマルは微笑んだ。
 小さな騎士の決意を後押しするように。

「リインちゃんなら、きっとできるわ」
「っっっ―――!」

 リインフォースはギュッと瞳を瞑った。
 唇を結んで、拳を結んで。
 震える身体を叱咤するように、ギュッと。

 想いは胸に。
 決意は瞳に。

 再び瞼を開いた空色の瞳に、迷いも恐怖もなにもない。

「やります!」

 真っ直ぐな眼差しをシャマルに向けて、リインフォースははっきりと言い切った

「それでこそ―――」

 と、シャマルは唐突に真横に跳んだ。
 つられるように魔獣も同時に横に跳ぶ。

「さぁ、ついてきなさい!」

 叫び、床から上空へと飛び上がったシャマルの足元を雷光の鞭が激しく叩く。
 次の瞬間には魔獣は圧倒的な圧力を持った黒い疾風となって、飛び上がったシャマルの下にまで疾駆した。
 シャマルは目線を下方に滑らせた。
 上空を睨むトパーズの瞳が薄く歪んだ。
 逃げ場のない上空への退避行動を嘲笑うかのように。

 次の瞬間、しなやかな四肢が床を蹴った。

 側壁を駆け上るように、魔獣はシャマルの頭上を瞬く間に追い越した。
 そしてシャマルを脳天から砕く一撃が通路の壁を赤黒く塗装させ、主を失った緑色の帽子が虚空に散った。

 ――ハズだった。

 必中の一撃は、しかし空振りに終わった。
 紙一重で攻撃を躱したシャマルは小さくほくそ笑む。
 落下するはずのシャマルの身体が、そこから唐突に加速して天井に着地するなど、獣の予想を超えている。
 風と舞い、飛行魔法の推力に任せてシャマルは天井を垂直に蹴り付けた。クリーム色の髪から大量の冷や汗を散らし、身を捻りながら魔獣を見下ろす。
 床に着地した魔獣は戸惑い、次の行動を決めかねていた。
 シャマルが落ちてくるのを待つべきなのか、それとも壁を蹴って跳躍すべきか。
 思考が一瞬、遅滞した。
 それでシャマルには充分だった。

「行って! クラールヴィント!」

《Sturmanguriff!!》

 背面上方から四機全て。
 二色四条の飛礫が疾走し、すかさず魔獣の魔力フィールドが直上正面へと偏向する。
 噴き上がる蒼光に真正面から突入したクラールヴィントは、しかし孔を穿つどころかジリジリと圧し戻され――直後、白銀の光がシャマルの視界を横切った。

「フリジッドダガー!」

 正面に集中した分厚いフィールドをすり抜けて、漆黒の横腹に喰らいついた極寒の短剣が次々と炸裂。三百キロ以上はある魔獣の巨躯を真横に吹き飛ばした。

「やったわ!」

 シャマルは喝采を叫んだ。
 加減を知らない野生生物の哀しさは、これ見よがしに攻撃を見せれば全力で対応してしまう。
 正面の自分が囮であることに気づかないまま――否、気づいてもそこで余力を残せない。
 シャマルの狙い通りに。
 思わぬ方向から床に叩き付けられて、灼熱の怒りに濁った魔獣の眼差しがシャマルとリインフォースを同時に灼く。
 が、直ぐには飛び掛れない。
 直撃を受けた横腹に巨大な氷塊がびっしりと付着し、魔獣の動きを阻害していたのだ。

「まだまだいきますっ!」

 更に十本近い短剣が扇状に矛先を広げて虚空に浮かぶ。
 魔獣の瞳に動揺が奔った。
 咄嗟にフリジッドダガーに備え、再び魔力フィールドに偏向を掛ける。と、魔獣の足元に緑色のベルカ式魔法陣が開き、噴き出す燐光が漆黒の毛並みを淡く照らす。

「させるものですか!」

 シャマルは胸の前で両手をクロスさせた。
 この瞬間をこそ待っていたのだ。

「捕縛!」

《Ja》

 魔法陣から伸びる緑光が魔獣の身体に絡みつく。
 捕縛系拘束魔法――戒めの鎖。
 クラールヴィントを使ったこの拘束魔法には、標的の魔法発露を阻害する効果をも併せ持つ。
 魔力フィールドはもちろん、攻撃魔法である雷光さえも。
 使いどころが難しいが、一度捉えてしまえばそう簡単には逃さない!

「今よリインちゃん!」
「はいですぅ!」

 応じるリインフォースを白光が照らした。
 足元にベルカ式魔法陣を開き、そして―――。

「捕らえよ、凍てつく足枷!」

 キャンセルされたフリジットダガーに代わって、凍結効果を付属させた捕縛魔法が魔獣を包んだ。
 戒めの鎖と凍てつく足枷。
 二重の高ランクバインドによる拘束。
 だが、まだだ。
 まだ捕まえただけで、魔獣を無力化したわけではない。

「だから今の内に―――」

 シャマルは魔獣に肉薄した。
 動けなくなった今だからこそ、もっとも確実な方法で魔獣を仕留めるために、その右腕を突き入れる。

 リンカーコアを奪うために―――!

「くっ―――!?」

 苦悶の声は、しかしシャマルの口からこぼれ出た。
 灼熱した痛みが突き入れた腕の表面を容赦なく焦がす。

 ――魔力フィールドが生きている!?

 驚愕と激痛にシャマルは瞳を歪ませた。
 だが、そんな事はありえないはずなのだ。
 二重のバインド。
 戒めの鎖によるフィールド出力の阻害と、フリジッドダガーのダメージ。
 これほどの条件を揃えて、尚も突き入れた腕がリンカーコアに届かないばかりか、耐熱耐圧に優れた騎士服の上からダメージが圧し掛かってくるなどと。

「そんな事って―――」

 焦燥に汗ばむシャマルの額を、瞬く雷光が青白く照らした。
 魔獣を捉える氷塊が不気味に軋み、深く奔る亀裂の音に心臓の鼓動が冷たく跳ねる。

《《シャマル―――っっ》》

 悲鳴に近いリインフォースの声。
 わかっている。このままではどうにもならない。
 このまま鍔迫り合いを続けたら、先にリインフォースが砕けてしまう。
 幼いリインフォースの魔力運用と耐久値は、決して高くはないのだ。
 この負荷はきっと彼女の限界を遥かに超えているだろう――今、こうして悩んでいるこの瞬間にもだ。
 そして限界に喘いでいるのはリインだけではなかった。

《Warnen.Ich bin in Gefahr》

 加熱した指環がノイズ混じりにこれ以上は危険だと、自らの苦境を告げた。
 想像を絶する魔獣の抗いに、クラールヴィントですらその負荷の増大に耐えかねているのだ。
 シャマルはギリっと奥歯を鳴らした。
 或いは、退くならここなのかも知れない。
 拘束魔法が効いている今なら逃げるチャンスはきっとある。

「でも―――でもっ!」

 視界の端ではリインフォースが必死に耐えている。

「くぅ〜〜〜〜〜〜っっっ!」

 小さな身体で精一杯、圧し掛かる重圧に耐えている。
 とっくに限界を超えながら、一歩も退かずに家族である自分を信じて踏み止まってくれているのだ。
 その信頼を裏切って自分から退く? 

「冗談じゃないわ!」

 鋭い眼光で魔獣を穿ち、シャマルは右手をフィールドの奥に押し込んだ。
 途端に爪先から鮮血が飛び散り、食い縛った頬を赤い飛沫が叩いたが、構わずリインフォースに念話を飛ばす。

《《もう少しだけ頑張って! リインちゃん!》》

 そうだ。一緒に頑張るのだ。
 そして護ってみせる――この小さな祝福の風を。
 例え腕がヘシ折れ、この身が砕け散ろうとも、それは既に問題ではない。
 こんな場所でリインフォースの未来を、託された意思や願いを、そして夢を絶やすわけにはいかないのだ。

 知っている。

 主はやてがどれだけの愛情を彼女に注いでいるのか。

 知っている。

 あの日、白い空に融けた紅い瞳の優しい少女が、どんな想いでその名を彼女に託したのか。


 シャマルは、知っているのだ!!!


「だから――だから―――っっっ!」


《《穿て! 鋼の軛―――ッッ!》》


 瞬間、野太い雄叫びが虚空を穿った。

 壁や床から唐突に生えた銀の魔槍は、シャマルやリインフォースがあれほど苦戦した魔力フィールドをやすやすと貫き、その動きを完全に封殺した。
 と、途端にシャマルの腕から負荷が消失した。
 ズブリと粘着質な音と同時に腕が最深部へ沈み込み、半ば感覚を失った指先でソレを掴む。

「つか――まえ―――――」

 自分の声を遠くに聴きながら。
 霞みそうな視界の中で、最後の気力を振り絞るように―――。


「たあぁぁぁ―――――っっっ!」  

 シャマルは突き入れた腕を一息に引き抜いた。光輝く魔力の源――リンカーコアをその手に握って。

 細い指の隙間から眩い光が溢れ出る。
 魔獣の身体に細波のような痙攣がはしった。
 その瞬間、まるで支えを失ったかのように屈強な巨体がガクリと崩れた。
 今やその身体を支えているのは、皮肉な事に四肢に噛み付いた氷の足枷のみだった。
 シャマルはその虚ろなトパーズの瞳に瞼が落ちるのを確認して、両肩から溢れる疲労に小さな吐息を胸に落とし――ペタリとその場に腰を落とした。

 どうやら勝ったらしい。

 ふと目線を上げれば、そこは薄暗い天井だった。
 シャマルは苦笑した。
 やはり地下というのはどうにもダメだ。せっかくの勝利も空の見えないこんな場所では、苦笑いしか浮かんでこない―――。

「やりました! やりましたよシャマル!」

 そこへ歓喜を弾けさせたリインフォースが、両腕を開いてシャマルの首へと飛び込んだ。

「ぶらぼぉ〜〜〜じゃぁ〜〜〜!」

 ――ハズだったのに。

 リインフォースを横に弾いたフォレスタの両腕が、シャマルをギュギュっと抱きしめた。

「ちょ、ちょっと教授!?」
「最高じゃお嬢ちゃん! ワシの嫁になってくれぇ!」
「―――へ?」

 ボンと、シャマルの首が赤く弾けた。

「な!? えっ!? ええっ!?」

 そんな声しか咽喉から出ない。

「いや、あの、ええと―――」

 心臓が明後日の方向に飛び跳ねる。
 正直、こんな真っ直ぐなプロポーズは初めてで―――。

「なぁーに、胸の小さいことなら心配せんでもいい。子供ができれば自然と大きくなるのが自然摂理@ポロリもあるよ?」


   ゴツンッ。


「あ、また壺です……」
「全く、このセクハラ教授は」

 シャマルは壺を振り下ろした。
 無慈悲に。
 一瞬でもドキリとした自分が情けなくて。

 ――いや、もうどうでもいいのだけれど。

 ズルズルと崩れてゆく教授の手が、それでもお尻を撫でてゆくその執念が、なんというか―――。

「死んでください」

 もう、本当に、頼むから。

「……くすっ」

 と、耳元に声がこぼれた。
 顔を上げる。
 直ぐ正面に、クスクスと無邪気な笑顔。

「リインちゃん?」
「シャマル、顔が真っ赤なのです」
「ちょ、リインちゃん!」
「あははは♪」

 笑顔を躍らせる銀色の微風に長い髪がサラサラと揺れて、それはシャマルの頬を優しく撫でた。
 だからシャマルはそっと目を細める。
 眩しいものを眺めるように。
 頑張る誰かを護る喜びと幸せが、トクンと小さく胸を打つ。
 きっと主はやてもこんな気分なのだろう。
 こんな気持ちで――自分たちを護り続けてきたのだろう。
 そして今は自分が八神の末っ子を護っている。
 この不思議な感覚と、繋がってゆく円環と。
 自分が今、ここの居る理由。

 そして―――。 

「お疲れさま、ザフィーラ」

 そっと近づく盾の守護獣にシャマルは微笑みを向けた。

《《遅れてすまなかった。それとも余計な手助けだったか?》》
「ザフィーラ!?」

 リインフォースはびっくりしたように目を丸くした。
 あの瞬間、魔獣の動きをギリギリで封じたのがザフィーラだった事に気づいていなかったらしい。
 何はともあれお互いに無事――無事?

「って、ザフィーラ!? あなた無事だったの!?」
《《今さら、何を……》》
「だってぇー……」

 湿った眼差しにシャマルは身体を小さくした。

《《あの岩石なら脇の隙間が大きかったからな。子犬フォームで端に寄れば、楽々やり過ごすことができた》》
「でも、あの一瞬でそこに気づけるなんて、ザフィーラはすごいです。リインは全然、気づけませんでした」
《《やり過ごすのは簡単だったが、通信が通らずに合流が遅れてしまった。だが、そのおかげで―――》》

 身体ごと振り返ったザフィーラの眼差しの先に、角からコチラの様子を伺う人影がポツリポツリ。

「教授!? 教授じゃないですか!?」
「え、なに!? 本当に教授が助けに来てくれたの!?」
「つーか、頭から血を流して死んでない?」

 三人、四人――五人―――。

 シャマルはザフィーラを見やった。

《《行方不明になっていた調査隊のメンバーだ。あの魔獣が徘徊していたおかげで地上へのルートを使えず、奥の部屋で救助が来るのを待ち続けていたらしい》》
「地上へのルート?」

 シャマルはパチクリと大きな瞳を瞬かせた。





   Episode 5
   Garden ――― 花園:KOKORO





 ゴトンと重い音が空気を震わせると、溢れ出した白い光が分厚い壁を正方形に切り取った。

「こんな場所から……」

 シャマルは唖然と声をこぼした。 
 甘い匂いを含んだ風が光り、薄い闇を駆逐する。
 壁の向こう側。
 甘い香りが風に乗ってシャマルの鼻孔をくすぐった。
 遺跡の出口に広がっていたのは一面の花園だった。
 白と、赤と、薄い桃色と。
 可憐な花の絨毯が、吹き抜ける風に優しく揺れていた。
 招くように、囁きかけてくるように。

「ここは王宮の庭園だった場所じゃろうか……」
「教授?」

 頭に包帯を巻いたフォレスタが感心したように呟いた。
 言われてみれば確かにそんな雰囲気が漂っている。
 シャマルは花の群れに目を細めた。
 かつては栄華を極め、四季折々の華で埋め尽くされたのであろう壮麗な庭園は、しかし今は健気に咲き誇る三色の花によって埋め尽くされていた。
 噴水だったのであろう台座には苔がむし、訪れる者の絶えた時間の長さだけを告げている。

「シュムックケルプヒェン」

 咲き誇る花の名前を、フォレスタはそう口にした。

「まぁ、珍しい花でもなんでもないが、これほどの群生となると大したもんじゃな」
「シュム…ックケル…え? シャマル、でもこれって?」

 首を傾げて、リインフォース。

「ふふふ。そうね、リインちゃん」

 溢れる花を前にして、シャマルも苦笑を滲ませた。

「? なんじゃお前ら?」
「いえ、なんでもないです」
「です♪」

 二人で笑った、ちょうどその時。

「あああ〜〜〜!」

 金色の頭がひょこりと花畑の中から現れた。
 十歳前後の、どこかで見たような顔立ち。
 元気のいい声で彩(いろ)とりどりの花畑を掻き分けて、その少女は真っ直ぐコチラへと駆けてくる。
 反応したのはフォレスタだった。

「シルビア!?」

 フォレスタの声にシャマルは思い出した。
 そうだ。写真の女の子。教授の娘――シルビアだ。

「お父さん! どこ行ってたんですか!」

 シルビアはすみれ色の瞳に幼い怒気をたぎらせながら、フォレスタの頭をペシリと叩いた。

「な、何をするんじゃ?」

 叩かれたフォレスタは目を丸くした。

「いつもいつも言っているじゃないですか。他の人に迷惑を掛けるような事をしちゃいけません、って。
 調査隊の皆さん、お父さんがいなくなったって探してましたよ!」
「いや、それには深いわけがあってだな」
「いやもでももありません!」
 
 シルビアの剣幕にシャマルはポカンと口を開けた。
 横ではリインフォースも同じように口をポカンと。
 と、不意にシルビアの眼差しがシャマルへと向けられた。
 ちょっと強気そうなすみれ色の瞳。はやての友人の中だと、ちょうどアリサがこのタイプに近いかもしれない。

「お姉さんたちは管理局の人ですか?」
「えっと、そうなんだけど……」

 応えると、シルビアはペコリとお辞儀した。

「お父さんがお世話になりました。きっとすごく迷惑を掛けたと思いますけど、後でよく言って聞かせておきますから、どうかゆるしてあげて下さい」
「あ、いえいえ、そんなそんな」

 シャマルは慌てて両手を振った。
 親に似ず、とてもよく出来たお子さまらしい。

「それから――お姉さん、お父さんに変なことされたり、言われたりしませんでしたか?」

 ジトリと湿った眼光。
 鋭いというか、よくおわかりでというべきか。

「あは、あははは……」
「ああ、もう、やっぱり」

 シルビアは盛大なため息を吐き出した。

「お父さんって根は悪くないんですけど、勘違いとか思い込みとかが激しい人なんです」

 ため息をそのまま引き摺ったような声だった。

「お父さん、わたしが寂しがって、勝手にお母さんを欲しがっているって思い込んでいるんです。
 全く、わたしにはお父さん一人だけでもいっぱいいっぱいなのに……。これ以上手の掛かる大人が増えたって、迷惑なだけなんですけどね」

 言って、次に浮かべたのは苦笑だった。
 本当にもう、どうしよもないねと。
 文句と呆れの下に照れ隠した温かな親愛の情が、くすぐるようにシャマルの胸に入り込んできて。
 だからシャマは穏やかに微笑んだ。

「お父さんのこと、大好きなのね?」

 それは質問ではなく確認だった。
 するとシルビアは、驚いたように目をパチクリと。
 そして「う〜ん」と首を傾げた。
 腕を組み、唸った視線が足元を泳ぐ。
 と、やがてピッタリの言葉を見つけたのだろう。瞳が宝石のようにパッと輝き、シャマルに向かってシルビアは言った。

「だって、家族ですから」

 真っ直ぐな言葉だった。
 短い言葉に込められた輝く笑顔と少女の想い。
 だけどもシャマルは知っている。
 この少女に負けないくらい、真っ直ぐに家族を愛する瞳を。

「シャマル―――」

 リインフォースがシャマルの服を引っ張った。
 思いはきっと同じなのだろう。言葉にしなくても、リインフォースの言いたい事がハッキリとわかった。

「それじゃ帰りましょうか。わたしたちの家族の元へ」
「はいですぅ」

 お互いに頷き合う。
 あの笑顔の元に戻ろう。
 もちろん行方不明者を無事に確保したとはいえ、管理局の仕事は事後処理を含めてまだ少し残っている。
 けれども一刻を争うように、シャマルとリインフォースは花園へと踏み出した。
 と、リインフォースが立ち止まった。

「シャマル。このお花は持って帰っちゃダメですか?」

 無数に咲き誇る花を前に、リインフォースは訊ねた。
 リインフォースの気持ちはわかる。
 でも、それは―――。

「あー、悪いがおチビちゃんや。別世界の動植物の持ち出しには賛成できんのぅ」

 申し訳なさそうに答えたのはフォレスタだった。

「どうしてですか?」
「おチビちゃんは命の恩人ではあるし、多少のことなら見て見ぬフリをするにやぶさかではないがのぅ。
 動植物の持ち出しは重大な管理局法違反なんじゃ。悪いが諦めてはくれんか?」
「あぅ……。そうでした」

 リインフォースはガクリと肩を落とした。
 だが、それは仕方のない事だ。
 安易な動植物の持ち出しが生態系に多大なダメージを与えてしまう事を考えれば、特に厳しく制限されても当然だろう。
 なにもロストロギアの不当な使用や密輸だけが、次元世界を脅かす要因ではないのだから。

 でも、だったら―――。

「だったら、こういう方法じゃダメですか?」  

 うな垂れるリインの頭を撫でながら、シャマルは訊ねた。
 管理局法に触れないその方法を。
 或いは詭弁に近い手法かもしれないけれど。
 それでも訊ねずにはいられなかった。

「ダメ、ですか?」

 真っ直ぐにフォレスタを見やる。

「ふむ……」

 フォレスタは顎をなぞり、しばし目を瞑り。

「なるほど。それならまぁ、問題はないじゃろう」

 ニヤリと、イタズラ小僧のような笑みを浮かべた。





   Epilogue
   Schmuckk?rbchen ――― 秋桜:KOSOMOSU





「ただいま〜」

 ドアを開くと、驚きと喜びに溢れたはやての笑顔が、ベッドの上からシャマルを迎えた。

「シャマル! おかえり」

 その弾んだ声に、シャマルはそっと胸を撫で下ろす。

「ただいまですぅ。はやてちゃん」

 つづいてリインフォースも部屋に入ると、こちらは文字通りはやてに向かって飛びついた。

「あははは。こら、くすぐったいって♪」
「もう、リインちゃんたら」
《《ただいま戻りました、我が主―――》》
「ザフィーラもお帰りや。みんなお疲れさまやったなー」

 全員を迎えたはやての嬉しそうな笑顔に、シャマルは陶然しそうになった自分自身に苦笑を浮かべた。
 労ってくれる主の言葉が心に染みてくて。
 帰ってきたのだと。
 大袈裟だとは思うのだけれども、ここが自分の戻るべき場所なのだと再確認したような気がしたのだ。

「風邪の方はもう随分とよくなりましたか?」
「おかげさまですっかり元気や。まぁ、わたしの方は大丈夫やったんやけど、シグナムやヴィータがな……あははは」

 シャマルは小さく嘆息した。
 帰ってきた時、シャマルが目撃したのは豪快に散らかったリビングの惨状だった。噂に聞く管理局の無限書庫だって、きっとここまで散らかっていないに違いない。

「まぁ、明日にはキチンと片付けさせますから♪」

 怒っているのにニコニコと。
 普段は自分の家事を色々とネタにしてくれる二人の生活無能力者には、一体どんなお説教が効果的だろうか?
 考えるとちょっぴり愉快な笑みが沸いてくる。

「う、うん。まぁ、それはええんやけど、ほどほどにな?」

 なにを「ほどほど」にするかはさて置くとして―――。

「それよりシャマルたちこそ大丈夫やったかぁ? 思っていたより帰ってくるのが遅かったみたいやし」
「大変でした――っというか、なんていうか」

 シャマルは言葉を濁した。
 遺跡に点在していた結界の無力化と、安全の確認。それに事後報告。気がついた時には時計の針は、後少しで日付が変わるところまで進んでいた。
 はやてを不安にさせるには、それは充分すぎる時間だった事だろう。

「リインフォースはどないや? シャマルのお仕事、ちゃんとお手伝いできたか?」

 指先でリインフォースのおでこを突き、はやては訊ねた。
 リインフォースははにかんだ笑みを浮かべた。

「全然ダメでした」

 自虐ではなく、さりとて投げやりでもなく。

「失敗ばかりで、シャマルに一杯迷惑をかけちゃいました」

 ありのままの事実を、けれどもどこか嬉しそうに。
 それが思いがけない言葉だったのだろう。
 はやては少し驚き目を丸くしたが、直ぐに穏やかな微笑みを浮かべると、リインフォースの銀色の髪に手のひらを乗せた。

「そうかぁ」

 と、ただ一言。
 次は頑張ろうとも、駄目とも言わなかった。
 言う必要もない事だった。

「はいですぅ」 

 だからリインフォースもただ頷いた。
 今日という日を胸に刻むかのように。
 蒼天を往く祝福の風として、主はやてがそう望み、リイン自身もソレを望み―――。
 そして『彼女』が、そうあって欲しいと願ったように。

「あ、そうでした!」

 突然、リインフォースが思い出したように声を上げた。

「はやてちゃんはやてちゃん! リイン、はやてちゃんにおみやげを持って帰ってきたのですよ」
「おみやげ?」

 はやてが首を傾げた。

「はやてちゃん。実は今日行ってきた遺跡に、すっごく綺麗な花園があったんです」
「そうなんか?」
「はい♪ 本当にすっごく綺麗だったんです。それでそれで、お願いをして少しだけお花を分けて貰ってきたのですよ」
「それが――はい、コレです」

 シャマルはクラールヴィントが創った空間の隙間から、白と赤と薄い桃色の三色での結ばれた小さな花冠を取り出した。

「花冠? でもそれって―――」

 はやては再び大きな瞳を丸くした。
 それはキク科に属する短日性植物で、日当たりが良ければどんな場所でも良く育ち、景観植物としても親しまれている。
 花言葉は『少女の純真』。
 もしくは――『真心』。

「シュムックケルプヒェン―――」

 シャマルはイタズラっぽい微笑みを浮かべた。

「ぶっちゃけていうと、コッチの世界のコスモスですね」

 偶然か、それとも遠い過去になんらかの交流があったのか。
 それはシャマルにはわからない。
 けれども向こうの世界で異なる名を冠したこの花は、この世界ではコスモスと呼ばれるありふれた花だった。

「それをわたしとシャマルと、現地でお友達になった女の子と一緒に皆で作ったのですよ」

 あの素敵な光景を、はやての元に持ち帰りたいと願ったリインフォース。花冠にしてなら構わないだろうと、フォレスタも見て見ぬフリをしてくれたのだ。
 そして慣れない手つきで、シルビアに花の結び方を何度も教えて貰いながらリインが編んだ花冠がコレだった。

「……うん。綺麗な花冠や。ありがとうな二人とも」
「あら。お礼を言うのはまだ早いですよ?」
「はいです」

 シャマルの言葉にリインフォースも頷く。

「クラールヴィント」

《Ja》

 シャマルは愛機に唇を重ねると、二色四機のクリスタルから七色の光を四方へ散らした。

「シャマル? リインフォース?」

 呼びかけるはやての声を、颯爽と飛び立つ風が揺らす。
 シャマルの胸の前にリインフォースがその身を重ねると、眩い光りが二人を包んだ。
 噴き上がる白銀と緑光。
 秋桜を揺らす祝福の風と、癒しを運ぶ緑の風と。
 二つの風が複雑に絡み、溶け合うように一つになって。
 重なる声で、同時に紡ぐ。

『『ユニゾン・イン―――』』

 光が無限の連鎖を起こし、閃光の白い手が視界を覆う。
 それは美しい花園の姿を周囲に映し出した。
 花棚に広がる光りの波。
 そこに咲き誇る可憐な花びら。

「これって……」

 花園の中心ではやては絶句した。

「クラールヴィントの投影能力にリインちゃんの力を借りて、その性能を能力値以上に引き出してみました」
《《はやてちゃんに、どうしてもこの綺麗な光景を見て欲しいと思ったのです》》

 それがシャマルとリインフォースの二人分の願い。
 二人分の――想い。
 見上げれば空。
 穏やかな陽の光に満たされた蒼天の空。
 足元には花。
 緑風が揺らす、地を埋め尽くすほどの花の庭。

「さぁ、仕上げをやるわよ。準備はいい? リインちゃん」
《《いつでもこいなのです》》

 シャマルは懐からカートリッジを取り出した。

「ちょ、シャマル!?」

 途端にはやてが血相を変えた。

《《お待ち下さい、我が主。今はもう少し、二人をこのままにして頂きたく……》》

 慌てて止めようとしたはやてをザフィーラが制した。
 シャマルはザフィーラに感謝しながら、その指先でカートリッジを虚空に弾いた。

「クラールヴィント――カートリッジ・ロード」

《Explosion》

 瞬間、カートリッジから大量の空気が噴き出した。

「え――ええっ!?」。

 甘く香る風。
 はやては驚き、小さく開いた口元を押さえた。
 そう――はやては花の香りに驚いたのだ。
 幻影に薫る秋桜の風に、可憐な花びらが左右に揺れる。

「驚いていただけましたか?」

 シャマルは満足げに微笑んだ。
 カートリッジに封入していたのは魔力ではなく、ただの空気。
 あの花園で圧縮して封印したコスモスの薫りだった。

「こんなに驚いたんは久しぶりや……」

 瞼を閉ざしてはやては言った。
 ゆっくりと吐き出す言葉と吐息。
 真っ白な時間。

「これが今日、あの光景をはやてちゃんに見せたいと願った、わたしとリインちゃんからのお届け物です」
《《でも、やっぱり本物はもっともっと凄かったんですよ。次に行く時には、はやてちゃんもきっと一緒なのです》》
「うん……」
「今はまだ調査中で、一般に公開されるのはまだ先の話になりそうなんですけど、来年の秋にはきっと―――」
「うん。その時はきっと、みんなも一緒やで……ヴィータもシグナムも、シャマルもザフィーラも……リインフォースも……」
「はい」
《《はいです》》
《《御意》》
「皆でお弁当を持って、のんびりと……ゆっくりと………」

 と、はやての声がか細く揺れた。
 流れる風音にたうたうように。

「はやてちゃん……」

 秋桜の香りを静かに揺らす小さな寝息を眺め、シャマルはクスリと小さな笑みをこぼした。

《《無理もない。我らを案じ、こんな時間まで待っていて下さったのだからな》》
「そうね。ザフィーラ」

 頷き、シャマルはリインフォースとのユニゾンを解除した。
 途端に魔法は露と解け、見慣れた部屋が姿を現した。
 花は消え、青空も消えた。
 けれども二人で運んだ花の残滓は、今も少し漂っていて。

 忘れない。 
 今日という日を。
 失敗ばかりで、それでも最後まで頑張り抜いた一日を。
 
 一人では無理でも、二人ならできると。
 頼る事と頼られる事をいっぱい学んだ小さな家族は、きっと祝福の風としての託された願いを胸にして、皆を支えてゆくのだろうから。

 ユニゾンデバイスとして。
 八神の家の末っ子として。

 この想いを忘れないために、もう一度あの花園を訪れよう。
 季節が巡り、秋が閉じるその時に。

 いつか、きっと。

 コスモスの咲く頃に―――。

 シャマルはそっとはやてのシーツを被せ直した。



「良い夢を、我が主……」








秋桜(コスモス)の咲く頃に〜(終)

















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