第三話「印象が最悪な代わりに記憶には残るから」 ぽたり、ぽたりと赤い雫が滴り落ちる。少女の額を濡らして、前髪を濡らして、真白い衣服を濡らして滴り落ちる。時折意識が途切れそうになり、その度に膝が折れる。それが地に付く前に意識を無理矢理に引き戻し、膝に力を込める。 倒れたらもう起き上がれない。そう必死に言い聞かせて己を恐怖で叩き挙げる。数歩進んで、膝が折れて、恐怖で叩き挙げる。何度も、何度も、何度も恐怖で叩き挙げる。 歩みが酷く遅い。まるで亀や牛にでもなったかの様だと言えば、失礼だろうか?きっと今の少女の歩みは亀や牛よりも遅くて、生まれたばかりの動物の子供よりも拙い。 「暑い」 思わず首元を広げる。スーツ姿の会社員が夏場にネクタイを解く様に、襟元に指を入れぐいぐいと引っ張る。けどあまり伸縮性に優れている訳では無い真白い衣服は、僅かに首元の通気性を良くしたに過ぎない。 「暑い」 余りにも、暑い。異様な熱気が、地面から這い上がる様に体中を舐めていく。熱気はスカートから侵入し、下着と肌の隙間を通り、間断無く全身を這い回る。暑いのに汗は流れ出ず、暑いから息が荒くなる。激しく呼吸をすれば肉体の機能を働かせる事は避けられず、それが酷く億劫で息を潜める。短く浅く呼吸を繰り返し、気付けば眼の前に居た影に向け、顔を上げる。 「随分探したぞ、白い魔導師」 「もうちょっとゆっくり探してくれても良かったのに」 こめかみの辺りから流れ出る血が鬱陶しい。鬱陶しいけどあんまり多く流れて貰っては困る。貧血になってしまうじゃないか。 「蒐集させて貰うぞ、お前の力」 そういえば自分はこの赤い魔導師から逃れる為に息を潜めて、空も飛ばずに結界によって常識から隔離されたビルの中を歩いていたんだ。そう思いだした。 何時の間にか暑さから逃れる為だと思い込んでいた行為全てが、生存を願っての行為。息を潜めるのは見つからない為で、歩き続けたのは逃げる為。暑い暑いといいながらも上着を脱がなかったのは、白いけど赤いバリアジャケットが最後の砦だから。 うん、理解した。高町なのはは今、生と死の境界線の上に立っている。 「抵抗しなけりゃそんな怪我せずにすんだのによ」 赤い魔導師がハンマーの様な、いや、ハンマーそのものなデバイスを振りかぶる。なのはは数分前、このハンマーによる攻撃で頭部を強打され、その際の衝撃で壁に頭を打ち付けた。恐らくは怪我を負わせるつもりは無かったのだろう、赤い魔導師の言葉からは僅かな躊躇いや遠慮の様なものが表われていた。 故意にしろ偶然にしろ、なのはは重度のダメージを負ったのだ。敵であろう魔導師が目の前に居る状態では治療する事も叶わず、そのまま逃げだしたんだ。 決して無抵抗だった訳じゃない。最初の一撃を頭に受けたものの、ディバインシューターを使い土煙を巻き上げて眼暗ましにした。それに紛れて逃げようと思ったけど、この赤い魔導師は思ったよりもずっと優秀で、そのくらいの事では時間稼ぎにもならなかった。 逃げ続けるのは限界だ。 けどなのははまだ逃げようとする。血が流れ過ぎてぼーっとした頭で逃げる算段を立て始める。 「お前」 ガンッ、と音がした。赤い魔導師がハンマーを床に叩きつけた音だった。 「なんで抵抗しない?そんな状態で魔力を隠して逃げ続けられるなんて、素人の出来る事じゃない。人の多い場所に逃げなかったのは一般人を巻き込まない為で、飛ばないのは見つかり難くする為。お前は馬鹿じゃない。それなら、私を倒して場を切り抜けるって事は考えなかったのか?」 赤い魔導師がなのはの行動を不可解に思い、疑問を声にした。なのはは分かっているんだ、この魔導師は加減していてどうにかなる相手じゃないって。けど、だから逃げたんだ。 「だって、あなたと戦ったら、どっちかが取り返しのつかない事になるかもしれないでしょ?私、嫌なんだ。自分が生き残れても、あなたに怪我をさせてあなたの家族を悲しませる様な事は。もう、戦いは嫌なんだよ」 本気でぶつからなければいけない相手だから避ける。万が一にでも、死ぬ様な事はあってはならないんだ。なのはは、誰かを失うかもしれない恐怖を以前の事件の際に知った。だから、それだけはなんとしても避けたいと願った。 けど、なのはのその考えが裏目に出た。 赤い魔導師は戦わない相手にも容赦は無く、なのははいざ逃げられなくなり、戦うしかないという状況になってから血液不足で放って置いても危険な状態だと気付いた。視界はぶれていて、焦点は定まらず、足元がふらつく。このままでは上手く逃げおおせたとしても病院直行コースかも知れない。 絶体絶命と言って違わない状況で尚、なのはは戦闘の意思を見せずにいる。重症の状態から戦って勝てるか勝てないかじゃ無く、それは戦わないという絶対唯一の非選択肢。 「そうか、でもあたしはそんな気遣いしないぞ。あたしはあたしの家族の為に、お前がどうなろうとも力を頂く!」 赤い魔導師がハンマーを振り上げる。今のなのはでは眼で追う事すら出来ない、とてもとても速い動作。そう、彼女がいよいよ攻めに転じる。いきなり攻撃せず、会話してくれていただけ交渉の余地はありそうだったが、どうやらそれは叶わないみたいだ。 なのはがこの場を切り抜ける手段があるとすれば、それこそ戦う事だけだろう。だがなのはは戦わない。そんな選択肢は彼女の中に存在しない。 ではどうする?赤い魔導師の攻撃を、全て削ぎ落としてみるか?不可能では無いだろうが、それはするべきではない。なのはの持つレアスキル、カスタマイザーは多大な魔力の消費と肉体的負担を掛ける。怪我をした状態では逆に危険だし、何よりなのは自身も詳細の分からない能力だ。 つまり八方塞と言って相違無い状況。 「はぁぁぁぁぁ!!」 なんの魔法も使わず、ただ力任せにハンマーを振り下ろす赤い魔導師。ろくに体も動かず、魔法も使えないなのは相手ならばそれで十分だと判断したのだろう。事実、それは正しい。 だが、それは彼女の体が高町なのはという人物のもののみで構成されていた場合であり、唯一彼女の中に在って彼女では無い一部という例外には通用しない。 今は、全力で振り下ろされる赤い魔導師のハンマーがとてもとても緩慢な動きをしている様に見える。完全なる無意識の動作だった。 右腕を、挙げる。 ギシリと、筋肉というサスペンションが衝撃を吸収する。 力強く、心臓がある一部にのみ力を注ぎ込む。 力を注ぎ込まれた駆動部は、振り下ろされたハンマーをがっしりと掴んで離さない。 鉄鎚をそのまま握ると、ヒビが走った。 「ごめん。私は死んじゃいけないんだ。そしたら、きっとフェイトちゃん達を悲しませちゃうから」 静かな声だけど強い意志で。 高町なのはとして、フェイト達の友達として。 「だから、お願い!!オーバーハング!!」 一点突破。 それを成し遂げる為の現状唯一の手段。 「ああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」 戦わないって言っておきながらも砲撃魔法を使おうとするなんて矛盾しているかもしれない。一度でも手を出せば、次から相手は確実にこちらを敵だと認識する。それをすれば、なのはの戦わないという理想は叶えられないかも知れない。いや、今この瞬間からして既にその理想に反しているのかも知れない。 そんな後悔だけ胸に持って、なのはは心の中で"ごめん"と呟いた。 「ディバイィィィィィィィン!!!」 右手に集中する桜色の光。一瞬の煌めき、数度の明滅、激しい魔力の流動。掌から放たれる閃光が一閃。 「バスタァァァァァァァァァァァ!!!!」 「こ、こいつ!!」 なのはの視界いっぱいが桜色の光に包まれる。まるで夜空に浮かぶ花火の様に走って、それはハンマーを破壊してもビルの壁を破壊しても止まらなくて、なのはの右腕に集まった魔力全てが無くなるまで消えなかった。 閃光は空を貫き雲を晴らせ、月を照らす。その月明かりに誘われる様、まるで誘蛾灯に惹き寄せられた蝶の様、一振りの剣を携えた者が居た。 「ヴィータのグラーフアイゼンを一撃で破壊したか。成程、私達の認識は甘かったという事だな」 両手の中には、なのはを襲った赤い魔導師、ヴィータと呼ばれたその人を抱える。ヴィータは全身を苛む苦痛に耐え、言った。 「離せ、シグナム。あいつは…………あたしがやる」 ヴィータは大きな怪我をした訳ではないが、ディバインバスター発射時の衝撃を間近で受けた為に全身に多少の痛みがある。言葉の節々が断続的に途切れるのは、あれだけの傷を負った魔導師に一撃で立場を入れ替えられたのが口惜しいからだろう。 それを見て剣を携えた者、シグナムは言った。 「それもいいが、お前は後にした方が良い。どうやら向こう側にも助けが来たようだ」 空に佇むシグナムの視線の先、疲弊し切ったなのはを抱える中性的な顔立ちの少年を捉える。少年の掌からは緑色の光が見てとれて、恐らくは治癒系統の魔法だろうとシグナムは判断した。 「シャマル、ヴィータは任せた」 「シグナムはどうするの?」 シグナムの声に応える者が居た。それはシグナムから相当に、少なくとも数百メートルは離れた地点に居る女性で、見詰めているのは何も無い空なのに、シグナムと会話を交わす。 「仕掛ける。向こうの事をもう少し知っておかねばなるまい」 「分かったわ。けど無茶しないでね、相手はヴィータちゃんを吹き飛ばした魔導師の仲間なんだから」 「ああ、勿論だ」 ヴィータは二人の会話を聞き、誰に言われる事も無くシグナムから離れた。 「あの白い奴には手を出すなよな」 「分かっている」 短く言葉を交わすと、ヴィータは迷わず背を向けてシグナムと会話をしていた女性の元へ飛ぶ。 それを見送り、シグナムは剣を構えて走る。 「行くぞ、レヴァンティン」 小さく、剣が声を発した気がした。けれどその声は空を走るシグナムの巻き起こす風によって飲み込まれた。 なのはと緑色の魔力光を持った魔導師はシグナムに気付いていない。先程まで戦っていた相手が何処かへ行ってしまった故の安心感からなのだろうが、それは戦場では些か油断が過ぎる。敵とは、どんなタイミングで現われるのか分からない。 そう、本当に分からない。 それは鋭く研ぎ澄まされた意思によって成された感覚でも気付けないくらい分からない。 「ふふ、油断が過ぎるな。シグナム」 空を走るシグナムの目の前に、真っ黒な鳥が現れる。大きさは、さながら小動物にとっての猛禽類の様に圧倒的。まるで、お伽話の悪い魔法使いが使役する下僕を彷彿とさせる悪寒。 「ぐっ、これは!」 シグナムは驚きながらも迷わず剣を、レヴァンティンを一閃する。そうすると巨大に過ぎる真っ黒な鳥は、その全身を酷く粘り気のある液体へと姿を変え、シグナムの全身に纏わり付いた。まるで、コールタールを頭から被った様な不快感だった。 しかし、シグナムが液体の正体が何なのかを確かめようとした時、既にそれは無くなっていた。 「ついでに言うならば無粋が過ぎる。男が女の傍へ駆け寄ったんだぞ。こう、男女関係というものに気を使ってだな、少しぐらい待ってやったらどうだ?ま、男も女もまだ子供だがな」 次いで、声。ゆっくりと、ねっとりと喋るその声にシグナムは覚えがあった。だがそれを認めたくは無かった、認められる筈が無かった。だってその存在は、以前自分が心臓を貫いて殺した筈なのだから。 「どうした?驚いているのか?それとも」 認めたくない現実を、認めざるを得ない現実を、受け入れる。その瞬間に問うていた。 「喜んでくれているのか?私との再会を」 「何故、お前がここに居る!」 声はむなしく夜空に消えて、消えた声を拾った者が応えた。 「殺されて死ねる凡骨と断じたか、シグナム。私は不老にて不死、そして不生。当て嵌められぬ存在だ」 あるのはただ恐怖だけだった。シグナムの前に浮かぶ女性、そのプラチナブロンドの女性がかつて何をしたか、克明に記憶している者であればある程に、それは恐怖で許容外。 「答えになっていないぞ、イリス!」 「答えていないんだ、当然だろう」 夜闇の中に爛々と輝く黒い衣服。風になびくロングスカートが艶やかな足を時折眼に映し、整った顔立ちが眼を引く。そしてそれ以上に左手にある禍々しい斧が、意識を引き付ける。 「その問いにはいずれ答えてやろう。だが今は、あれを見物していくべきだと思うぞ」 「あれ、だと?」 イリスが向けた視線の先、そこに見えたのは一冊の書物を抱えた金髪の少年と、これまた金髪の長い髪を揺らして走る少女の姿があった。少年と少女は先程までヴィータが戦っていたビルへと向かっている。 「あの書物…………まさか、月天なのか?」 「ああ。新しいヌシ様だよ。そちらもそうだろう」 「そうか、だからお前がいるのか」 その言葉にイリスは答えず、シグナムの背後を指した。 「シャマルを手伝ってやったからもうヴィータの傷は治っている筈だ。ま、傷と言える程のものでもなかったがな。心起きなくやるがいいさ、全員でな」 その言葉に、今度はシグナムが答えない。 両者共に黙った状態で数秒、シグナムは何も言わずにイリスの横を通り過ぎ、なのはの元へと向かう。その擦れ違い様、小さく小さく呟いた。 「ヴィータの件、感謝する」 礼を尽くさぬは騎士の恥。そう彼女は考えるが故に、許容し難い相手でも伝える事を躊躇わない。 「ここか!」 「うん!かなり上の階だよ!」 猛然とした勢いで二人の金髪が走って行く。ローグとフェイトは学校の校門前で桜色の光を見た後、大急ぎでアリサを家に押し込めて光が撃ち上げられたであろう場所へ向かって走り続けていた。 共に速度を戦闘の基として扱う二人である。夜の裏通りという人目につかない場所を選べば戦闘時と比べても遜色無い速度を出して移動が出来る。 空に桜色の花火が撃ち上げられてから十数分。あれ以来花火は上がっていない。それを戦闘の終了と捉えるか、はたまた単に派手な魔法を使わぬだけでまだ続いているのか。仮に戦闘が終了していたとして、二人が危惧する者は、なのははどうなったのか?全てはその場へ行かなければ分からない。 ビルの周辺まで辿り着いたことろで結界が張られていた事に気が付いた。だが今は機能していない。恐らくはなのはの砲撃によって破壊されたのだろう。 ローグはビルの壁面を駆け上がり、フェイトは空を飛び、上階を目指す。壁を蹴り、空を飛び始めてからすぐに、二人は壁の破壊された部屋を目の当たりにする。そこに居たのは血を流しているなのはと、なのはを抱いて寄り添うユーノだった。 「ユーノ!お前なんでここに」 「なのは!」 ローグはユーノに、フェイトはなのはに気を向けて。二人の驚きもお構い無しで、ユーノは冷静に応える。 「ローグ、フェイト。良かった、二人は無事だったんだね」 「それはいいから、なのはは?平気なの?」 フェイトが自分達の事などどうでもいい、といった風にユーノに詰め寄る。床を濡らす大量の血を見れば、それだけの血を流す程の傷を負えば平気な筈は無いのだが、思わずそう言っていた。 「平気って訳じゃ無いけど、大事には至らないよ。傷は思ったよりも浅い。傷が頭にあったから血が大量に流れただけみたいだ」 それを聞き、フェイトとローグは胸を撫で下ろす。ひとまずは安心、でも無いが、最悪の事態にはなっていない様だ。 最も、これからなる可能性は大いにあるが。 「そうか。ならちょっと卑怯だけど今の内にやらせてもらうぞ」 「怪我人を抱えた者達と一戦交えるのは本意では無いが、これも仕方の無い事だ」 「人数を考えると、私も出張った方がよさそうね」 ハンマーをもった赤い魔導師、ヴィータ。 剣を携えた鋭い眼光の魔導師、シグナム。 ダウジングに使う道具の様なものをもった緑色の魔導師、シャマル。 それらが破壊された壁の向こう側に居た。 「おいおい、こんなに魔導師がいたのか?大集合だな」 「私達は騎士だ。魔導師では無い」 ローグの軽口にシグナムが訂正を入れる。それを気に三人対三人、計六人分の視線が交錯する。その中で最初に、ユーノが口を開いた。 「君達か、最近この近辺で暴れ回っているのは」 「暴れ回ってなんかいない。あたし達は目的の為にしっかりとルールを持って動いているんだからな」 「人をいきなり襲う連中にルールがどうとか、言えたもんじゃないよ」 ヴィータの言葉にユーノが怒気を孕んだ声で返す。場の空気は一触即発といって差し支えないものになっている。 そこに。 「本日二回目。サイとキョウの登場ってな」 「えーと、混ぜて貰えます?」 窓からいきなり正体不明の厄介な二人が現れた。サイとキョウ、この二人を取り込んで、結界の存在しない廃ビルは戦場へと変わる。 「お前等、やり直しにしても間隔短すぎだろ」 第三話 完 次 「剣を重ねて」 |