第十二話「教えて」






 とあるスーパーの食品売り場で、八神はやては死んだ魚の眼をした、名前の通りの死んだ魚を物色している。所狭しと並ぶ旬の魚が、やや光沢のある表面を晒して自分を食らう人を待っている。そう考えると、なんとも複雑な光景。ただのスーパーマーケット、極普通の一角。
「なあ、シャマル。ローグは焼き魚と煮魚のどっちが好きかな?」
 心持ち普段より高揚した声で、普段より一割程度明るい笑顔でそう尋ねると、シャマルは「迷うくらいなら両方にしましょう」と、無責任な事を言ってのけた。
「じゃあそうしよっか」
 幸いと、現在の八神家は人数が多い。はやて、シグナム、ヴィータ、シャマル、ザフィーラ、ローグ。ほんの少し前までは考えられなかったラインナップ。一人で夕食を取る生活に慣れてしまったはやてにとって、破格の待遇と言える状態だ。
 これだけの人数が居れば、多少料理が多過ぎたとしてもどうにかなるだろうと考え、はやては予定よりも多めの、焼き魚用と煮魚用の魚をカゴに入れた。
「ちなみに、私は焼き魚が好きよ」
 そう言ってずんずんとはやてを乗せた車椅子を押して次の売り場を目指すシャマル。本当に、外見的にはなんら不自然な部分は無い。言動も口にする物もその生活スタイルも、どれをとっても人間そのもの。だけどはやては知っている。ヴォルケンリッター、シグナムとヴィータとシャマルとザフィーラ。この四人は人では無いという事を。そして、ローグもまた、少なくとも普通の人では無い事を。だからこの幸せはそんなに長くは続かないんだと、漠然と思う。それでも、幸せな時間は長く続いて欲しいと思うのは、ワガママだろうか?
「ヴィータ、お菓子買ってええよ」
「ほんとか!アイスでもいいか!」
「ええよー。ただし、あんまり買うと一度に食べてお腹壊すから少しだけな」
 はやての言葉が届いているのか、アイスを買っていいという許可を得たヴィータは一目散に駆けて行った。その後ろ姿を見つめて、ふと、眼に違和感を覚える。正確には、眼に映る謎の光。
 理解出来ない光の線。車椅子を押すシャマルと、お菓子売り場へと急ぐヴィータの両方に見える、体のあらゆる場所を走る光の線。
 シグナムやザフィーラにも時折同じものが見え、特にローグに見えた場合は四人の比では無い量の光の線が見える。
 それは彼が笑う時に強く明滅し、誰かの話を聞く時に静かに光る。まるで感情そのものを表すかの様な光の線の乱反射。
 はやてにそれの意味は分からないけど、不思議と嫌な印象は受けない。
「これが、魔法使いっていう事なんやろか?」
 ローグという少年は、病院での一件で晒された自分の正体を魔法使いだと説明した。
 魔法使いというのは、人間を指す言葉だ。お伽話に漫画にゲームにアニメに小説。魔法使いというファンタジーな要素が垣間見れるものの中で、魔法使いとは人間を指す。ファンタジーな世界では人間以外も魔法を使ったりするけど、魔法使いという言葉が当てはまるのは人間だけ。なにせ、その言葉を空想したのは人間だから。空想した人達の多くは、不思議な出来事を巻き起こすという一種の憧れを持ち、あるいは畏怖を持ち、魔法使いは人間であると願ってその名前を定めた。
 シグナム、ヴィータ、シャマル、ザフィーラ、ローグ。全員に共通する事は、魔法を扱う者という事。正しく人間の、恐らく感情に反応する光の線はきっとその証。
「なんやろなー、本当に」
 意味が分からない。だからひとまず考える事を止めた。
 知識もろくに無い自分が考えてもどうにもならないと思ったから。
「はやてー!これなー!」
 だから、今は忘れよう。どうせ考えても結論にたどり着けない難題。
「箱アイス買ったら意味無いやろ。もっと小さいの」
 メビウスの輪みたいにくるくるくるくる回る考えを見ないふり。解の無い出来損ないの知恵の輪は、笑い話のタネとしてでも机に締まっておこう。何年か先に、今の時間を思い出す話の花を咲かせてくれる事を願って。
 そうやって自分から遠ざけて何時か時間が答えを持って来るまで、この今を楽しもう。
「えー!いいだろ、これくらい」
「ヴィータちゃん、あまりはやてちゃんを困らせないの」
 願わくば、あの光の線が不吉なものでありません様に。






「なのはの家に行くだけなのに、緊張するなんておかしいよね」
「そんな事無いよ。誰だって、知らない事を知ろうとする時は緊張するものだよ。特に、大好きな人の事ならね」
 すずかのからかいの言葉に反応出来ないくらい、今のアリサは緊張していた。これから会うのはなのは。友達である高町なのはだっていうのに、まるで見ず知らずの人の家へいきなり押し掛ける様な、変な感覚。
 すずかがチャイムを鳴らすと、数分待たずして反応がある。高町の自宅の扉を開けて現れたのは、なのはの母、桃子だった。
 時刻はまだ朝の8時になったばかりだというのに快く迎え入れてくれた桃子に感謝しながら、二人はなのはの部屋へと進む。部屋の前まで来たところで、アリサが一瞬だけ躊躇う様な表情を見せる。けれど今更引き返せはしない。その様子を見て取ったすずかが、自分が先に行こうか?と仕草で訪ねる。けどアリサはそれに首を横に振って答え、意を決してなのはの部屋の扉をノックする。乾いた音、数秒の間。
「はーい」
 返事がある。
 すぐに扉が開く。
「あれ、アリサちゃんにすずかちゃん。どうしたの? こんなに朝早くから」
 なのはの普段通りのその迎え入れ方に、普段通りでは無い姿が違和感を与える。
「なのはちゃん、その包帯どうしたの?」
 なのはの頭、というよりは全身と言ってもいいくらいにそこかしこに大量の包帯が巻かれている。強い湿布の匂いも漂って来る為、包帯が傷口をふさぐ為だけのもので無い事が分かる。まるで交通事故にでもあった直後の様な、事情を知らない者から見れば大袈裟な巻き方。
 アリサとすずかは知る由も無い。なのはのこの怪我は、アリサがローグの前から去ってしまった翌日に起きたヴォルケンリッターとの戦いによるものだ。戦いを止めろと説得を試みるなのはは一切の攻撃も防御も行わなかった。でも、だからといって交通事故にあった程の怪我をした訳では無い。過剰な量の包帯は愛娘を心配する母がしたもので、だからこそなのはも少々動き辛いくらい巻かれていたって解きはしない。
「うん、ちょっと怪我しちゃってね。入ってよ」
 なんでもない、ただ転んだだけ。そんな軽い言い切り方をして二人を部屋に招き入れるなのは。
 部屋に入ると、そこには先客としてフェイトが居た。先客とはいっても、フェイトは日中は高町家で暮らしているも同然の状態なので、客というのも少し憚られる。
 そして、フェイトもなのは同様に全身に包帯を巻いていた。理由はなのはと同じくヴォルケンリッター、シグナムとの戦いによるものだ。
「アリサにすずか? 随分早いんだね」
 のんびりと、滑らかに言葉がフェイトの口から滑り出す。見るからに怪我人なのに全然健康そうに見える。
 それが、何の変哲も無いそれが、アリサにだけは歪んで見えた。錯覚だって分かってる。けどアリサは、なんだかまともに見れなかった。イリスの語った事が事実ならば、この顔をしたフェイトという人物が、アリサの友達が、今回の出来事の"原因"かも知れない。
「お邪魔するわね」
 ひょいひょいと床に散乱する雑誌を避けて部屋の中まで入って行く。十冊とまではいかないものの、それなりの数のファッション雑誌。アリサは、なのはがこの手の雑誌を読む場面を余り見た事は無いが、なるほど、なのはも女の子だ。ひらひらしたスカートや淡い色の上着、ちょっと変わったデザインの帽子や靴。色取り取りのそれが眼を楽しませ、それを身に纏った自分を、あるいは友達なんかを想像させるもの。
「あ、この部分の色が擦れて薄くなってるね」
 床に散らばる雑誌の内の一冊、それを何気なく拾ったすずかが、本当にどうでもいい事を口にする。
 印刷が擦れて薄れるなど、別に不思議な現象じゃない。幾多数多生産される雑誌類、その内の一つに不備くらいあるだろうし、なのはが買う前に大勢の人に立ち読みでもされた結果の、微細な擦れの蓄積によるものかも知れない。可能性を挙げればキリが無い。だから問題は擦れて色が薄れた雑誌では無く、アリサが考えてしまった事。
 雑誌という、世を闊歩する同一の別物。それが何万分の一、あるいはそれ以下の確率でミスが存在する様に、同一の別人にも、何万分の一かの確率で、あるいはそれのさらに万分の一の確率でミスがあれば。月天物語という魔導書。記録されたローグの全情報とやらをロードする際、もしある一部の記憶などが欠落したならば…………それはもう完全な別人なんだと思った。
「ねぇ、なのは」
 その不安が頭を過ぎってしまったアリサは、本来の段取りを無視していきなり問い掛ける。焦ってしまったんだ。
 単刀直入、真っ直ぐに過ぎる真っ直ぐ。
「あなたの知ってるローグの事、全部教えて」
 知りたいのは、魔法じゃ無くて大好きな人の事。魔法を知るなんてのは、ただの付属品。小さい頃に見た、雑誌の付録の3Dメガネみたいにドキドキもワクワクもしない、必要でなければ永遠に知らなくてもいいものだ。
「え……と、アリサちゃん?」
 なのはが、意味が分からないとアリサの名前を呼ぶ。分かろう筈も無い。だってなのはの認識では、アリサこそが彼を最も良く知る人物なのだから。もしもこの質問が、前日になのはとローグが二人で何処かへ出かけた、とかいう前提でのものであれば、それは特に不思議でも無い。でも、ローグの事、なんて曖昧で広範囲の聞き方をされたんじゃあ、具体的な答えなんて考え付きはしない。
「事情は少しだけど知ってる。ローグとなのはとフェイトの秘密。魔法の事」
 本当は、アリサとすずかは魔法の事をもう知ってるから、とかそういう風に順を追って話すつもりだった。けどそれを飛び越えてしまったから、アリサはもう止まる事無く聞くしかなかった。
「それは……」
 フェイトが何かを言おうとする。だが、半開きになって何事かを言おうとした口から言葉は出て来ない。
 酷くもどかしそうに、フェイトは口を閉じた。
「私は結構前から知ってたんだよ。ローグ君の事だけね」
 すずかがアリサの加勢に付く。友達二人から話してくれと頼まれれば、魔法の存在を知った上での問いならば、なのはとフェイトに逃げ場は無い。
 だからなのはは話す事を決めた。
 もう嘘を吐かなくてもいいという安心感と、嘘を吐いていたという申し訳なさを同居させながら。



「大体分かった、というか分からない。けど分かった」
「アリサちゃん、どっちなの?」
「分かった事にする。一応、筋だけは理解したわ」
 アリサとすずかがなのはとフェイトから聞いた話。それは魔法というものになんら関わりを持たない二人の少女にとって、ちょっとした衝撃だった。
 自分達が当たり前の生活をしている裏で、なのは達はとても普通とは思えない事をしていた。しかも、アリサとすずかはジュエルシードとやらの事件に一度巻き込まれているらしい。
 すずかの場合は、病院での事件を含めて二回だ。
 だが、アリサにとって重要なのはそんな事じゃない。はっきりさせたい事は、本当に一つだけ。なのはに魔法についての話を聞いたのは、それの答えを理解する為の手段。
「それで、ローグは一体どういう体になったの?」
「どう……って言われても。私にもよく分からないんだ。ユーノ君に聞いても、"前例が無いから分からない"としか言ってくれないし」
 アリサもそれは話の中で大体理解していた。ローグウェル・バニングス、それが成った特別な存在、魔力構成体。物理的に存在しない疑似肉体を持つ人間みたいな何か。
「そう。ありがと。十分よ」
 それだけ言うとアリサはいきなり立ち上がり、なのはの部屋から出て行こうとする。その突然の行動に、三者が戸惑う。
「ちょっとアリサちゃん、どうしたの?」
「つまり、ローグは新種の生き物みたいなものなんでしょ」
「はい?」
 三者が固まる。
「今はローグの体が何なのか分からない。だから、見て触って話して聞いて調べるの」
「し、調べるって」
「先人に習うのよ。犬だって猫だって、最初に見た人はそれが何なのか分からなかった。ただそれだけの事でしょ」
 三者が呆れる。けど、同時に納得した。そして確信した。
 今のアリサは、何があっても止まらないだろう。今まで自分が知らなかった格別の不思議、その中に居て尚不思議な存在。それを犬猫に初めて会った、それと同列に捉える。知らないのなら、分からないのなら知れば良い。その為の最高の条件は、その知りたい対象の最も傍に居る事。そうすれば、離れていては絶対に見れない事にも届く。
「けどアリサちゃん、きっと今ローくんの近くに行くと危ないよ。それでも行くの?」
 同一の別人、そんな言葉遊びに二度も惑わされるアリサ・バニングスでは無い。ローグを、一発で捻じ伏せる行動を用意した。迷うのならば、一言でぶち壊す言葉も用意した。その人に、会いに行く為の足もあれば、見る眼も、声を聞く耳もある。触れる手もあれば、握り締める指もある。ありとあらゆる障害に立ち向かう度胸もある。何より、名を呼ぶ声がある。
 他に何が要る?
 イリスという魔導師を倒す為の戦車か、戦闘機か、あるいは怪獣でも引っ張って来るか?いや、そんなもの全て無駄だ。これから行く先に待ち受けるだろう危険など、台所に時折出没する黒光りのあれにすら劣る。そう、頭の中で決めつけたなら。
「別に平気よ」
「じゃあ、私が一緒に行くよ。万が一怪我でもしたら大変だし」
「大丈夫。これから行くのは、私を守ってくれる人のところだもん」
 なのはの一緒に行くという申し出を断って、アリサは行ってしまった。
 魔導師であるなのはが一緒ならば、有事の際に逃げる事が出来る。それは、友達を心配しての申し出。本来ならばアリサに断る理由は無いだろう。けれど、今回ばかりは一人で向かいたかった。アリサは一度ローグから逃げる様に離れてしまった。だから、会いに行くならば一人でなければいけない。
「行っちゃったね」
 すずかが、感慨深げに呟く。ユーノやフェイトという、自分達よりもずっと前から魔法と関わりを持つ人達でさえどうにか出来ない事を、ただの一般人がどうにかしようとする。
「恋は偉大だよね。なのはちゃん、フェイトちゃん」
 そう言って、走り去るアリサの背中を見詰めていたすずかがなのはとフェイトの方を向く。
すると、視線を床に落としているフェイトが視界に収まった。どうしてだろう、酷く気落ちしている様な、まるで大事な約束を破ってしまったみたいな雰囲気。
「なのは…………私、言えなかった」
「大丈夫だよ。アリサちゃんは、ローくんを連れてまた来るから」
 なのはがフェイトの肩に左手を掛け、右手で頭を優しく撫でる。
「そうしたら謝ろう。ローくんとアリサちゃんに、あの日の事を」
 なのはが、フェイトがアリサとすずかに伝えなかった唯一の出来事。フェイトが、ローグの肉体を壊した事。
 その事を、アリサとすずかは既にイリスから聞いていた。けど自分達からそれについて触れる事は無かった。きっと、フェイトが自分から言葉にする時を待っていたから。その心に応えられなくて、フェイトは悲しくて泣いた。






「ねぇ、ザフィーラさん」
「なんだ?」
「何の用?」
 はやてとシャマルとヴィータの三人が買い物に出かけ、シグナムも用があるからと言って家を空けた。そんな日の午後。
 前日に八神家へ泊まったローグは、家に帰る事もせず、アリサにもすずかにも連絡を取りはせず、そのまま八神家で過ごしていた。バニングス家の執事、鮫島にだけは連絡を入れてあるが、アリサには黙っている様頼み込んでいる。
 そんな折、どうすればいいのか分からないでただ迷うローグをザフィーラが呼び出した。呼び出したとは言っても、部屋の中から窓の外へと出たに過ぎないが。
「そう構える必要は無い。君にとっては難しくも無い事だ」
 男同志の会話、というには少々外見年齢が離れ過ぎているが、何故だか不思議と違和感は無かった。きっと、少年と呼べる年齢である彼の妙に大人びた雰囲気と、成人と呼べる外見の彼の纏う余りにも気楽な空気が、外見の違和感を埋めているから。
 二人の間の張り詰めた空気。いや、張り詰めた空気を纏っているのはローグのみだ。きっとザフィーラは努めて身に纏う空気を軽くしようとしている。別に彼は誰かを責めたりするつもりじゃないから。
「何故、君は迷っている?」
 ザフィーラのローグに対する問いは簡素な一言。けれどその問いへの正しい答えは難しい。今のローグが迷う理由なんて、幾らでも彼の頭の中にはあったから。
 案の定、ローグは答えられなかった。
「難しく考える必要は無い。恐らくだが、君が迷っている理由は存外単純だ。いや、迷う理由など大抵は単純なものだ」
 考え始めるとキリが無い。深いと言っても過言では無いその台詞。ザフィーラだけに喋らすまいとローグは言葉を口にした。
「俺は、きっと怖いんだ。俺の好きな子が、アリサっていうんだけど、その子に嫌われるのが。いや、多分怖がられるのが怖い。そしたらもう一緒に遊べない気がして、家族で居られない気がして、なんか嫌なんだ。でもそれも、なんか多分本当の理由じゃ無い……のかな? もしかしたら、迷ってるって事からして違うのかも」
 出た言葉は次の言葉の呼び水となり、それが繰り返される。頭の中で考えが纏まっていないから、ついつい思い付くままに喋ってしまう。これでは説明不足の意味不明だ。
「それが君の迷っている、恐れている理由だ」
「それって、どれ?」
「全部だ」
 予想していなかった言葉にローグは戸惑う。てっきり、今述べた言葉のどれかだと指摘されるのだと思ったから。
「全部なんて、そんな事……」
「あるだろう。君がそのアリサという人に感じる不安の理由がそれならば、つまりは君をこの場に押し留める恐れの理由。君は、君が好きだと言った人を不安に思い、恐れている」
 ザフィーラの言葉を否定したくて、ローグは反論する。
「俺は! 俺は、アリサの事を恐れてなんかいない!」
「恐れているさ。その子に嫌われるのが、怖がられる事が怖くて堪らないのなら、それは恐れているという事だ。恐れとは、自分にとっての痛みに繋がる」
 ザフィーラは言葉を切って、ローグの反応を窺った。しかしローグはどんな事を言えばいいのか分からぬらしく、何も喋らない。
「主は、我等が仕える主、八神はやては君の逃げ場所では無い」
「いきなり何さ。今は八神の事を話していないだろ」
「関係あるから話すのだ。君は、主から寄せられる好意に甘えている」
「それは、そうかも知れない。俺は八神の事が嫌いじゃないから、嬉しい事言って貰えると、そのまま嬉しいって思うから。今の俺は全然ダメだから、頼れそうな友達がいると、つい頼っちゃうみたいなんだ」
 自分に向けられた好意を受け取るのは悪い事じゃ無い。それは確かな筈なのに、後ろめたさを覚えるのはなんでだろう?
「君は間違っていないだろう。だから言う。主の好意に甘えるな。それでは、余りに主が惨めだ」
「惨めって、そんな言い方ないだろう」
「いいや、惨めだ。君の眼が自分に全く向けられていない事を知りながらも、その好意を向け続けているのだから」
 自分に返って来ない好意を与え続ける事を、人は惨めと呼ぶだろうか? 分からない。壁に投げたボールが返って来ない。それでもその行為を続けるのは、盲目的なのか、ひたむきなのか、諦めが悪いのか。
 八神はやての現状を、アリサが好きだという心を変えないローグに淡い恋心を抱き続けるはやてを指す言葉を、ザフィーラは敢えて惨めと表現した。
「君が主を惨めにしているのだ」
「俺は八神に何もしていない」
「だからこそ、だ」
 何もしていないのに、人は他人に影響を与える。それは、その人の存在が他人にとって大きいから。
「誰かにとっての大きな存在であればある程に、君は誠実であらねばならない」
「誰に、誠実になれっていうんだ」
「自分自身の欲望にだ」
 ローグはザフィーラの言葉を噛んで含める様にしっかりとゆっくりと自分の中に取り込む。けれど、複雑な言葉はまだ幼いローグの頭には難しくって、どうにも理解し切れない。
 自分が他人にとって大きければ大きい程に、自分自身に誠実であれ。それはきっと、とても難しい。
「子供相手にそんな事言うかな、普通」
「君は普通では無い。君がモノを図るモノサシは、既に子供では無い」
「でも、俺は大人じゃ無い」
「そういった区別は、特別必要無いだろう。要は君がどうすれば自分の欲望に誠実であれるかを考える頭があれば良い」
 この自分自身に誠実であるにはどうすればいいか? そんなの簡単だ。思ったまま行動すればいい。自分が頭を捻くり回して考えた最善だと思える行為を実行すればいい。けどやっぱり子供でしか無いローグにそんな頭は無かった。
「そんな頭も無いよ。俺は、一個の事しか考えられない馬鹿だよ」
 だから、今は願望を答えよう。
 考える頭は無い。そもそも頭を捻くり回す余裕も残されていない。大好きな少女は、そんなに待ってはくれないだろうから。
「ならば順に答えてくれ。まず最初に、主をどう思っている?」
「好きだよ。大切な友達だ」
 問いと答えの間は無いに等しい。それは、はやての存在がローグの中で既に一つの形として確立して固まってしまっているから。
「次に、先程君が口にしたアリサという少女について」
「世界で一番大好きだ」
 またも即答。それは、考えるまでも無く半ば反射的に取る行為。
「ならば、主に要らぬ希望を持たせるな。大きな希望の後の大きな絶望程、苦しいものは無い」
「それは……きっとそうだけど。俺はどうすればいいのか分からないんだ。前に言ったと思うけど、今俺が生きてるのはイリスのお陰なんだ。そして、イリスは多分だけど俺に何かをさせようとしてる」
「何か問題があるのか?」
「大有りだよ。だってこの命はイリスに救われた、言っちゃえばあいつのものだ。あいつが欲しいって言ったら、返さないと。だからそんな俺が……どうすれば」
 言葉の最後は擦り切れる様に断たれた。誰かに救われた命、その救った誰かが自分に何かを求めるのなら、それに応えるのは当然だ。例えそれが命だとしても。それが、ローグの考えだった。
「君は馬鹿だな」
 一拍、間が開いた。
「そんなに馬鹿みたいに律儀に考えていては、何も出来ないぞ」
「そんな言い方ないだろう。だって、だって…………」
「君みたいな年齢の子が、一人でそんな考えには辿り着けないだろう。誰にその考えを吹き込まれた?」
「…………父さんに」
「君の父親がどう言ったかは分からない。だがはっきり言える事がある。君は極端だ」
「そうかな?」
「そうだとも。どんなに律儀にルールを守っても、不運は降りかかる。借りた傘を返そうとしても、返せない場合がある」
 例えば、借りた傘は使い古されたもので、借りている間に寿命がきて壊れてしまった。そんな、どうしようもない状況。
「世界の中には理不尽だと呼ばれる出来事が度々起こり、過去の人はそんな理不尽な出来事に立ち向かう為魔法を生み出し、しかしその魔法で理不尽を働く者も生まれる。絶対など無い」
 どんなに頑張ったって、絶対に叶えられる保証なんて無い。どんなに気を付けたって、事故を全部防げはしない。
「難しく考えるな。事態はもっと単純だ。君はアリサという子が好きで、共に居たい。だが君の恩人であるイリスはそれの障害になる。天秤にかけろ。どちらが重い?」
「そんなの決められないよ」
「決めるのだ。そうしなければ君だけでなく周囲までも不幸にする」
「アリサと、イリス」
「律儀に考えるな。君の欲望に誠実であれ。その先にある道が困難であればそれを乗り越える決意をしろ。例え君の決断が自分以外の全てを不幸にするものだったとしても、本心で決断したのならそれを否定できる者などいない。まぁ、君はそこまではしないだろうがな」
「俺は、救ってくれたイリスを突っぱねてでも…………アリサと居たい」
「それでいい。それが、君が君に対して、君の欲望に対して誠実であるという事だ」
 ザフィーラの言葉は、ローグの中に響いた。
 彼は、いや少年は、欲望という言葉に対して余り良いイメージを持ってはいなかった。テレビの中で欲の深い奴だ、とか言われるのは大抵が悪役だから。けれど違うんだ。欲望ってのは、きっと"やりたい事"が"欲しいもの"が名前を変えたに過ぎない。それはどんなに名前を変えても、結局は自分の心にある願い。即ち、欲望。
 もしそれを否定してしまったら、人は無意識にしてる呼吸すら否定する事になりかねない。呼吸するのは、人が当たり前に生きたいという欲望を持っているからだと思う。
「君の体の事ならば気にするな」
「気にしない訳にはいかないんだけど」
「君は見ただろう? 我等と主の夕食の風景を。あれは、嘘に見えたか?」
「嘘って何さ。家族が一緒に夕食なんて、嘘も本当も無いと思うけど」
「それが答えでは足りないか?」
「ああ、いや…………十分かな」
 気付かせてくれたのは、大切な友達とその家族。
 形など気にする程の事では無い。重要なのは、きっと、ローグがアリサを好きだっていう、アリサと一緒に居たいっていう欲望を持っている事。
「俺、帰るよ」
「そうか。たまには連絡を寄越して欲しい。主が喜ぶ」
「近い内にお礼に来るよ。泊めて貰ったし、夕食美味かったし」
 そう言ってローグは部屋の中へと戻り、ざっと部屋を見渡す。
 自分も、普通の人間じゃ無いと知って貰った上で、こんな場所に居たい。それだけを思って、玄関へと足を運ぶ。元より着替えも何も持って来てはいないのだし、荷物は無い。ローグがドアノブに手を掛けようとした瞬間、まだ触れてもいないそれが回り、扉が開いた。
「あら、ローグ君?」
 顔を覗かせたのはシャマル。そして背後にはやてとヴィータ。
 大量の食材が詰め込まれた買い物袋を眼にして、申し訳ない気持ちになりながらも、誠実になる。己の欲望に。
「ごめん。俺、帰るよ」
「え?」
 余りにも突然な言葉にはやては面食らう。ローグの真剣な表情を前にして、何も言えない。そもそも、何を言えばいいのかも分からない。
「折角はやてがお前の為にいろいろ用意したんだぞ。夕食まで居ろよ」
 一緒に買い物に行ったヴィータは、スーパーで楽しそうに食材を選ぶはやての姿を見ていた。だから、それを無かった事にする様な行為は歓迎出来ない。
 押しに弱いローグは、普段であれば押し留められただろう。ザフィーラの言葉を聞く前までなら、この八神家に運び込まれた時のままであれば。
 けど、今は違うから。
「絶対にまた来る。だからごめん。今日は、どうしても帰らないと」
 "帰る"という言葉がはやての耳に強く残る。ここは彼の居場所では無い。彼は昨日、たまたまここに居ただけだ。
 だから、帰るのは当然。
 はやてからすれば寂しい事だけど、それはしょうがない。
「また、来てくれるか?」
 はやてはせめてもの抵抗として、そんな言葉を口にした。正直、余り期待はしていなかった。ローグの眼には、自分は映っていない気がしたから。
「八神の料理美味かったから、また食べさせてくれるなら来る」
「なんか偉そうやなぁ。でも、ありがとうな」
「ああ。じゃ、またな」
 それだけ言うと、ローグは八神家を後にする。
 けど、ローグはここからの帰り道を知らない事を思い出した。
 ま、いざとなったら誰かに聞けば良いか。そう考えて取り敢えず大通りに通じていそうな道にあたりを付けて歩き出した。だが、少し進むと途端に周囲が結界に包まれる。
 見覚えのある魔法。恐らくはローグが単身になる瞬間を待ち構えていた。
「サイとキョウか」
 イリス同様、目的の分からない奴等。
「や、久し振り」
「今度は本気で行くよ」
 対魔剣ディスペルート、対物剣アンチマテリアル。
 二人の魔導師が構える。
「ああ、もう。今は急いでるってのに」
 苛立ちを含んだローグの声が、結界の中に響いた。



第十二話 完


『魔法少女』





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