くっちゃくっちゃ。
何か柔らかいものを噛む音が聞こえる。
くっちゃくっちゃ。
噛んで噛んで噛んで、飽きもせずに何度も噛み続ける。幾度開く口の隙間から音が漏れて、隣に座る青年の耳に届く。
くっちゃくっちゃ。
ただひたすらに噛んで、ふと気付けば味気ないものになっている。そしたらまたそれを口に放り込んで、飽きもせずまた噛む。途中に箸休めの様に液体に手を伸ばして啜り、また噛む。
彼女の眼前にはゴーストタウンと化した街並みが広がっており、地べたには赤い液体に濡れた人達が横たわる。それのどれもが呼吸を拒み、活動を停止している。
ふと視線を僅か下に傾けると、そこにも横たわる人が居る。他の者と同様に、活動は停止している。
手を伸ばし、掴み、噛む。
くっちゃくっちゃ。
ずずずっ、と啜る。
隣の青年が、我慢しかねて声を挙げた。
「なのはー、ホラー映画見ながらするめ食べるのやめなよ。それとトマトジュースも」
「え、なんでー?」
隣の青年、ユーノの声に返事をしながらもその口は噛む事を止めずに、眼は画面を見続けている。
「いや、なんかなのはの口から聞こえる音と画面の映像が、ちょっとね」
「気にしない気にしない。もうすぐラストだよ」
ちょっとした抗議をなのはに一蹴されたユーノは、諦めながらも不満げな顔を崩さずに画面を見やる。ちょうど主人公がウイルスだか幽霊だかが起こした騒ぎの原因を突き止めているところだ。
物語がクライマックスという事もあり、画面の中では子供なら泣き出すんじゃなかろうかと思える演出の連続だった。ただ、なのはとユーノの二人はそれを見て微動だにしない、というか映画を見始めてから一度として驚きも怖がりもしないので、製作者側的には悲しい事この上ないだろう。
主人公は事件の元凶となった人形を火にくべて燃やし、ゆっくりとゴーストタウンを後にする。そして感慨深げに劇中で死した友人の名を呟いて、エンドロールとなった。
なのははエンドロールが始まった瞬間に残ったするめを全部口に放り込み、それをペットボトルに半分程残ったトマトジュースで一気に流しこんで。
「げほっげほっ!」
むせた。
「ああほら、そんな一気に片付けようとするから」
それを見て仕方ないなぁといった風に背中をさするユーノ。こんな事は二人にとっては日常茶飯事で、初めは照れ臭くて仕方無かった衣服越しな恋人の背中も、今は触れ馴れた。
「あー、掌いっぱいになるだけのするめ一気はちょっと無理だったかなぁ」
ユーノに背中をさすられながらそう呟くなのはだが、ユーノとしてはホラー映画とするめとトマトジュースの取り合わせの方が不思議だった。いや、単に好みの問題だと言われればそれまででしかないのだけど。
「次は落ち着いて食べよう。別に少し放置したからって腐りはしないんだし」
「ユーノ君、腐ってからじゃ遅いんだよ。腐ったら食べられないんだよ」
言ってる事は至極真っ当なんだけど、どうにもずれてる気がしてならない。
「それより時間は大丈夫なの?確か4時からだったよね」
「あ、いっけなーい!今日はちょっと早く3時30分からだったんだった!」
なのはが時計を見ると時刻は3時10分。彼女の現在の住まい、市内某所の安アパートから約束の場所までは歩いて25分、走って15分、自転車で10分、車で5分、電車で3分、飛行機で1分、音速の出せるマシンなら十秒?ワープなら1秒。
とにかく、電車や飛行機の具体的速度なんてなのはの頭にはインプットされていないのだが、大体そんなもんと適当に考えて、どのみち選択は走るしかないなーと考えたら愛用のバッグを引っ掴んで部屋を後にする。
ドタバタドタバタという慌てた様な音がして、でも本人は全然慌てていないという光景を眺めているユーノ。
「事故にだけは気を付けてね」
「大丈夫、大丈夫!飛行機が真上に落下してくるとかしない限り平気だよ」
「ああ、うん」
そんな事、日常的に気を付けている人なんていないけど。そんな言葉を飲み込んでユーノはなのはを見送った。
それから、既にエンドロールが終わって久しいホラー映画のDVDを片付けて、冷蔵庫の中身を確かめる。うーん、なんて唸りながら夕食のメニューを考えるが、どうにも食材が足りない。流石にもやしと人参と米と調味料だけでは盛り上がりに欠けると踏んだユーノは、近所のスーパーへ買い物へ出かける事にした。
財布と携帯電話と鍵を持って外へ出る。扉を閉めて鍵をかけようとした時に気付いた。
「なのはったら……恥ずかしいなぁ」
アパートのとある一室のネームプレート。そこに書かれている『高町』という文字。そのすぐ下にマジックで書かれていた『スクライア』という字。恥ずかしいと思ってもそのネームプレートを外したり文字をマジックで塗りつぶしたりしようとは思わず、苦笑の後にユーノは見なかった事にした。
そしてユーノは振り返って階段を降りはじめる。市内某所の安アパート。大学生高町なのはと、その恋人ユーノ・スクライアの空間を後に。
この日の夜、なのはと夕食を取る事をちょっとだけ楽しみにしながら。
「今晩は、カレーかな」






「ごっめ〜ん!遅れた!」
ムスッ。
「なのはさん、遅いです」
「いやー、信号が赤になっちゃってさ」
ムスッ。
「それ普通ですよ」
「それが、二回もなっちゃって」
ムスッ。
「なのはさんの家からここまで信号は5つあります。それで二回なら運がいい方ですよ」
「子猫が道端で寝てて」
ムスッ。
「関係無いですよ」
「道を塞いでたんだよ」
ムスッ。
「跨いでくればよかったじゃないですか」
「女の子が大股で子猫を跨ぐなんて、そんなはしたない」
ムスッ。
「子猫なら大股で跨ぐ必要はないですよ。それにちょっと横通ればいいだけじゃないですか」
「それが、その子猫の全長は30メートルもあったんだよね」
「怪獣じゃないですか!」
「ニャンギャ〜、とか鳴くかな?」
「そんな空想上の生物は知りません」
「ネコザウルス」
「名前つけなくていいですよ!」
「ごめんね〜、スバル」
パンッ、と勢い良く両手を重ねて謝罪のポーズ。眉を“ハ”の字にして拝み倒す様な格好になる。
それを見て、仕方無いなぁ、といった、その実、別段怒っている訳でもないスバルはもういいですよと仕草で示した。
「それで、本当の理由は何なんですか?」
「コンビニでジュース買ってた」
「この近くに自販機あるんですから、着いてから買えば良かったじゃないですか」
「食べたいものや飲みたいものはね、そう思った時に飲み食いするのが一番美味しいんだよ!」
ビシッと効果音が付きそうなくらい握り拳で親指を元気に立てる、いわゆるサムズアップをするなのは。
「…………はい」
その立てた親指を、スバルが握って覆い隠す。そして親指を立てる。
「むむむ」
それに対してなのはがスバルの親指を握って覆い隠す。そして親指を立てる。
「はい」
ガシッ。
「てい」
ガシッ。
スバル、なのは、スバル、なのは、といった様に交互に相手の親指を握って覆い隠す。そして親指を立てる。
「はっ」
ガシッ。
「えい」
ガシッ。
「はい」
ガシッ。
「てい」
ガシッ。
「はっ」
ガシッ。
「えい」
ガシッ。
それが3分程続いた頃。
「私達、何してるんでしょうね?」
「さあ?」
お互いに意味不明な行動に気付いた。
「っと、それより練習始めますから。見てて下さいね!」
「うん。頑張ってね」
それまでの事は既に二人の記憶には無い。
というかリセットした。もう完膚なきまでに。記憶媒体であるディスクを真っ二つに割るかの如く盛大に。
「それにしても、よく毎日続けられるよね」
夕陽の射す川辺の土手、その一番高い場所に陣取るなのは。草生い茂る地面を、陸上用のシューズを履いて、運動用ジャージを着て駆けるスバルを、なのははぼーっと見詰める。
別に一緒に走るでもなく、特にどうしろとか指示するでもなく、ましてや休憩した時の為に冷えたジュースと柔らかなタオルを用意しておく事もせず、本当にただひたすらにぼーっと眺めて、脳味噌にその映像が残らないよーな残るよーな微妙なラインで見詰める。
スバルとじゃれあって、なんだかんだで時間を消費したので、もう夕刻に差し掛かろうという時間帯。太陽は顔を三分の一くらい埋めているのにまだまだ元気な光と熱を放つ。ちょっとは加減しろ、そのペースだと後半ばてるぞーとか、マラソンみたいな事考えたけど、相手は人間なんかとは比べ物にならないだけの時間を生きた太陽様々なので、いらぬ心配だと気付く。
ピタッ。
「わひゃっ!」
「どうも、なのはさん」
頬に触れた冷たい感触。汗をかいた缶ジュースのそれと同時に耳慣れた声が聞こえた。
「ティアナ、冷たいよ」
「あはは。ぼーっとしてるからですよ」
それだけ言ってティアナはなのはの隣に座る。
それから1時間くらい、二人で何を話すでもなく、ただ黙りながら、一人で走るスバルを見詰めていた。
ちょっとだけ長い沈黙を、なのはの言葉が破る。
「ねえ、ティアナ」
「なんですか?」
「スバルはさ、どうして私に練習を見て欲しい、なんて言ったのかな?」
「分かりません。なのはさんは運動苦手だし、陸上に関する知識もそんなに無いし、意地悪するし、すぐに誤魔化そうとするし、恋人がいる事を自慢するし、それに……」
「ちょっと、黙ろうか」
ギリギリギリ。
「あだだだだだ!ちょっ、アイアンクローはやめて下さい!潰れますって!」
「私って、そんなに怪力かな?」
ギリギリギリギリギリギリ。
「ぎゃーーーー!!」
ティアナの悲鳴を聞いて満足したのか、なのはが話を元に戻す。
「でも、確かにそうなんだよね。私は全然陸上を教える事が出来ないのに、どうしてスバルは部活が休みの日に練習を見ていて欲しいって言って来たのかな?」
「本人に聞くのが一番なんじゃないですか?私には分かりませんよ」
「そっか、恋人のティアナにも分からないとなると、やっぱり直接聞くしかないかな」
「誰が恋人ですか、誰が」
「ん?」
ティアナの抗議に不思議そうな顔で応えるなのは。その顔には、どこか間違ってた?という風な、信号の赤は止まれって意味だと答えたら違うと言い切られた様な表情をする。
「そんな顔されても」
「だって、ティアナはもうスバルと長いんでしょ」
「それは確かに、私とスバルは知り合ってからもうかれこれ2年くらいになりますけど」
「うん。だからだよ」
「はい?」
今度はティアナが不思議そうな顔をした。
「知りあってから2年くらいしか経って無いのに、もう100年くらい友達やってるみたいな関係なんだもん」
なのは何処か嬉しそうな顔でそう言い切った。これは本当の事だと。
「なのはさん、100年も友達する前に死にますから」
「いいのー、そういう部分を強調したかったのー」
ごろーんと、なのはは仰向けに寝転がる。草に背を預けて、もうすぐ一番星が見えそうな空を見上げる。
ティアナもそれを真似て、寝転がる。
二人の頭の中には、自然と、先に一番星を見つけたら勝ちという図式が出来上がっていた。
「「見つけた」」
何も言葉を交わさなかったのに、別に取り決めも何も無いのに、二人は競って、同時に同じ星を見上げて指差した。自分が先だと主張しようと、二人が背を草から離した時、上半身だけを起こした時。
「あれー、ティアだー」
本日分の自主練習メニューを消化したスバルがやって来た。
「あら、あんた練習もう終わったの?」
「うん。今日はこの後ちょっと用事があるからね。早めにしゅーりょー」
ティアナを見つけて嬉しそうに微笑むスバル。
「うわ、ティアってば制服のまま寝転んだら駄目だよ。背中に汚れが付いてる」
ティアナの肩に付いた土の汚れを見て取ったのであろうスバルが、彼女の学生服をはたいて汚れを落とし始める。それを面倒くさそうに眺めるティアナの眼は何処か嬉しそうだった。
「あ、そうだ。スバル」
「はい、なんですか?」
突然のなのはの呼び掛け。
「私とティアナ、どっちが先に一番星を見つけたのか分かる?」
「はい?」
理解不能でした。






「それで、これはどういう事なの?」
買い物から帰って来たユーノが用意した特製もやしカレーを前に、済まなそうな顔をしているティアナ。
「うん、ティアナの制服が汚れちゃってね。そのついでに一緒にご飯もって事」
「一番大事な部分が抜けてるよ!」
なのはは、汚れてしまったティアナの制服の土なり草なりをスバルと落とそうとしたのだが、どうにも思う様に落ちてくれない。濡れたタオルか何かを使えば落ちるかもとも思ったのだが、生憎と水道が使える施設は土手の近くに存在しない。なので、一番近いなのはの家で制服の汚れを落として、それじゃあついでにご飯も食べようという流れになったのだ。
それをティアナが説明すると、ユーノは納得がいったのか、それについては何も言わなかった。
「けどなのは、一人増えるんならあらかじめ言っておいてよ。ご飯足りるか分からないんだ」
この日は、スバルを夕食に招待する予定だった。なので用意された食事は三人分。メニューがカレーなので、多少作り置きをしておこうという予定もあり、大目にある。またご飯も、練習後のスバルはたくさん食べるだろうと考えて多めに炊いてある。別にあからさまに不足している訳では無いのだが、少しだけ心配になる。
「またそんな無茶言ってぇ。ついさっき増えたんだからしょうがいないでしょ」
「こういう時の為に携帯電話っていうものがあるの。連絡くれれば、もうちょっと何とかしたのに」
「私の携帯電話はお留守番要員なの」
「意味無いよ!」
二人のやり取りを見て、流石に気不味くなったのか、ティアナが会話に割って入った。
「あの、私帰りますね。元々予定に無かった訳ですし」
「「それは駄目」」
だが、二人揃って止められてしまった。
「しょうがない。スバル、今日はおかわり2杯までね」
「ええ、そんな!」
「ティアナの為でしょ、ワガママ言わないの」
「そうだね、そうしてもらえると助かるよ」
なのはとユーノの多方向攻撃にスバルが陥落しようかというその時。
ピンポーン。
「ん、誰だろ?」
「出て来るよ」
来客を告げるチャイムの音にユーノが立ち上がる。
「はーい。どちら様ですか?」
扉を開けると、そこには赤い髪の少女、ヴィータが居た。
「あ、ヴィータ。どうしたの?」
「はやてからお裾分け」
ヴィータが短く言って差し出したもの。それははやてが作ったのであろう炊き込みご飯が大量にあった。
「シグナムの祝い事があって今日はご馳走にしようって事になったんだけど、作り過ぎて夕食が余ったんだ」
なんという好都合。なんという作り過ぎ。
かくして、ヴィータは声を聞きつけたなのはにより部屋の中へ強制連行。五人がもやしカレーと炊き込みご飯で盛り上がるちょっと変な取り合わせの夕食へと発展した。






その頃の八神家。
「ヴィーター!何処に行ったんやー!カムバァーック!」
「もしもし、誘拐です!誘拐事件です!ヴィータちゃんがぁ〜!」
「ヴィータ!何故帰って来ないんだー!」
「くっ、私が付いて行っていれば!」
「み、みんな落ち着いて」
大騒ぎだった。






あとがき
みんな普通の人間なんで、騒ぎとか起こさずにまったりとやろうとしたのに、このオチはなんでしょうね?不思議です。
特に事件は起こらずゆるゆるーっと続きます。





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