カンカンカン。硬質な音が響く。
カンカンカン。靴の踵が金属を打つ音、階段を上る音。
カンカンカン。自分の家へと帰る音、一日を終えて、鬱蒼としていながらも何処かが幸せな街中から離れる音。
カンカンカン。踏切の音。
ガタンゴトンガタンゴトン。電車の音。
カツン。靴の踵が金属を打つ音。足を、止める音。
「良い、夕陽だね」
「そうですねー」
こうやってゆっくりと家へ帰り付くのは何日振りだろうか?少なくとも彼女、フェイト・T・ハラウオンはここ数日、夕陽の見える時間に自宅へ辿り着いた事は無い。それというのも、毎日遅くまで目指すものについての勉強を大学の図書館で重ねた結果で、それは彼女が目標へと進む過程。
だけど人は前だけを見ない。後ろを振り返る事もあれば横を垣間見る事もあるし、空も仰ぎ見れば地面も見下す。そうやって昔の思い出や隣で応援してくれる友達、空の上で見守ってくれているもう居ない人、足元に立つ大切な人を見る。
「どうしたんですか、フェイトさん?」
「ううん、何でもないよ」
足元に立つ大切な人、キャロ・ル・ルシェを静かに見つめて、どうして何時までも敬語で話すのかな、なんて考えて、すぐそれを取りやめた。
ガチャリと音をたてて自室への扉を開ければ、そこはもう市内某所の安アパートの中にある一人の部屋。もうすぐ、三人の部屋。
「ん、よ、ほっと」
ぴょんぴょんと嬉しそうに撥ねて、靴を脱ぎ散らかす。そのままの勢いで部屋の中に入れば、跳んだ勢いで転びそうにもなって、でもすぐに床に手を付くので転ばない。そんな年相応よりも少しだけ子供っぽい行動に微笑みながら、フェイトは無言で散らかったキャロの靴を片付けて、自室へ足を踏み入れる。。
喜んでキャロが足元にじゃれつけば、「遊ばないの」とたしなめる様に言ってはじゃれさせる。外出用に羽織っていた上着を脱ぐと、暑さの所為か少し肌は汗ばんでいて、このところ陽が出てる内は帰らなかったから、何時の間にかこんなに暑くなった事に気付かなかった。そう心内で呟く。
「はい、フェイトさん」
「うん、ありがと」
そんなフェイトを見てか、キャロが自分のハンカチを差し出してきた。ピンク色の、デフォルメされたウサギの刺繍が施された可愛らしいものだ。以前小学校のクラスメイトであるヴィータにねだられてちょっとした喧嘩の原因にもなったもの。以来はほとんど顔を見る事の無かったもの。
フェイトはそれを受取って、肌にへばりついた汗を拭う。そうしたらそれを他の洗濯物と一緒に洗濯機に入れて、スイッチを押す。
ごうんごうんという音を聞きながら汗でしっとりと濡れたシャツを脱ぎ、着替える。それを見てキャロが何かを探すけど、それはすぐに見つからない。
「キャーロ、着替えは自分で出すからいいよ。キャロも着替えてね」
「あ、はーい」
返事をするなりパタパタと走って自分様の着替えが詰め込まれた小さめのクローゼットの前へ。特にどれを着ると悩むでもなく上下の衣類を替え、外出時には必ず身に付けているお気に入りの帽子を仕舞う。
「もうすぐエリオも帰って来るよね」
「はい。お友達とサッカーしてから帰るって言ってましたから」
「うん。それじゃ夕食の準備しちゃおっか。キャロ、手伝ってくれる?」
「はい!」
フェイトの質問に、キャロは一も二も無く元気な声で返事をする。
それを見て少し笑って、フェイトは数日振りに家族の為に夕食を作る。いや、作ろうとした。
「あ、お醤油切れてる」
「こっちにも無いんですか?」
フェイトが普段使用している醤油を入れた小瓶を見て言った言葉に、キャロが台所の上部にある戸棚を指して言う。自分で開けないのは、単に手が届かないからで、キャロにはそれがちょっと悔しかった。
「腕とか伸びないかな?」
ぐぐっ、とキャロは腕を真上に伸ばしてみたが、やはり自分の本来の腕の長さ以上は伸びなかった。
「てやー!」
気合を入れても無理だった。
「やーっ!」
もっと気合を入れても無理だった。
「キャロ……何やってるの?」
「はっ!」
我に返った。
結局戸棚はフェイトが開け、中に入っている醤油のボス(キャロ命名)と呼ばれるもの。いわゆる醤油瓶にも目的の黒い液体は残っていなくて、フェイトは仕方無しにキャロを留守番として残し、買い物に出た。
目指すは近所のスーパー、フルカワである。






「あ、いらっしゃい。フェイトさん」
「こんにちは、秋君」
スーパーフルカワでフェイトを出迎えたのは、バイトの少年だった。彼はティアナと同じクラスであり、奇妙な偶然とティアナを通じてフェイトやなのはと知り合った。
その後、フェイトやなのはがよく利用しているこのスーパーでバイトをしている事が分かり、以来は顔を合わせれば挨拶くらい交わす仲にはなった。
「今日はどうしたんですか?」
「うん、ちょっとお醤油を切らせちゃってね」
彼はこんな何でも無い言葉を嬉しそうに受け取ると、一目散に走って行った。
「あれ?」
いきなり走り出すなんて全く思っていなかったフェイトは呆気にとられてその場を動けないでいたが、間もなく彼は走って戻って来た。両手で醤油瓶を抱えて。
「はい、確かこれですよね」
そう言って秋が差し出した物は、確かにフェイトが使用しているものと同じ銘柄だった。
「ありがと。でも良く分かったね」
「前に一度見てるんで。それと、一番活きの良い奴を選んでおきましたから」
「それじゃお魚屋さんだよ」
ほんの少しだけ苦笑して、間もなくフェイトは可笑しそうに笑いだす。なんで笑ったのか分からなかったけど、なんでか笑っていた。
「それじゃあ、他にも買うものあるから」
「はい。それじゃまた」
フェイトは折角スーパーに来たのだから他にも何か買って置こうと商品を見始めて、秋はそれを受けて自分の仕事に戻った。
「何か安売りしてるものでも…………って、秋君に聞けば早かったかな」
特に目的を持たず、なんとなく商品を見て回っていれば、予想もしない人物に会う事もある。それが普段は自分がそこにいる時間帯と違う場合であれば偶然の確率は尚高まって、大学で遅くまで勉強した帰りに寄る閉店間際に買い物に来る人と、夕食時の少し前に買い物に来る人は違うのだからそれは当然。
「ユーノ?」
何処となく弾んだ声でフェイトが口にした名前は、その名前の持ち主の耳に吸い込まれた。
自分の名前を読んだ不意の知り合いの声に、ユーノは少しだけ嬉しそうな顔で振り向く。
「ああ、フェイトか」
彼女の顔を見ると、ユーノはようやくそれをフェイトと認識した。手に空の買い物カゴをぶら下げているところを見ると、どうやらまだ買物は済んでいないらしい。
「もう、見なくても声で分からない?」
「いや、ごめんごめん。この時間に居るとは思ってなくて」
「ん、それもそうだね」
別段特別でも無く、ユーノは笑顔を向けて言葉を向ける。けど、フェイトはこの偶然に、内心少しだけ驚いていた。普段よりも時計の短針数回り分、それだけ早く帰って来ただけでこうも幸運だとは。
「ユーノは夕食のお買いもの?」
「うん。なのはがスバルを連れて来るって言っててね、冷蔵庫にある分じゃちょっと足りないんだよ」
「スバルが来るんじゃ生半可な量じゃ足りないね。大丈夫?手伝おうか?」
「そんなに心配する事無いよ。量のところはカレーって理由で誤魔化して大量生産、ある程度は日持ちするから作り過ぎても大丈夫」
そう言って屈託なく笑う。大学で学者になるべく勉強を続けているユーノだけど、時々こうして子供みたいな笑顔を見せる。そこに勉学に疲れた顔は無くて、目標の遠さに挫ける気配も無くて、とてもすっきりしたものだけがあった。そんな顔を見る回数に比例して、フェイトのなのはを羨ましいという気持ちが高まって行く。
「それで、フェイトは?」
「え、私何かあったっけ?」
「いや、何かあったというか、今日は早いねって事だよ」
その言葉に、フェイトは“ああ”とかいう風に納得してしまった。よくよく考えれば、自分がこの時間にここに居る事は大層珍しい、それこそ三毛猫のオスが見つかるくらい珍しいのだ。
「あーいや、それは言い過ぎかな?」
「ん?どうしたの?」
「何でもないよ」
フェイトは自分の想像を取り敢えずのところは掻き消して、ユーノに訳を説明し始める。普段はとっぷりと陽が沈むまで大学の図書館にて勉強を続けるフェイトが今日この場所に居る理由を。
「エリオとキャロを迎える準備が出来たからね、それで今日だけはちょっと早いの。歓迎してあげないと」
「そっか、二人が……二人を迎える!」
ユーノが何か重大な事に気付いた様に叫んだ。というかはっきりと重大な事に気付いた。
「それって、もしかして」
「うん。エリオとキャロは今日から私の家族だよ。だからせめて今日くらいは早く帰ってお祝いしないとね」
「ちょっとフェイト、なんで言ってくれないのさ。そんな事ならみんなでお祝いしたのに」
ユーノから当然と言わんばかりのニュアンスで言葉が飛び出る。それもその筈で、エリオとフェイト、そしてキャロのこれまでの経緯を考えればこそ。
エリオ・モンディアルとキャロ・ル・ルシェは元々が孤児で、『ゆりかご』という孤児院で暮らしていた。そして、フェイトはそのゆりかごに資金援助をしているカリム・グラシアを通じてキャロやエリオ、二人と同じ孤児のヴィヴィオといった子供達に出会った。
初めてフェイトとエリオとキャロが出会った日から丁度一年。この日、フェイトはエリオとキャロの保護者となる。それは、他人から見れば新聞の隅っこに鎮座するたいして興味のわかない記事に過ぎないが、本人達にとってはちょっとした事件。ひょっとすると、人生的運命的な分岐点になる。
「それはもうちょっと後で。実はまだ正式なものじゃなくてね、色々な問題を解決する為にカリムさんが動いてくれてるんだよ」
「そうなの?」
「うん。私とエリオとキャロが家族になる前祝いを、三人だけで。正式に決まったら、その時はちゃんとみんなに話すから」
「そっか。ならお祝いの料理はその時にとっておくね」
そう言って、ユーノは幼い二人の顔を思い浮かべる。孤児という他の子供とは違う環境の中で真っ直ぐ育ってくれている二人。もうすぐフェイトの家族に、正確にはリンディ・ハラウオンが保護者となったハラウオンの家族だが、それでも結局はフェイトの家族だ。
別にこの結果に辿り着くまでドラマの様な展開があった訳では無い。必要なのはただお互いの心の準備程度だったのだろう。それくらいにハラウオン家の者とエリオとキャロは会ってすぐにその仲を深めていた。流石に、本気で家族になろうと思うだけの時間はそれなりに必要としたが。
だから、別段苦難は無かった。少なくとも、フェイトやクロノ、リンディにエイミィが幼い二人と接している風景を眺める分にはそう見て取れた。難しくも辛くも無く、準備期間だけを要しただけののんびりとしたものだった筈なのに、どうしてか達成されると感慨深い。それは、たった50ピースのジグソーパズルの様に時間を積み重ねれば難しく考える事無く、いつかは完成されるもの。
「こんなものかな」
ゆっくりと、止めど無い思考をぐーるぐーる回し続けている内にユーノの買物は終わった。ひとまず今日必要なものだけをそろえて、レジへと向かおうとすると。
「むーっ」
フェイトがむくれていた。
「ど、どうしたの?」
「ユーノってば、何を言っても返事してくれないんだもん」
やっちゃった。そうユーノは内心で呟いた。
何時もこうだ、考えの深みにはまると抜け出せない。答えらしきもののある事に付いて考えているのならいいが、こういう家族の事といった具体的答えなど思いつきもしない物事に付いて考えるとエンドレスなループだ。
「ごめんごめん」
「もういいよ」
フェイトは少しだけ拗ねた口調で言うとさっさとレジへと向かってしまった。ユーノはその背中を見て、やれやれと髪を掻き回す。






「ごめんね、待った?」
「あ、おかえりなさい」
フェイトが買い物を終えて自宅に戻ると、そこには友達とサッカーをしていた筈のエリオが居た。どうやらキャロと二人でテレビを見ていたらしく、何故か夕方によくやっている太ったタレントがいろんな料理を食べる番組を見ていた。
「おかえりなさい、フェイトさん」
「うん、ただいま」
“おかえり”と“ただいま”という、別に意識するまでも無いやり取り。フェイトにとってもそうだが、エリオとキャロにとってはこの日のやり取りは特別なものに思えた。きっと、これから家族になる人だから。
「すぐに用意しちゃうね」
言って、フェイトは買い物袋を引き連れて台所へ。キャロもその後ろをとてとてと追い縋る。エリオだけはそれに参加せずテレビへ意識を向ける。本心では手伝いたいエリオだが、以前手伝おうとした時、キャロに「エリオ君はサッカーやって疲れてるからいいの」そう断られてしまった。
サッカーをして遊んでいたエリオが手伝わずに、普段からフェイトや孤児院ゆりかごに勤めるシャッハの手伝いをしているキャロが働く。どうにも不公平に思えるエリオだが、そこは女の子のプライドがあるから、と以前フェイトに言われたので、分からないながらも納得している。
「ふんふんふ〜ん」
トントントン、という小気味良いリズムを織り交ぜたフェイトの鼻歌。忙しく動き回っているのだろう、とたとたどたどた鳴るキャロの足音。エリオは、目の前のテレビに映る豪華な食材を使用した料理も、タレントの料理を絶賛するコメントも聞かず、背中から聞こえる鼻歌と足音に耳を傾けていた。
料理開始からおそよ1時間。鼻歌が止み、足音も消える。どうやら料理が出来たみたいで、運動してお腹が減っているエリオにとっては待ちに待った瞬間。一体どんなご飯が食べられるのか、そう期待に胸膨らませて振り返れば。
「うわわわわわーーー!!」
鍋が宙を舞う。汁が空を駆ける。具が重力に引かれて落下する。キャロが、転ぶ。
グシャッ。
ハラウオン家の夕食、ここに散る。



15分後。



ドーンッ。
「うわ!なんだなんだ!」
突然の物音に食事中だったユーノは思わずカレーの入った皿を取りこぼしそうになる。
何事かと物音のした方に目を向けて見れば。
「ごめん!なのは、ユーノ!ご飯食べさせて!」
フェイトがエリオとキャロを引き連れて拝み倒しのポーズをとっていた。



5分後。



「ふぅ、なんとか量はありそうだよ」
急遽増えた人員分の夕食はあるのかと調査をしていたユーノが台所から帰還する。
どうやら兵糧は無事確保出来たらしく、夕食の花形とも言えるカレーとご飯が大盛りになった皿を三つ抱えている。
「けど本当にヴィータちゃんには感謝だよね。ヴィータちゃんの持って来てくれた炊き込みご飯が無かったら確実に敵の兵糧攻めは成功して、私達は敗走必死だったよ」
敵ってなんだ、とか誰もツッコミを入れないのは、入れたら入れたでまた何か変な切り返しをされそうだからである。ツッコミマスターティアナ(スバル命名)でさえ炊き込みご飯に集中している。そんな平和な夕食の場。
ピンポーン。
ガチャッ。
「夕食時に済まない。ヴィータが来ていないか?」
炊き込みご飯のお裾分けをしに行ったきり戻って来ないヴィータを心配して見に来たザフィーラが居た。
「もうザフィーラさんも一緒にご飯食べればいいよ!」
ザフィーラ、なのはにより捕縛。主な理由は彼の手にあった大量の食材が詰め込まれた買い物袋だと思われる。ザフィーラははやてによって行方不明になったヴィータを探すと同時に買い物の任も任されていた。
こうして、宴は始まった。






その少し後の八神家。
「今度はザフィーラまで行方不明に!」
「私の所為や!私がヴィータ探すついでに買い物して来てって、パシリみたいな事を言ったからぁぁーー!」
「もしもし、自衛隊ですか!誘拐事件です!」
「いや、シャマル、自衛隊は違う」
ヴィータが出掛けてから40分。ザフィーラが出掛けてから15分後の事だった。





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