心臓の鼓動が五月蠅いと思った事はあるだろうか?ユーノは漫画や小説などで時折見るその表現に、多少の無理を感じていた。鼓動というのは、つまり心臓が体に血を流す時の音で、生きている限り四六時中鳴っている。いわばその生物が生きている証だ。それを五月蠅いと感じるのなら、電車が発車する時のベルや飛行機の離陸音を耳にした場合失神でもしてしまうんじゃないだろうか?いや、鼓動が五月蠅いというのは特定の状況下でのみ適応されるのだろうから、仮にそう感じる事がある人が電車や飛行機に乗っても失神なんかしないだろう。
分かり切った事を回りくどく考えて、ユーノは現実逃避をする。目の前の現実から眼を背ける為に。
「ど、どうしよう」
そう、ユーノは今まさに自分の心臓の鼓動が五月蠅く思える特定の状況下。真夜中の無音の中、聞こえるのは自分の心臓の鼓動と、同じ布団の中で隣に眠る人の寝息だけ。
ドクンドクン。スースー。
最も意識されるのは寝息。それを掻き消し誤魔化す為に無意識下で自分の心臓の鼓動を意識し、寝息にノイズを混ぜる。冷静になれ、眼を逸らせ、手を縛れ、足を縛れ、もういっそ石になれ。
ユーノは同じ布団の中でユーノに寄り添って眠るフェイトを意識しない様に努める事で精一杯だった。とてもじゃないが眠れる状況では無く、かといって起きていると刺激が強くて罪悪感満載でもうとてもじゃないが普通でいられない。
時刻は深夜1時。もう終電も行ってしまった時間帯だ。別にフェイトのアパートからなのはとユーノのアパートまでは歩いて帰れる距離なので交通機関が動いていようがいまいが関係無いが、生憎と帰り道にある街灯は工事中で点灯していない。なので、フェイトの泊まっていってというお誘いを断る事が出来なかった。
「いや、どうもしない。うん。どうもしない」
帰れないんだから、友達の家に泊まる理由としては十分だろう。なのはにはクロノのところに泊まったとでも言えば問題は回避される。けどだからといって、ユーノとフェイトが同じ布団で寝ている事はどうにもならない。
一人で暮らすには少々広い、三人で暮らすにはほんの少し手狭なアパートに眠る人物は現在四人。エリオとキャロがそれぞれ自分の布団で眠り、ユーノが普段フェイトの使っている布団でフェイトと一緒に寝ている。
おかしい。明らかにおかしい。ここは普通、ユーノはエリオと一緒の布団とか、フェイトとキャロが一緒の布団で寝てユーノは普段フェイトが使っている布団を、とかなるだろう。大人の男女二人と子供の男女二人に布団三組。これでどうして大人二人が一緒に寝なければならないのか。こう、回避パターンはいくつもあっただろうに。しかもユーノにはなのはという恋人がいるのに、それを一番良く知っていると言えるフェイトがユーノと同じ布団。これはもう、フェイトが何を望んでいるのかは考えるまでもない。
「ふぅ。フェイトは何がしたいんだろう」
半ば分かり切った事を否定すべく言葉を口にするが、それは殊更にフェイトの意図を浮きだたせる。



――――――――――



「ねぇ、ご飯食べて行くよね?」
「あ、うん。頂くよ」
ユーノがフェイトとエリオとキャロの三人が住むアパートへやって来て一時間程が経った。当初の目的通りにエリオとキャロの意見を参考にして、順調に絵本のシナリオを考えるユーノに声が掛った。内容は至って普通の、夕食時だから食べて行きなよ、というもの。なのはは八神家の方で同じようにしているだろうから、ここで断る理由は無い。在り難い申し出に頷くと、フェイトは嬉しそうに夕食の準備を始める。今夜は麻婆豆腐らしく、豆腐や野菜や麻婆豆腐の元が見える。
フェイト、エリオ、キャロの三人が住むアパートは和室だ。床は畳で、押入れもあるし、ちゃぶ台まである。ただし、部屋の隅に置かれている机は特別和風という訳では無く、極一般的に売っているものだ。
こういった和室に、フェイトやエリオやキャロといった髪色、そしてちゃぶ台の上に乗せられるだろう麻婆豆腐を思うと、なんとも多彩な取り合わせだ。かくいうユーノも、自分を和室が似合う風貌だとは思っていないが。
「手伝おうか?」
「いいよ。それよりもユーノは絵本作りに集中して。ヴィヴィオの誕生日に間に合わせて貰わないと」
優しいながらも手厳しい。夕食作るし絵本作りも手伝う、だからなんとしても間に合わせろ。ニュアンスとしては大体合っているだろう。フェイトはフェイトなりにヴィヴィオの誕生日を祝う手伝いをしたいと思っている。勿論、それはエリオとキャロも同じで、二人共真剣に話を聞き、意見を出してくれる。誕生日のプレゼントなんだから、やっぱり楽しい物語が良いとか、悪い魔女はいっそたくさん出そうとか、やっぱり最後は王子様のキスでお姫様が、といった意見がバンバン出て来る。やはり絵本となれば童話というイメージが強いのか、二人から出て来るのはそういったものばかりだ。ユーノもその考えを否定する気はないのだろう、役に立ちそうにないアイデアにも真剣に耳を傾けて全力で絵本作りに励んでいる。
というか、ヴィヴィオの誕生日と同時にエリオとキャロがハラオウン家に加わった事も祝うので、この二人も祝われる側。プレゼントをあげる側か貰う側かと言えば、当然の様に後者なのだが、二人にそれは関係無いみたいだ。純粋に、友達の誕生日を素敵なものにしたいと思っているんだろう。
絵本のストーリー作りがほとんど完成した頃、フェイトから夕食が出来たと声が掛った。
「調子はどう?間に合いそうならいいんだけど」
「うん、二人に協力して貰ったから大分進んだよ。僕が筋だけ考えていたストーリーを二人に見て貰って直していくって形なんだけど、たくさん意見を出してくれるからすいすい進むんだ。本当、感謝してるよ」
「そんな、私達は何もしてないですよ。ただユーノさんの考えたお話を読ませて貰ってるだけみたいなものです」
「それでいいんだよ。下手に複雑な言い回しを使ったりして分かり難くなってないか見て貰ったりだけで。確かに今のストーリーはほとんど僕が考えて来たものそのままだけど、キャロに読んで貰って、分かり難くありません大丈夫ですって太鼓判押して貰えるだけで随分違うんだ。自信になる、みたいなものかな」
「良かった。それじゃあ僕達も力になれてるんですね」
「うん。僕じゃ考え付かない事も教えて貰ったしね」
大丈夫、凄く助かっている。そういった意味を込めたユーノの言葉は思ったよりもずっとストレートに二人に伝わったらしい。僅かに照れて恥ずかしそうにするキャロと、力になれた事を素直に喜ぶエリオ。
「あ、そうだ。前からユーノさんに聞きたい事があったんですよ」
「何だい?」
絵本作りを手伝って貰ったお礼として、ユーノは自分に応えられる事ならばなんでも応えるつもりでいた。
「恋人同士って、どんな事をするんですか?」
「やっぱりデートですか?それとも一緒にご飯の支度とかですか?」
好奇心旺盛な少年と少女は、身近にいる恋人同士という存在に興味津々の様だ。キャロは質問を、エリオは自分の予想を口にしてユーノの返事を待つ。だが、困った事にユーノは二人を満足させるだけの答えを持って無い。
「うーん、そうだね」
如何にも勿体ぶってます、という風に顎に手を当てて悩むそぶり。そんな大人の余裕を持った仕草の裏で、ユーノは必死に頭を回す。どうすれば二人を納得させるかを考えているのだ。


困ったな。普段からなのはと一緒に出かけたりはしてるけど、何か特別な事なんかしてないし、気の向くままにぶらぶらと歩いて遊んでたりするだけだし、当然二人で食事の支度をしたりもする。それはキャロとエリオの口にした答えそのもので、一見すると正解みたいだ。けどそんなありきたりな答えをしても二人は多分喜ばない。僕が二人に教える事は、出来れば二人の知らない事でありたい。少し大袈裟だけど、やっぱり期待には応えたい。


フェイトが予想したユーノの考えている事は、そうだった。夕食の団欒に紛れる他愛の無い会話なのに、妙に真面目に答えようとする。ちょっとそれらしい事を言っておけば、キャロもエリオも疑いもせず信じるのに。
そう考えるとほんの少しだけ笑みが零れた。全く、ユーノはすぐに難しい事をしようとする。一般的な恋人同士であるユーノとなのはの生活の中で、恋人同士がするありきたりな事以外の何かを答えるのなら、ユーノは自分の中の自分が知らないものに気付かないといけない。それはきっと、蟻が鳥の大きさに気付く事に似ている。蟻は頭上を見上げないと鳥に気付けないけど、蟻は頭上を見上げる必要性を感じていない。だから、わざわざそんな難しい事をしようとするユーノが可笑しかった。
「難しく考えなくていいんじゃない?」
「あ……そうだね。僕となのはは、そう、楽しくすごしてるよ。ずっとね」
「それってどういう事ですか?」
「なのはさんと居る時は楽しくすごしてるっていう事は、今は違うんですか?」
不意に、エリオの顔に若干の不安が見て取れた。
「ごめん、ちょっと回りくどかったかな。僕はなのはと居るとね、ずっと楽しいんだよ。一人でやるとちょっと面倒な事も、なのはと居ると楽しく変えられる。恋人同士って、きっとそういう事が出来る人達の事を言うんだよ。大きな問題までは変えられないまでも、小さな問題ならそれを苦にしないものに変えられる」
「でも、私もエリオ君と居るとずっと楽しい事ばかりですよ」
「じゃあキャロとエリオは恋人同士なんじゃない?」
その言葉に化学反応を起こしたかの様に、キャロの顔が赤くなる。ユーノが視線を横にずらせば、エリオの顔もキャロ程ではないが赤くなっている。
「もしかして、私だけ一人身?」
二人の反応を見てフェイトが言う。なんか憂いを含んだというか、自分の子供に先を越されたというか、これはキャロとエリオの中が良い事を喜ぶべきなの?それとも自分だけ一人身なのを悲しむべきなの?といった複雑そうな表情だ。






夕食を終えて風呂にも入って、特に何も無いゆっくりとした時間を過ごしたその後。
明日も学校がある子供二人は早々に布団に入って眠りについた午後10時過ぎ。ユーノはスタンドライトの明かりを使って絵本のストーリーの執筆作業に掛っていた。
「まだやるの?ユーノだって明日も大学があるんでしょ」
「そうだけど、明日は受けたい講義が少し遅めに始まるんだ。ちょっとくらい寝坊しても平気だよ」
フェイトは執筆作業を続けるユーノから少し離れ、食事に使用するちゃぶ台で弁護士になる為の勉強をしていた。
「それに、気も同じでしょ。しかも僕より大変なんじゃないの?僕には絶対に受かりたい試験って言うのはない。今は考古学が好きで学んでいるけど、それがこの先職業になるかは分からない。けど君はその為の勉強だ、体を壊す前に休んだ方が良い」
分厚い法律関係の本を使い勉強を進めるフェイト。ユーノにはフェイトが何処か無理している様に思えてならない。目的の為に行動を開始するのは早い方が良い。だが、だからといって余り早くから根を詰め過ぎていると、何処かで倒れてしまう可能性もある。大学の卒業までまだ時間はあるのだ、そう急く事も無いだろう。
「そうなんだけどね。どうしても不安で。傍で兄さんを見てると、やっぱり凄いなって思っちゃって」
ユーノの心配を、フェイトは当たり前だと言わんばかりに返す。目標は高いのだ、辿り着く為には努力をしなくては。
「なるほど、クロノを目指すんなら確かに少しは根を詰めないとね」
クロノ・ハラオウンは、史上稀に見る優秀な検事だ。それは検事という職業に着いた過程では無く、検事として働いた功績。推理ものの漫画ではないが、誰の目から見てもそいつが事件を起こしたと分かる人間が裁判にかけられた。だが証拠が無く、そいつがやったと証明する事は不可能だ。そう誰もが思った。けどクロノは、どうやったのかは知らないがそいつがやったという決定的な証拠を無罪が確定する直前に突き付けてやったんだ。証拠を突きつけられたそいつは、自白を始め、結果として無罪は一転した。
これは所謂、不可能を可能にした、というやつだ。
そんな事が現実にあり得る訳が無い、誰もがそう思ったが、実際にユーノはそのあり得る訳が無い事を見た。事実は小説よりも奇なりという言葉を死ぬ程納得したのは、あの時が最初で最後だろう。
そんな偉業とも言える事を成し遂げた人物を目標にしたのだ、そりゃフェイトの苦労は半端じゃないだろう。
「けど」
ぐいっ。ユーノはフェイトの肩を掴んで引っ張り、彼女の布団まで連れて行く。そして座らせると両手で肩を掴む。
「大きなイベントの前は体調に気を使うべきだよ。フェイトだって、ヴィヴィオにママって呼ばれてるでしょ。二人居るお母さんの内の一人からは誕生日を祝って貰えないなんて、悲しいじゃないか」
だから今日は休もう。そう付け加えるとユーノは帰り支度を始める。
「あ、ユーノ」
休めという言葉に反論がある訳では無い。ただ、フェイトには気がかりな事があった。
「大丈夫なの?」
「うん。大丈夫だよ」
「でも、それ私のノートだよ」
帰り支度を進めるユーノは、自分の鞄に自分のノートを入れるつもりがフェイトのノートを入れ様としていた。手元から30センチ程離れているそれを、文字通り目前まで持って来て名前を確かめる。フェイト・T・ハラオウン。流暢な文字でそう書かれていた。
そのノートを鞄に入れるのでは無く机の上に置き、片手を額に当て、なんてこったいという風な仕草。
「…………手伝って貰えないかな?」
「うん、いいよ」
スタンドライトの明かりだけでは頼りないのか、絵本の執筆に使っていた道具の回収に手間取るユーノ。代わりとばかりにフェイトがてきぱきとペンやノートを仕舞い込む。
「帰ったらパソコンにまとめるの?」
「いや、絵本だからね。紙に手書きにするよ。その方が、世界に一つって感じがするでしょ?」
フェイトにばかり片付けさせては申し訳ないと、ユーノも片づけを始める。といっても、元より荷物も多くないので片付けはほぼ終わっている。けどそれでも一つくらいはとユーノは机の上に転がる消しゴムに手を伸ばした。
「あ」
と、思ったのに。ユーノは見事なまでにフェイトの手を掴んでいた。消しゴムは、フェイトの手のすぐ前にある。どうしてこう、見間違えるかなぁとユーノは思いながらも、謝罪の言葉を出そうとする。
「ごめ……」
グイッ。だが、その言葉は体が急に引っ張られた事で遮られた。体を引っ張ったのは、他でも無いフェイトだ。彼女はユーノの顔を自分の顔の傍まで引き寄せると、耳元で言った。
「さっき思い出したんだけど、近所の街灯は全部工事中で今は点かないの。危険だから泊まっていって」
口調はお願いする形なのに、その言葉にはどうしてか強制力があった。
「それに、ユーノだって良くして貰ってる教授から外国の遺跡探索に誘われたって聞いたよ。ヴィヴィオの誕生日からそんなに間はないんだよね?無理は良くないよ」
ユーノが以前大学のスカリエッティ教授とした会話を思い出すと、確かに密林地帯だか何処かにある遺跡の探索に行かないかと誘われた覚えはある。あの教授は変わり者で、そういった事が好きなんだそうだ。ユーノはその誘いを受けるつもりでいたし、フェイトの言う通りに遺跡探索に出発する日取りは、ヴィヴィオの誕生日から一月と間が無い。
ここで無理をして作成活動を続けてヴィヴィオの誕生日に絵本が間に合わないなど本末転倒。危険なのに無理に帰って事故にでも会って、やっぱり絵本が間に合わなくても駄目。絵本が間に合っても、その後の遺跡探索に万全の状態で行けないとなれば、ヴィヴィオは自分の所為だと思うかも知れない。
「もし大変だったらさ、私に頼って。その時は、精一杯手伝うから」
フェイトが、真摯な眼差しで息の掛かる距離でユーノに言う。
「そうだね、そうするよ」



――――――――――



フェイトが何を思ってユーノと同じ布団に居るのか、意図は大体分かっている。それは純粋な心配と、ほんの少しの期待。
フェイトはユーノの体を気遣って傍に居る。そして、フェイトはユーノが好きだから傍に居る。勿論、ここでユーノがなのはからフェイトへと心を移すなんて思っちゃいない。そんな節操無しであれば、フェイトは初めから好きにならないし、なのはもそうだろう。
全部分かった上で、フェイトはユーノの傍に居る。ユーノの体を心配し、傍に居ながらも彼を好きだという思いは実らないと知っている。実らないと知っているけど、その思いは実って欲しいから傍に居る。けど、ここでフェイトの思いに応えるユーノはフェイトの好きになったユーノじゃない。少なくとも、なのはと何の理由も無しに別れるユーノであれば、フェイトは好きとまで思わない。大事な友達であるにしても、きっと好きでは無くなる。
「ありがとう、フェイト」
だから、ユーノは感謝を。自分の体を気遣ってくれる事への礼。フェイトの思いに応えられない事を、謝りはしない。それは失礼だろう。
フェイトの行為に感謝しつつも、やはり恋人がいる身で同年代の女性と同じ布団で眠るのは問題があるだろう。ユーノは押し入れの中から手探りで毛布を拝借し、フェイトの隣で眠る事に決めた。これならば、心配してすぐ傍に居てくれるフェイトの面目も潰れないだろう。そう考えると安心したのか、途端に眠気が襲ってくる。ユーノはその眠気に逆らう事無く、眠りに落ちた。





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