第一話「そしてこの手の中に」 海鳴市上空。 そこには不思議な物体が浮かんでいた。 そう、浮かんでいるというだけで充分に不思議である。 外見上はおよそ浮遊する要素を全く持たないのに浮遊している。 にも関わらずこの物体はそれ以外の要素で不思議と呼ぶ事が出来る。 強い光を常に放っているそれは、その光故に辛うじて存在を確認出来る程度にしか見えず、正確な形は解らない。 何かを見ている様な、そんな表現が似合いそうな明滅を数度繰り返し、やがて光は収まる。 見えた。光が収まったそこに、それを放っていた物体が在った。 形を例えるならそれはそっくりそのままトランプのダイヤと言える。それは地上の何処かを見据えた。 そんな気がする傾き方をして、目的の場所らしき所へい一直線に飛んで行った。 夜の街の明かりに呑まれ、その存在が確認出来なくなる。 これより、この物体を巡る争いが起きる。 これは高町なのはが魔法と触れ合う最初の物語。 「じゃあねー!」 元気な声を響かせて、高く上げた右手をブンブンと振り回して、友達へ別れの挨拶を。 学校からの何時もの帰り道、何時もの分かれ道。 クラスの友達と共に帰途に着き、お互いの家へ向かう為の分岐点に差し掛かったなのはが取った子供染みた行為。 この行為は小学生の低学年辺りまでが関の山で、それ以上にもなると恥ずかしさでどうにもやる気の起きない、その実貴重なイベントである。 そんな貴重なイベントをそうと気付かずに行う高町なのはは普段通りだった。 朝起きて、身支度を整え、朝食を食べて、友人と共に学校へ。 学校での勉強はそれなりの学力が要求されるが、なのははそれをきちんとこなしていた。 それはある程度難易度は高いがそれに見合った対価はある。将来その対価が生かされるかは別だが。 ともあれ、良くも悪くも平凡をなぞり、休み時間に昼休みという学校である意味一番重要な時間を過ごし、なのはは家へと向かう。 そうして過ごした貴重な時間、そのすぐ後に貴重では済まされないイベントが待ちうけていた。 出来れば一生関わりたくないと思う人間が大多数を占めるであろう厄介極まりない事態。 帰りの道すがら、なのはが森と呼べるくらい樹木が集まったその場所を見た。 それを見て、頭の良い大人はこう思う。 『大変だ』 でもなのはは小学生で純真な子供と言える年。だからこう思う。 「助けなきゃ!」 大慌てが大盤振る舞い。 全身を使って焦っているという様な状況をアピールさせられているなのは。 それもその筈、突然全力疾走なんてされた日にはどんなに冷静な大人でもなのはの慌てぶりを肌で感じるというものだ。 そして向かった先にあるのは怪異。 膨れ上がる何かと、それに覆いかぶさられようとしているなのはと同い年くらいの少年。 大人ではこうはいくまい。 状況の危機的レベルを無意識に考え、保身を考慮に入れて動く大人では。 大人はそれで正しい、責任ある立場の人間ならばなおさらだ。 けどなのはには、純真無垢な小学生には、保身より何よりただ心に従って行動する。 それは尊くて、危険で、大切なもの。 それ故に子供は強く弱い。 だからこれは生命の危機だ。 現在進行形で膨れ上がる何かと、少年の間に飛び出して両手を大きく広げるなのは。 台詞を当てはめるなら、『やめろ』というのがしっくりくる感じ。 まるで強盗の持つ銃に怯える銀行員を庇う刑事みたいだ。 まぁ、なのはと刑事の両方にとって、そんな状況は生命の危機以外の何物でも無いが。 「なんなの?あなたはなんなの?」 思わず口から出た言葉は、問い。 自分の理解の範疇を超えた存在に対する原始的な畏怖。 先程は助けたいという意思が強かったが、冷静になればなるほど恐怖が込み上げて来る。 でも退けない。そう強く思うなのははまるで勇者だ。 自分の後ろには恐怖の余り腰を抜かし、動けなくなっている少年が居る。 恐らくは自分と同い年だろうその少年は、なのはの出現に僅かな希望とそれ以上の絶望を覚えた。 だってそうだろう?とんでもない理解不能を前にして、助けにきてくれたのは自分と年のそう変わらない少女だ。 これが屈強な肉体を持つ警察官であったならどれ程頼もしいか、どれ程信頼を寄せられたか。 ところでこの少年の考えは、正しくて間違いである。 警察官の出現に安心感を抱くであろうその精神は正しい、それが当たり前というものだ。 だが、仮にそれ以上に強力な戦車が来ても、助かるなどというのは間違いだ。 例え並の火器では破壊出来ない戦車であったとしてもこいつの爪は防げない。 そう、この膨れ上がっている何かは爪を生やした。 否、伸ばした。 これは最初からその存在の付属品。 大きな大きな糸の塊の中から現れたのは巨大な蜘蛛。 口元を真っ赤に濡らしながら、人間大の何かを咀嚼しつつ、それはのそりと身を進めて来る。 脚に、体に体毛が鬱蒼と生い茂る。 グロテスクなシーンのある映画を平気で見る人間も直視するのを躊躇う程に醜悪な姿。 まだ糸の中から全身が出ていないがそれでも全長は4メートルはあるだろう巨躯。 なんて絶望だ。 こんな化け物が相手では生身の人間は当然として、戦車でも敵わないに違い無い。 だってあの爪、十数本の大木を一薙ぎで倒したんだ。 「うぁ、……ああ」 恐怖に今更ながら駆られるなのは。よくここまで保った、よくやったと手放しで褒めてあげられる。 でもそんな事は大蜘蛛には関係が無くて、それ故に眼の前に現れたなのはを己が食物としてしか考えなかった。 だからこうなる。 だから死を与える側で無く、死を受け取る側に回るのだ。 そう、今この時より大蜘蛛は狩られる側。 「来て……」 無意識の内に声が出た。 いや、無意識では無い。彼女の意識ははっきりとしている。 これはなのは目掛けて飛び迫る何かが発させた言葉。 意思を奪って発させた言葉。 つまりはそれにとっての目印だ。 「そう、こっちへ……」 遠く離れた場所から対象を操る。 まさにおとぎ話の魔法使い、それも悪役といえよう。 「さあ……」 超高速で迫るそれは時速にして数百キロはくだらない速度で飛ぶ。 「速く!」 それは振り上げた蜘蛛の爪の下を潜り、突き出されたなのはの左手へ向かう。 そう、時速数百キロ以上の速度で。 「そして――」 それは周囲の森林を、まるで暴風雨にあった様な形に曲げながら迫った。 なのに微塵の衝突音も無く、掌に収まる。 砕くくらいの意気込みで強く強く握りしめる。 「この手に!!」 眩いばかりの輝きが迸り、一面を不格好になった森林を埋め尽くす。 支配された意識の中に在る意識が、表層へと現れる。 光が収まる前に一歩を踏み出し、右拳を大蜘蛛目掛けて繰り出す。 “砕けない筈は無いさ” 飛び散る、肉片と血。 奔る悲鳴。 “崩せない理由は無いだろう” 左掌が大蜘蛛の脚を掴み、引き千切る。 倒れる巨躯。 “潰せない道理は有り得ない” 振り上げられる右脚。爪先から踵までを平行にして、一気に振り下ろす。 飛び散る、大蜘蛛の頭。 “この身、この心、この魔導は” それでも止まらぬ暴虐。両拳を思い切り握り、何度も何度も、それこそ数十数百単位で打ち込む。 “壊すという事柄に特化したものへと変貌を遂げたのだから” 「ああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」 「キィィィィィィィィィィィィッィッ!!」 「うわぁぁぁぁぁ!!」 彼女が吼える。殺す事の、尊いものを奪う背徳感に酔っているから。 大蜘蛛が鳴く。死に直面した弱者はそうする事でしか自らの意思を表現出来ないから。 少年は叫ぶ。ただ目の前が怖くて、恐怖以外の何物もその頭には認識されないから。 砕く、砕く、砕く…… 崩す、崩す、崩す…… 潰す、潰す、潰す…… ジュエルシード・シリアルYを持つ者。 背徳感の中に居る、彼女。 その者が自分の周囲の状況に気付いたのは咆哮の、約3分後。 「これは……」 辺りは一面血の海だった。 大蜘蛛の肉片がそこいらじゅうに飛び散り、美しかった景色を汚している。 自分の脚は血の海に浸り、赤く濡れている。 お気に入りの靴が台無しだ。 そんな事を考える自分が不思議で、嫌で、解らない。 これは普段であれば通常と言える感情なのに。 虫を殺し、その血で身につけている物が汚れれば皆似かよった反応をするだろう。 だが事、ここに至ってそれは異常な反応だろう。 だってあの大蜘蛛は見る影も無く砕け潰れているのだ。それははっきりと言える。 異常だと。 ピチャン、そう音がしてなのはが振り返ると自分が庇った少年が居た。 思う。大丈夫なの?怪我は無いの? そう問いかけようとしても、それより早く少年が悲鳴を挙げた。 「うわぁぁぁぁぁぁ!あ、あ、わあぁぁぁぁぁぁぁ!!!」 狂気とも言える悲鳴を挙げて力の限り手を動かし、脚を動かし、血溜まりをピチャピチャ鳴らせて後ろに下がる少年。 眼の前に意味不明の物体が現れ、その中から大蜘蛛が現れ、それを少女が撲殺した。 いや、虐殺した。 これは明らかに虐殺だ。両者のパワーバランスは最初、間違い無く大蜘蛛に大きくと表現するのも陳腐な程に傾いていた。 それが終わって見ればどうだ?パワーバランスは少女に、傾くなどというレベルで無く、倒れ伏すくらいに少女の側に偏っている。 そんな異常を超えた理不尽を見せ付けられて平静でいられる人類などどれ程居る? 少なくとも、世界屈指の格闘家も、世界一の軍隊の中のエリートと言われる人間も、平静でなど居られる訳が無い。 少年が狂気に見舞われるのも当然。 それを悟って、なのはは無言で立ち尽くす。 例えそれを悟らずともなのはは無言で立ち尽くしていただろう。 この光景を一番受け入れたくないと思っているのは、他ならぬ彼女自身なのだから。 「う……そ、だよね」 冷たい一陣の風が吹いた。 その中で生暖かさを感じて両掌を見れば、そこは肉片と血に塗れていて、道理で暖かい筈だ。 そう思ったところで、なのはの意識は途切れた。 大蜘蛛が居る、見渡す限りの大地を埋め尽くし、鳴く。 そもそも蜘蛛は鳴くものなのかという思考は存在しない。 頭の中に在るのはただこの光景への恐怖と、どうしようもない高揚感。 “楽しい” 群れを成して迫り来る大蜘蛛、大蜘蛛、また大蜘蛛。 “嬉しい” 糸を吐き、爪を掻き鳴らし、眼光鋭く、走り寄る大蜘蛛。 “素晴らしい” 対するは一人の少女。 手にするは宝石。 “なんて、なんて” 唱えるは呪いの文。 「変、身」 “心躍る!!” 血の、散華。 「わぁぁぁぁぁ!!!」 ドスンッ! 布団を跳ね上げてベッドから転がり落ちて、なのはは眼を覚ます。 自分の家の自分の部屋の自分のベッドのすぐ傍の床で。 「え」 呟きは一瞬で中空を彷徨い消え、頭が高速で回転する。 現状の理解を最優先に行おうとする本能に、頭脳が応えた。 「夢、かぁ」 なのははそう言うと首を垂れさせ、どっと安心した。 そして心底疲弊した。 何せあれは特大の恐怖だ、大人とか子供とか、そんなの関係無しに人間なら恐怖するもの。 大蜘蛛も怖いが何より怖いのは…… 「良かった。私の体、なにも変わっていない」 自分が自分で無くなる事だ。 「なのはー!どうしたの?」 リビングから母親の声が聞こえてくる。 ベッドから落ちて大きな音をたてたのだ、心配して声をかけたのだろう。 「大丈夫!なんでもないよー!」 それに大きな声で返答してなのはは頭を切り替える。 取り敢えず、着替えて顔洗って朝ご飯食べて学校に行こう。 そうしないと、おかしくなりそうだ。 何時もより少し余計に時間を消費して、なのはは自分の教室へと向かう。 校門をくぐり、昇降口を抜け、平日の基本行動ルートをそのままなぞる。 その間、誰とも話さなかった。 道中で友達に『おはよう』と挨拶されても返さなかった。 隣に並んで昨日見たテレビの話題を振って来る友達の言葉も右から左に通りすぎた。 怖かった。 あの少年の悲鳴が刻んだ傷が、なのはを臆病にさせる。 避けられる。逃げられる。怖がられる。 自分は普通の人間だと言い聞かせても、記憶に鮮烈に残る、そうしようとすればすぐにでも明確に思い出せるあの光景が原因だ。 あの時、自分の体はどうなっていた? 外見では無く内面の話。 そう、明らかに異常だった。 それを見られればみんな自分から離れて行くような気がして、事実そうなるであろう確信めいたものも在って。 顔を洗う時に何度もチェックした、着替える時に何度も見返した。 頭のてっぺんから爪先まで隅々を見渡して確認した。 何時もの自分の体だ。少なくとも肉片も血も無い、大丈夫だ。 でももし、あの時の異常な力が不意に発揮されれば……怖い。 どれだけ信じ込んでも、信じ込もうとしても、疑いは晴れない。 自分の体なのに、自分の体だからこそ、疑いは尽きない。 こんな事ばかり考えていたからだろうか? 校庭の隅の隅、予鈴が鳴るまでの時間に教室の窓から何気なく見た景色に。 「キィィィィィィィィィィィィィィィッィ!!」 大蝙蝠を見たのは。 第一話 完 次 『変身欲求』 |