第九話「黒金の少女再び」 窓を通り越して夕焼けに染められた空の中に浮かぶ夕月を見て、誰かが言った。 「あの夕焼けに飲み込まれる、そんな綺麗な終わり方なら悪くない。だが、現実問題としてそんな美しさとは縁遠いのが生物だ」 そう、この声は誰かが発したものだ。そうでなければローグウェル・バニングスという一個人が経験し学習して来た全ての現実、その根幹を破壊しかねない。 音とは、空気の振動だ。取り分け人の声とは、間違っても自然的要素で発生はしない。 呻き声などに間違えられるならまだしも、この陶酔しそうになる声を発する自然的産物があればそれは間違い無く未知の食肉植物の一種だろう。 だがそんなものは存在しない。 なのに目の前に本が浮かび、その辺りから声が聞こえるなど認めてはいけない。 「なんだ、これは……」 「む、聞こえたのか?」 呟きに応えるかの様な声、でもそれは誰に向けられたものでもない。 「成る程、一般人よりは素質があるか。だが、あの少女の万分の一も無い」 なんだか悪口を言われた様な気がするが、内容が理解不能なだけにローグは気に留める事は無かった。 開け放たれた窓の脇のカーテンが不自然に揺れる。 今彼にとって問題なのは、声を発していた何かが突然消えたらしいという事。 そういえばこの本を見付けた時に窓は開いていただろうか? そんな事を思っても理解出来ない目の前に対して混乱している頭は、いきなり驚かせておいて消えるなんてそれはないという考えを弾き出したが、そもそも声自体を否定してやりたいのだからどうにも困る。 声の元らしき何かが消えたのにプカプカ浮かんでいる本を、放っておけばいいのに何故だかそうする気になれず、思わずそれを手に取りパラパラとめくった。 分厚いハードカバーの、まるで百科事典を思わせる重厚感。長時間どころか短時間でも持ち上げれば腕を酷使するそれを本棚に戻しもせずにゆっくりとめくる。 流動的に続くそれはまるで何かに取りつかれた様だと、この姿を見た者がいれば思った事だろう。 「ローグ、何処に居るの?」 不意にアリサの声が聞こえ、ページをめくる手が止まった。図書館という場所柄控え目な声を聞き取れたのは、閉館前の椅子を引き摺る音さえしない静けさの所為だろうか。 ともかく、声を切っ掛けに我に返りアリサ達の元へと向かうローグ。 「ここだ、もう用はいいのか?」 「うん。ちゃんと見つかって、さっき借りて来た」 「私も、図書館に来る機会が余りないからね、こういう時に借りとかないと」 なのはとすずかの手にはそれぞれ2冊の本がある。どれもローグには縁遠いもので、下手すれば一生読む機会は無いだろう。 彼はメガネを掛けているが、原因は病気や本やテレビの類による眼の酷使その他では無いのだ。 つまり、視力的にも目の健康的にも問題はない。 彼がそう思ったところで、アリサが珍しいものを見た様な声を挙げた。いや、実際珍しかった。 活字ばかりの本を滅多に読まないローグが百科事典並みに分厚い本を手にしているのだから。 「あれ、それ借りるの?ローグにしては珍しいわね。ってゆーかそれ読めるの?」 「え?」 ローグは今気付いたという表情で本を見やり、すぐさま首を横に振った。 「ちょっと眺めてたら呼ばれたからな、戻すの忘れてただけだ」 「それってどんな本なの?」 すずかが未知の本に興味を示し、手に取る。ずっしりとした重さが想像以上だったのだろう、よろけて転びそうになるすずかをローグが支えた。 「平気か?」 「あ、うん。ありがとう」 顔を寄せ、赤くなるすずか。転びそうになったところを支えたのだから顔が近くなるのは当たり前なのだが、どうもアリサはお気に召さなかったようで、本を手近にあった棚にぶつける様に入れる。、 「もう閉館なんだから、こんな訳の分かんない言葉が書いてる本は置いてさっさと帰るわよ!」 音を立てて足早に出口に向かって行った。それを追うなのはとローグとすずか。 こんな幸せな時間は、もう二度と無い。 この場で魔法に関わった者には、そうなるであろう事が起こる。 図書館を出て行った四人を見送る様に、分厚いハードカバーの本、月天物語が震えた。 夜の闇、路地裏の闇、その中に佇む黒金の少女と赤茶色の毛を生やした狼であろう動物。 眼を閉じて何かを探す様に静かに静かに佇んでいる。 やがて少女が眼を開けて、狼が口を開いた。 「あったかい?」 「ううん、この近くには無いみたい」 狼が人語を話す事をあっさりと受け入れている、というよりは既にその事を知っていたという風に見える。 「あれ?ねぇローグ、私のジュース知らない?オレンジのやつなんだけど」 「あれってお前のだったのか?悪い、さっき風呂上りに飲んじゃった」 「やっぱりジュエルシードを使い過ぎて体に負担が掛ってるんだよ。もうジュエルシードを使って変身するのはやめてさ、バルディッシュを使おうよ」 「ううん、こっちならバルディッシュよりずっと強い力が出せるから。広い範囲をいっきに探して早く見つけなきゃ。でないとあの子に取られるかも知れない」 「確かに先に見つけないとだけどさ、いざという時に体が動かなかったら意味無いじゃん。それに、私はフェイトが元気でいてくれるのが一番だと思ってる。無理に探す事は無いよ」 「ありがとう、アルフ。でも、母さんの為だから」 「えー、私楽しみにしてたのにー。ローグのばかぁ、くいしんぼぅ、いーますーぐ買って来ぃーてよぉーぅ」 「変な喋り方だなおい。行って来るけど、コンビニにあるよな?ついでに何かいるものあるか?」 「んーと、犬スナック」 「あいよ、んじゃ行って来る」 フェイトの強い決意を秘めた眼、その中には障害と成るならばどんなものでも打ち倒すという意志が込められていた。 そう、例えそれが無関係の人間でも。 カーン。 「うわ、ビニール袋破れた。犬スナックの袋の角か、ちくしょうなんて鋭利な袋なんだ」 夜に少女が何かを探して徘徊している。もしそんな噂にでもなれば行動し辛くなる。母の為にジュエルシードを見つける、その障害は取り除かなくてはいけない。 「フェイト、だからって……」 コロコロコロ、コツン。 「ん?何だいこれは」 「ジュースの缶だね」 「何でこんなものが転がって……」 そう、目撃者でも出ればそれは一大事。間違い無く、排除すべき対象。 「犬が……喋ってる」 もし見られたら―― 「なんだそれ、なんのネタだ?」 「フェイト!不味い!」 「分かってる」 ――殺すしか無い。 「ジュエルシード・シリアルZ!」 眩き凶光、それはローグにとっての不吉そのもの。 顕現し、具現化し、身に纏い、行使する。 雷放つは己が使命の為。 自らが発した変身時の光、それが収まるなり掌をローグに向ける。 「サンダー――」 「くそ!なんか分からないけど逃げるが勝ちだ!」 この異常事態で動けるその精神、子供ながらに立派が過ぎる。大人でも戸惑い動けなくなるだろう状況下において逃げるという選択を掴んだのは、記憶を消されたとはいえ一度魔法を知ったからかも知れない。 何にせよ、これではユーノが魔法に関する記憶を消したのは無駄になってしまう。 ここで殺されればそれで終わり、何らかの手段で助かったとしても知る事になる。 高町なのはが魔法を使い戦う者、魔導師だという事を。 「てぇぇぇぇぇぇぇっ!!!」 「アルフ!」 「任せな!」 不意打ちであった筈のなのはの上空からの蹴り、それを上回るフェイトの思考速度とアルフの超反応。 展開される障壁に蹴りは阻まれ、一瞬進行が止まる。 時を待たずしてひび割れ、砕け散る障壁。だがもう遅い、フェイトが唱えるには一秒あれば十分だ。 実質魔力の量、扱い、武装、その全てをフェイトが上回っている。特にフェイトの武装たるジュエルシードはレイジングハートとは比べ物にならない程強い力を有する。 それは操られていた事のあるなのはにも分かっていて、だから不意打ちが失敗に終わった時点で気付いてしまった。 止められない。 「サンダースコール!」 閃光。 雷は矢と成り豪雨を成し突き進む、それは人が反応出来る限界を超えていた。 光ったと思った時にはもう遅い、心臓を貫かれてローグは物言わぬ亡骸になっている。 だが彼は運が良いようだ。丁度曲がり角に差し掛かっていた、フェイトから見えていたのは足だけだった、その為貫かれたのは左足だけに留まり、怪我は負ったものの命を落とす事は無かった。 「無関係な人を巻き込むなんて、そんなの駄目だよ!」 アルフをユーノに任せ、フェイトの元へなのはが辿り着く。睨み合う間も無くフェイトが発する。 「アルフ、任せたよ」 「分かった!けどフェイト、殺したら駄目だよ」 「うん、大丈夫」 パートナーを信頼し、自分は自分の成すべき事を。 「させない!シーリング……」 「ふっ!」 フェイトの掌が声と共にカッと強く光ってなのはの視界を包む、それが晴れればもうフェイトの姿は無い。 急がないと、そう思ってもアルフが立ち塞がる。 「どいて!じゃないと間に合わないの!」 「間に合って貰っちゃ困るんでね!」 視界の隅に倒れたフェレット姿のユーノが見えた、体に無数の切り傷が見える、恐らくは結界を張る前に速攻をかけられたのだろう。 「仕方ないよね、無理にでも通して貰うよ!」 「やってみな!」 一滴、役に立てない事を悔やむユーノの涙が流れる路地裏で戦いが始まった。 何だ?何だあれは? あれは、異常だ意味不明だ理解不能だ荒唐無稽だ理不尽だ! どうなっている?頭はどうした、正常なのか?なら眼と耳は?神経は? もし全部が正常なら、あれをどう説明する? 魔法だと?そんなファンタジックなもんじゃない!いや、ファンタジーという意味ではあっている。 とんだ非現実だ。ゲーム漫画アニメラノベ、ありとあらゆる娯楽ジャンルに於いて大抵の場合魔法はどこか不思議な魅力をもっている。 それは娯楽だから、ただ純然たる恐怖であっては楽しめない。 けどあれはただの純然たる恐怖だった。 命を奪われかねない生物の原始的な恐怖。残念ながらそれに耐えれる鋼の心なんて持ち合わせていない。 ただの一般人にそんなものある筈がない。 常識の範疇を超えた事象を引き起こされて自分の身に危険が迫る。そんなのありか? とにかく逃げないといけない。 遠くへなんて無理だ、心臓は委縮して活動を弱めやがるし怪我した足は痛すぎる。疲労は心身ともにピーク、今すぐ倒れさせろ! 「はぁはぁはぁ、くそ!」 でも、怖くて止まれないんだよ! 「はぁ、っくはぁ!」 そんな意思に反して体が壁にもたれかかる。 どんなに強い意志があったって肉体の限界なんて超えられない。意志が在ろうとも夢が在ろうとも道具も無しで空を飛べる人間など居ない。 居たらそれこそ魔法の恩恵だ。 「もういいよね、満足したでしょ」 声がした。謳う為にある様な、なんて綺麗な弦楽器。そしてなんて不幸だろう、この声こそが恐怖の対象だなんて。 「待て、誰にも言わない、絶対だ!だから頼む、俺にはまだやる事が……」 懇願の声も虚しく、それを遮って突き刺さる掌。 心臓を貫き命を奪う無情の一手。 「あ……ぅっ」 「残念だけどそれは無理だよ、私はあなたを殺すって決めたんだから」 最高に歪んだ笑みを浮かべて奏でられる弦楽器は、顔を近づけて言った。 答える事の出来ない死へ向かう者は、地に倒れ伏して浅く早く息を繰り返す。 まるで必死に自分の命を繋ぎ止めようとしているみたいに。 「見つけた!」 他の事は途切れ途切れなのに、その声だけはやけにはっきりと聞こえた。 なのに視界はぼやけて、脳は思考を停止して、誰の声なのか分からない。けどきっと、なんとなくだけどなのはだって思った。 理屈じゃなくて感覚でしかないのに、やけにハッキリとした確信。 「残念だったね、もう助からないよ」 「そんな……」 間に合わなかった?それですませられる事態では無い。そんな思考をしている間も惜しい。 「ううん、そんなことない!今すぐ病院に連れて行く!絶対に間に合わせる!」 「ならどうそ、無理だと思うけど」 そう言い、闇の中に消えるフェイト。 それを気に留める事も無く、一直線にローグの元へ向かうなのは。 「嘘……ローくんなの?嘘でしょ!」 気付いていなかった。先程の不意打ちの際は、止める事に集中していて逃げて行く人間の顔など見ていなかった。見る余裕などなかった。 彼がこんな事になっているなんて、知らなかった。 「絶対に、絶対に助けるからね!」 ローグを抱え、立ちあがるなのは。その時気付いてしまった。 彼の胸に空いた大きな空洞。丁度心臓の辺り。 閉じた眼、止まった呼吸、力の全く入っていない体、色の無い顔、流れ出る血液の量。何よりも、漂う死臭。 その全てがローグウェル・バニングスの死を意味していた。 だから、なのははそっと彼を横たえ、こう言った。 「ごめんね、間に合わなくて。絶対に、絶対に!あの子は私が止めるから」 ローグの顔を見つめ、零れる涙を拭かず、続ける。 「今日、さっきまで一緒だったのにね。まだまだ一緒にやりたい事あったのに……ごめん!」 思い切り勢いを付けて頭を下げる。その勢いで涙が幾筋もの軌跡を描き、彼の顔を濡らす。 何も言わず、顔を上げ、そのまま振り向きフェイトの向かった方向へと走る。 ユーノはアルフにやられて動けない、アルフはなのはが気絶させた、戦えるのはなのはとフェイトの二人だけだ。 さぁ、謝らせよう。今度は、どうあっても最後まで付き合って貰う。 第九話 完 次 『純粋なる願いより』 |