…………なんでこうなってしまったんだろう………… 顔を覆った両手の隙間から滂沱と涙を流しながら、高町なのはは、己の浅慮を悔いていた。 涙で霞んだ視界では目を瞑るまでもなく、目蓋の裏にはあまりにも辛い情景だけが残っている。 ――――いつしか、何にも代え難いものとなっていた愛娘の、悲痛なまでの泣き顔が―――― ヴィヴィオが泣いた所は、言うまでもなく、何度も見たことがある。 転んで脚を擦り剥いたとき。恐ろしい悪夢にうなされて、眼を覚まして自分に縋り付いて来たとき。そして、『聖王のゆりかご』の中での、あの哀しい泣き顔。 もう、あんな顔をさせないために、ヴィヴィオを正式に自分の養子にしたと言うのに……自分は結局、ヴィヴィオを泣かしてしまった。 「……ぅ……うぅっ…………」 自己嫌悪で押し潰されそうな胸から込み上げて、再び嗚咽が漏れる。 なにが不屈のエースだ。こんなにも脆く、小さい自分が、レイジング・ハートの名を冠するなどと、笑えないにも程がある。 ヴィヴィオのいなくなったリビングの床に座り込み、なのははただ、涙することしか出来なかった。 【魔法少女リリカルなのはSS『想い、通じて』<前編>】 深緑の木々に覆われる小道を、木漏れ日を浴びながら駆ける少女が一人。最近になってサイド・ポニーに纏めるようになった金髪を、尾花栗毛の尾のように振りながら、高町ヴィヴィオは見る者も幸せになりそうな笑顔を浮かべていた。 今年で9歳になったヴィヴィオには、仲の良い友人がたくさんいる。ミッドチルダ郊外のSt.ヒルデ魔法学院において、ヴィヴィオは半ば、アイドルのような存在だったのである。その理由は、多分に母親のために因るところが多かった。 ミッドチルダで魔法を修める者にとって、『高町なのは』と言う人物は憧れと評して間違いない。教導官として一線で活躍する彼女が、娘の修学姿を一目見ようと、無限書庫司書長と親友の使い魔を唆して学校に潜入した事は、学校始まって以来の珍事として話題に残った。そして、その事件はなのはの評判を落とすのではなく、むしろ親しみやすい英雄として、より人気を高めることになったのだ。 かねてから、『現世の聖王』『高町なのはの娘』として認識され、親しみの中にも一種の畏怖と憧憬をもって接されていたヴィヴィオが、よりいっそう友人の輪の中に溶け込めるようになったのも、この頃からだった。 放課後になれば、ヴィヴィオを遊びに誘おうと声を掛けてくる者は、それこそいくらでもいる。なんでも器用にこなし、花咲くような笑顔で、誰にでも分け隔て無く接するヴィヴィオは、いつも皆の中心のような人物だった。しかしそんなヴィヴィオが、友人の誘いを申し訳なさそうに断り、少しでも早く家に帰ろうとする日が、月に2度だけある。なのはが、仕事を午前で切り上げ、昼には帰ってきている日だ。 その日になると、午後の授業が始まった頃から、ヴィヴィオは落ち着き無く時間を気にし始める。家に帰ったら、どうやってなのはに甘えようか、わくわくしながら物思いに耽って、いつしか背後に立っていた教師に、苦笑しながら軽いゲンコツを落とされることも、よくある事だった。もっとも、普段から真面目で快活な授業態度のヴィヴィオであるからして、教師の方も、本気で叱りつけるような事はしない。ほどほどに、と言わんばかりの拳に、ヴィヴィオも小さく舌を出して、にっこり笑って謝るのである。 腕を広げた木々が空の光を分け与え始めると、背の低い草花は緑の中に彩りを加えるように、次第にその姿を増やしていった。馴染んだ家路の終着点に、大好きな母の待つ我が家を見つけて、ヴィヴィオの足は、より一層軽快に弾んだ。普段なら庭の手入れをしているはずの、アイナ・トライトンの姿も今日は見えない。なのはの休暇日は、親子水入らずで――それがアイナの主張だった。 そして、今日はもう一つ嬉しいことが重なる。明日のSt.ヒルデ魔法学院は休業日、それに合わせて、なのはは珍しく二日間の休暇を取ったのだ。たまには海鳴に泊まりがけでお出かけでもしようか、そう言う話になっていたのである。 玄関の3段の階段を一跳びで踏み越えて、それでもドアを丁寧に開けることは忘れない。カチャリと小さな音を立てて、その後は元気一杯だ。 「ママーっ! ただいまーっ!」 「ヴィヴィオ、おかえりーっ」 部屋の奥から聞こえて来る声に、温かな気持ちを胸に抱きながら、ヴィヴィオははやる気持ちを抑えて、まず寝室へと向かった。慌ただしく制服を脱ぎ散らかして、Tシャツとキュロット・スカートを着込み、鏡を見ながら軽く髪を整えると、そこでようやく申し訳程度に制服を畳む。同じく放り投げていたポーチから、一つのデータスフィアを取り出してポケットに入れると、寝室を飛び出して洗面所に。冷たい水で手を洗い、うがいをして、やっと帰宅後のお約束が終了した。 小走りにリビングにやってくると、そこには待ち望んだ母の姿があった。ソファーに腰掛け、読んでいた小説を机に置いて、優しい微笑みをこぼしながら、なのはは両腕を広げて、ヴィヴィオを招いていた。 「ママーっ!」 ばふっ! 駆け寄って、その胸の中に飛び込むヴィヴィオを、なのははしっかりと抱き止める。「おかえり、ヴィヴィオ」もう一度優しく呟いて、ヴィヴィオの金糸のような髪を優しく梳き撫でた。 「ヴィヴィオ、今日は学校どうだった? ずいぶん嬉しそうだけど、なにか良いことでもあったの?」 もちろん、一番嬉しいのは、こうして早い時間から母と触れ合えていることなのだが、それだけではない。なのはの言う通り、今日は学校でも、極めて嬉しいことが有ったのだ。ヴィヴィオは、言いたくて堪らないと言わんばかりの顔で、あえてもったいぶり始めるが、 「うん、有ったよ。すっごい良いこと! ……聞きたい?」 「もちろんだよ。ママに教えて、ヴィヴィオ」 「え〜……どうしようかなー?」 「そんなこと言うなら、ママも聞ーかない!」 「ええええっ!? 聞いてよ〜〜っ!!」 一枚上手な母には勝てず、むしろ困ったような顔で縋りついて頼む側の立場になってしまった。そのヴィヴィオの様子に、なのはが小さく笑いをこぼして、ヴィヴィオもまたつられて笑う。 「あのね、今日ね、この前のテストの結果が返って来たんだよ。それでね、ヴィヴィオ、みんなの中で一番良い点数が取れたんだ!」 嬉しくてたまらない、と言うヴィヴィオの言葉に、なのはも喜び笑顔を深める。 「見せてもらっても良いかな?」 「うんっ!」 取り出すのは、先程ポケットに入れておいたデータスフィア。受け取ったなのはがその表面に触れると、いくつかのウインドウが開き、なのははその内の一つに、テスト結果と書かれたファイルを見つけた。パネルに手を触れて呼び出すと、正解の印ばかりが記された解答ページが開く。その様に、「わあ!」と歓喜して、なのはは自分の事のように嬉しそうに、出題ページも平行で開いた。照らし合わせていくと、本来ならこの歳で出来るとは思えない問題まで正解している事に気付き、なのはは満足そうに答え合わせを進めていく。 ヴィヴィオは、そんななのはの姿を見ながら、本当に嬉しそうにしていた。1問2点の50題で100点満点、平均点が54点と言う、いつにも増して難しかったこのテストで、ヴィヴィオの点数は94点。84点の2位とは10点も差がある、素晴らしい結果だ。普段から、なのはの娘として相応しい子になりたいと想っているヴィヴィオにとって、今回のテストは、まさに会心の出来だった。 ――――しかし、穏やかな空気は、唐突にその優しさを手放す。 「…………あれ?」 起点となったのは、なのはが何の気無しに零した、たったそれだけの言葉。 「――――ママ?」 きょとんと見上げるヴィヴィオに、なのはは気付かず、しげしげとデータを見直す。 『高機動スフィアと、収束スフィアにおける構築時の構成を組み上げる上で、そこに生まれる共通点と相違点について、それぞれ一つずつ述べよ』 なのはの目に止まっていた問題は、こんなものだった。正否は――×。口元を押さえ、ヴィヴィオの解答を吟味していたなのはは、ほんの僅かにだが眉を顰める。 「うーん……この間違いは、ちょっといただけないかな。根本から間違ってる解答だからねー」 「……ぇ…………? で……でも、他のがこんなに出来てるんだよ? 一つくらい、間違ってたって……」 その言葉に、なのはは困ったように苦笑する。 「ヴィヴィオ、確かに全体としては良く出来てるんだけど、そういう考え方をしちゃいけないよ? 間違ってるところは、どうして間違えたのかをしっかり把握して、きちんと自分の中で消化する。そうしないと、テストをする意味も無いんだからね」 ――――ドクン。 なのはの言葉は、決して強いものでも、厳しいものでもなかった。優しく……だけれど、困ったような…………。 自分の胸が、大きく疼くように鼓動するのを感じ―――― 気付いたら、ヴィヴィオは抱き締められていたなのはの胸を突き飛ばすようにして、数歩踏鞴を踏むように後ずさった。 「――――え?」 今度は、何が起きたのか分からないと言う表情になってしまったのは、なのはの方だった。一瞬前まで在った我が子の温もりは、するりと腕の中から抜け落ち……なのはの左手は我知らずヴィヴィオの方に伸びて―――― ぱんっ! 「っ!?」 信じられないと言うように、打ち払われた左手と、打ち払ったヴィヴィオを見比べるなのは。俯いたヴィヴィオの眼は前髪に隠れて見えず、不穏な空気だけがヴィヴィオから送られるものだった。そして、その唇が小刻みに震えている事に気付いたなのはは、何とか金縛りから抜け出し、ゆっくりと、一文字ずつ息に乗せる。 「…………ヴィ…ヴィ…オ…?」 紡がれた言葉に、弾かれたように顔を上げたヴィヴィオは、笑おうとして、為す術もなく失敗したようだった。口元は震えが収まらず、笑みを作れたのは端だけに終わり、瞳には、いつ零れてもおかしくない大粒の涙が溢れている。 「……これ、でも、ダメ、なの?」 しゃくり上げてくる嗚咽に必死に耐えながら、ヴィヴィオは必死に言葉を絞り出していく。その悲痛な声を聞いてなのはは、初めて自分が取り返しのつかない失敗をしてしまった事に気がついた。 「ヴィヴィオ、頑張った、よ? いっぱい、いっぱい、勉強、したよ? 一番、取れ、た、よ? でも、ママは、不満、なの?」 もう、笑おうとする事すら出来ていなかった。いつしか涙は流れ落ちて、手の腹で何度も拭いながら、ついに、しゃくり上げ始める。なのはは、全身の血の気が引くのを感じながら、声を失いかけている喉を必死に動かした。 「……違っ……ヴィヴィオ、わたし、そんなつもりじゃぁっ…………!」 「もうやだぁっ!!」 「――――――――っ!?」 か細い否定の言葉は、悲鳴のように上がったヴィヴィオの絶叫によって、完全にかき消された。 「いつもいつもそうっ! ママは、ヴィヴィオの気持ちなんて全然分かってくれてないっ! ママのこと、こんなに好きなのにっ……ママみたいになりたいって想ってるのにっ……出来ないんだもん! どれだけ頑張っても! ママみたいになれないんだもんっ! わたしはママみたいな天才じゃないからっ……! どれだけ努力したってっ……絶対追いつけないんだっ……!」 「ヴィヴィオっ!? ヴィヴィオもうやめてっ!」 堪らなくなって、ようやく叫び声が、涙と共にあふれ出すなのは。それに対してのヴィヴィオの答えは、まるであの、『聖王のゆりかご』の中で相対した時の様な、鋭い瞳と涙だった。 「…………ごめんね……いつも、笑ってても、心の中で、思ってたんでしょうっ……? 『どうしてこの子は、こんなに出来が良くないんだろう』とか、『わたしの子なのに』とかっ…………! ……どうせヴィヴィオは、なのはママの、本当の子供じゃないもん――――」 パシィッ! 「――――っ!!」 「……ぁ…………」 乾いた音に、ヴィヴィオは息を詰まらせて頬を押さえ、なのはは自分の手を信じられないものを見るように震わせる。 ――――それが、最後だった。 ヴィヴィオの眼に溢れたのは、止めどなく流れる涙と、深い悲しみ。なのはには、もはや手を差し伸べる事すら出来なかった。 「……ぅ……ママなんて…………ママなんて…………だいっきらいっ!!」 「――――ぅ……ぁ……」 涙を振り撒いて、部屋を飛び出してゆくヴィヴィオに、なのはは声を掛けることも叶わず、追いかけようとした脚はもつれ、その場に倒れ込むように両膝を着く。そのままへたり込んだなのはは、ふと、赤くなっていた自分の左手に気付いた。手に残る痺れを感じると、もはや絶望と言えるほどに崩れた表情を、わななく両手で鈍重に覆い―――― 「――――ぁ……ぁぁぁぁああああああぁぁぁぁぁっっっっ!!!」 なのは以外、誰もいなくなった家の中に、誰一人として聞いたことのない、高町なのはの悲痛な慟哭が響き渡った。 「――――では、フェイト・T・ハラオウン執務官。今回の航行で得た管理外データの整理、よろしく頼むよ」 自身も様々な報告書にペンを走らせ、事務処理に追われながらの艦長の言葉に、フェイトは恭しく敬礼すると、踵を返して艦長室を後にした。パシュン、と言う軽い音を立ててドアが閉まると、数年来の馴染みの補佐官が出迎えた。 「フェイトさん、お疲れ様です! 一ヶ月間の長期航行、本当にお疲れ様でした」 いつもの人好きのする笑顔で、シャーリーがフェイトに敬礼を送ると、フェイトも頬を緩める。 「シャーリーも、ご苦労様。……まあ、まだデータの整理が残ってはいるけれど、まずは少し休憩しよう。食堂でスタッフが軽食を用意してくれているんだ。少し遅めだけど昼食にして……それから、二人で頑張って今日中に終わらせちゃおうね」 「やたーっ! この艦の食事、地味に美味しいから好きなんですよ〜♪」 些細な事にも小躍りして喜ぶシャーリーを見て、それを告げたフェイトの口元にもより深い笑みがこぼれる。すでに昼食の事にしか興味が無いのか、幸せそうにほわーっと笑顔を垂れ流しにしているシャーリーを伴って歩き出すと、聞き慣れたアナウンス音が響き、艦内全域に業務連絡が響いた。 ――業務連絡。フェイト・T・ハラオウン執務官、フェイト・T・ハラオウン執務官、御在艦でしたら、エントランスの休憩室まで御連絡下さい―― 艦内放送を何の気なしに聞き流していた二人だったが、その中に含まれていた名前を耳にして、食堂に向かおうとしていた脚を止める。 「……? なんだろ」 「フェイトさん、とりあえず行ってみましょう?」 まるで心当たりの無いこの放送に、シャーリーも首を傾げる。フェイトは困ったような顔で、 「……ごめん、お食事はちょっと遅くなっちゃうね。良かったら、二人は先に食堂に行ってても――――」 「まさか、そんな事出来ませんよ! 執務官を差し置いて、補佐が優雅にランチ・タイムだなんて」 それじゃあ、とフェイトは歩き出した。そして、エントランスに辿り着くと、休憩室の前から子供のしゃくり上げる声が聞こえてきた。――なんでこんな所に? 疑問を憶えつつも、生来の母性本能が首をもたげて、フェイトは足早に部屋の中へと向かう。 ドアを開けて中に入ると、そこには見まごうことなく、泣きじゃくる一人の少女がクルーにあやされていた。金髪をサイドで括ったその姿を見て、フェイトは思いも掛けない事態に眼を見開く。 「――――え? ヴィヴィオ?」 思わず突いて出た言葉に、ヴィヴィオは敏感に反応した。涙と鼻水でもう真っ赤になってしまっていた顔をさらに歪ませて、クルーが制止する暇もなく駆け出し、フェイトに飛び込んでくる。 「……ぅわぁぁぁぁぁぁんっっっ!! フェイトママ、フェイトママ! フェイトままーっ!!」 「――ぉ、と、わ!?」 あまりの勢いに仰天しつつも、なんとかフェイトはヴィヴィオを抱き止める事に成功した。そのままわんわんと泣きじゃくるヴィヴィオの頭を、半ば無意識に撫でてやりながら、フェイトは視線をクルーに送る。しかし、そのクルーも要領を得ないのか、困ったように苦笑して、首を横に振った。一応とばかりに見遣るが、シャーリーもぶんぶんと首を振り、やはり戸惑ったような表情をしている。唐突な状況に首を傾げつつも、泣き止まないヴィヴィオの頭を撫で続けてあげながら、久し振りに聞いた『フェイトママ』の意味について、考えていた。 しばらくして、ようやく少し落ち着いたヴィヴィオは、シャーリーが持ってきてくれたココアをちょびちょびと口にしながら、昼に有った出来事について話し出した。涙混じりで、所々分かりにくくもあったが、一生懸命まとめようとしたヴィヴィオの甲斐有って、ほぼ事実をそのままに、フェイト達は話を理解する事ができた。 「…………なのはさん、その部分に関してだけは不器用ですよね。自分の凄さを理解しきれてないと言うか…………」 一緒に話を聞いていたシャーリーは、六課時代にティアナが『撃墜』された記憶を掘り起こしつつ、そう呟いていた。なのはは、もちろん生徒の不出来を嘆くような事は一切しないが、自分が周囲に与える影響について、どうにも疎い所がある。スバルのように憧憬を抱く者もいれば、当時のティアナや今回のヴィヴィオのように、劣等感に押し潰されてしまう者もいるのだ。……もっとも、それを言い訳にするのは逃げでしかないのだが、ヴィヴィオはまだ9歳だ。もう少し、気を遣ってあげれば良かったのにと思う部分もある。 とは言え―――― 「――――まあ、仕方ないですかね。なのはさんは特殊ですし…………魔法が身に着いてから出会ったのが、フェイトさんにはやてさん、守護騎士の皆さん……AA以上の規格外ばかりだったんですから。むしろ、それでも力無い人を蔑んだりすることが無いんですから、他の天才肌の方々に比べれば、雲泥の差なんですけどねー」 ティアナにそうしたように、出来ることなら助け舟を出してやりたい。そう思ったシャーリーだが、自分の経験値の中では中々ヴィヴィオに対する助言は浮かばず、歯がゆさに臍を噛む。 ――――しかし、ことこの場に関して言えば、シャーリーがそれを悩むまでもなく、知り合いの中では誰の追随も許さないスペシャリストがいた。 「…………ヴィヴィオ、なのはのこと、嫌いになっちゃった?」 フェイトは、覗き込むでもなく、目線を合わせて問い掛けた。対してヴィヴィオは、ふぃっ、と視線を落として、ぼそりと呟くように、 「…………きらい。なのはママ、厳しすぎるもん」 シャーリーは、思わず頭を抱えた。なのはとヴィヴィオがどんな経緯で出会い、どれだけの出来事を経て今に至ったかを知っているだけに、ヴィヴィオのその言葉は、彼女にしてみても辛いものだった。フェイトは、その言葉を受けても、見た目にあまり変化は見せず、思案顔でなにやら考え込み―――― 「シャーリー、悪いんだけれど、データの処理を任せても良いかな? わたしの権限が必要な部分に関しても、どうにか出来るようにセキュリティ・ロックは解除しておくから」 もちろん、問われて否と応えるシャーリーではない。 「それで、フェイトさんはどうするんですか?」 当然とばかりに質問で返したシャーリーに、フェイトはヴィヴィオを撫でてあげながら、微笑で応えた。 「――――わたしは、ちょっとだけ母親になってくるから。じゃあ、フェイト・T・ハラオウン執務官、これより休暇に入らせてもらいます」 「了解!」 元々、データの整理が終わり次第、二人揃って休暇に入るつもりではあったのだ。それを、少しだけ前倒しにしただけ。元気の良い返事に満足そうに頷くと、フェイトは立ち上がり、ヴィヴィオの手を握った。 「フェイトママ…………?」 「なのはママの事、嫌いになっちゃったのなら仕方ないよね? 落ち着くまで一緒にいよう、ヴィヴィオ」 その言葉に、ヴィヴィオは拍子抜けしたような顔で、キュッとフェイトの手を握り返して、 「…………なのはママの所に、連れて帰らないの?」 ヴィヴィオは聡明である。周囲の機微には聡く反応するし、なのはがそうであったように、9歳とは思えない気遣いが出来る子供だ。だから、こうしてフェイトの所に泣きついてはみたものの、結局なのはの所に送り返されて、多少は無理矢理にでも仲直りさせられるものだと思っていたのだ。 が、その予想は当のフェイトによって覆された。一番、なのはとの関係を修復しようとするだろうと思っていたフェイトが、率先してなのはから自分を離そうとするとは…………。 「ヴィヴィオは帰りたくないんだよね? なら、無理に帰らせたりはしないよ。さ、海鳴に行こう。今日は元々海鳴に帰るつもりだったから、リンディ母さんとエイミィが、美味しい物を沢山作って待っていてくれてるよ」 「…………うん!」 怪訝な所はあるものの、そう言われればヴィヴィオも断る理由は無い。笑顔に少しの戸惑いを含みつつ、ヴィヴィオはフェイトに手を引かれて歩いていった。 「…………どうするつもりだろう、フェイトさん。…………まあ、子育て技能オーバーSのフェイトさんだしね、任せておきますか! 悪いようにはならないでしょ」 自分で口にした表現を妙に気に入り、くすりと笑ってシャーリーは一人頷く。 「じゃあ、わたしは補佐として、しっかりお務め果たしますか! さてその前にご飯ご飯っと〜♪」 腹が減っては戦は出来ぬとばかりに、シャーリーはスキップでも踏まんばかりに歩き出すのだった。 予定よりも早く、しかもヴィヴィオと言うおまけまで連れて帰ってきた愛娘に驚きつつも、リンディはやはり笑顔で二人を出迎えてくれた。エイミィも、何を訊くわけでもなく、自然体でヴィヴィオに挨拶して、リンディと共に豪華な料理を並べ立てた。フェイト、ヴィヴィオ、リンディ、エイミィ、アルフ、それからクロノとエイミィの子供であるカレルとリエラ。ほとんど単身赴任なクロノこそいないが、家族6人とヴィヴィオは楽しく料理に舌鼓を打つ。最初はぎこちなかったヴィヴィオだったが、フェイトやアルフの気の利いたフォローもあって、すぐに打ち解けた。食事の終わった今は、子供部屋で4人で遊んでいる。 フェイトは、ヴィヴィオ達が遊びに夢中になっているのを確認すると、通信室に入っていた。 《――――そう、ごめんね、迷惑かけちゃって》 モニターの中、泣き腫らした真っ赤な眼で、なのはは無理矢理笑顔を作ろうとしていた。その痛々しい表情に、フェイトは思わず自身も泣きそうになってしまう。 「…………無理しないで、なのは。笑えるわけないって、分かってるから」 フェイトがそう言うと、間を置かずに笑顔は解け消えて、口元が震え出す。 《…………ヴィヴィオは、なんて?》 一瞬、言うべきか迷って、しかしフェイトは敢えて隠さずに言った。 「なのはママのこと、嫌いだって。厳しいママは、いやだって」 聞いた瞬間に、なのはの眼から幾条の涙が流れ落ち、嗚咽を上げ始めた。 《…………そう、だよね……酷いこと……しちゃったもんね……》 「…………なのは……」 フェイトは慰めの言葉はかけなかった。ただ、黙って、なのはが落ち着くのを待つ。やがて、まだ止まらぬ涙はそのままに、しかし唇を噛みしめて、なのはは顔を上げる。 《……ぅっ……フェイトちゃん、教えて。わたし、どうすれば良いかな? どうすれば、またヴィヴィオに、ママって呼んでもらえるかな……?》 震える唇で、それでもなのはの眼は、生きていた。自分の一番弱い部分をむき出しにしながら、歯を食いしばって、なのはは前を向いていた。それを見て、フェイトは少しだけ微笑む。なのはの胸に、不屈の心が微かでも戻ってきたことを知って。 「なのはは…………今は反省して。どうしてヴィヴィオを傷つけてしまったのか、何がいけなかったのか――――全部、自分でちゃんと理解して。今すぐじゃなくても良いから。むしろ、今の状態で考え始めても深みにはまっちゃうだけだから、今日はお酒でも飲むと良いよ」 その言葉に、なのはは眉を顰める。 《……そんな事言われても……こんな気分でお酒なんて……》 「大丈夫、頼もしい援軍を呼んでるから。それで、ヴィヴィオの方は、わたしに任せて。ただ、最後に話し合うのは二人の仕事。わたしは、それが出来るように頑張るから」 フェイトの言葉が、なによりも温かい光のように、なのはの胸の中に染み込んでくる。幾分軽くなった心で、なのはは数時間ぶりに、ほんの少しだけ微笑んだ。 《ありがとう、フェイトちゃん…………フェイトちゃんが、わたしの親友で良かった》 「わたしに、友達のなりかたを教えてくれたのは、なのはだよ」 なのはの謝辞に笑顔でフェイト。と、通信室の外が少しだけ騒がしくなった。 「じゃあ、切るね。ヴィヴィオ達と遊んでくる。なのは、しっかりね」 《――――うん》 弱々しくも、しっかりと頷くなのはを見届けて、フェイトは通信を切った。そして、声を掛けられる前に外に出て行くフェイトの表情は、母親のそれになっていた。 「…………ふぅ」 9年来の親友の名残を胸に、なのはは溜息を吐いた。幾分軽くなった部分はあるものの、基本的にはまだまだ心が重すぎる。 《Don't worry, master. Your best friend is a great mother, and can have absolute trust in her(お気を落とさず。彼女に任せておけば、何も心配は無いでしょう)》 「……うん、そうだね。問題はわたし。このままじゃ、会えない。頑張って、立ち直らないと」 しかし、思えど脚に力が入らない。これほどまでに弱くなるものか、そう思い、また暗い気持ちが首をもたげて―――― コン、コン。 聞こえてきたのは、控えめなノックの音。追随して念話が届く。 《なのはちゃん? 入ってええかな》 「……はやてちゃん? えと、うん……でも、どうしたの、突然……?」 なのはが戸惑いつつ念話で応えると、すぐに扉が開き、制服姿のままのはやてが入ってきた。 「おじゃまするなー、なのはちゃん」 「うん、いらっしゃい……」 はやてはまず、なのはの表情を覗き込んで、「あー、なるほど」と呟いた。 「今日は、仕事じゃなかったっけ?」 その言葉に、ニヤリと笑ってはやては応える。 「聖王教会関連やったから、オットーに押しつけてきた。リインもサポートに置いてきたから、なんとかしてくれるわ」 「はやてちゃん……」 なのはの頭の中に、無表情な中にも抗議と諦めを滲ませた少女の顔が思い浮かぶ。カリム付きの執事として頭角を現して来ている彼女だったが、もはや、執事の業務からは逸脱していることなど、言うまでもない。 「フェイトちゃんから聞いたよ。大変なことに、なったみたいやね」 「あ…………」 先程のフェイトとの会話で出てきた、『頼もしい援軍』とははやての事だったかと、なのははようやく納得する。一言声を掛けてから椅子に腰掛けると、はやては優しい笑顔をなのはに向けた。 「少しずつ、整理しながらでええから、何が有ったんか聞かせてくれるか、なのはちゃん?」 なのはは、逡巡した後こくりと頷いて、ぽつりぽつりと語り始めた。 帰って来たときのヴィヴィオの笑顔、それが崩れゆく瞬間の後悔、勢い余って、ヴィヴィオの頬を叩いてしまった自責――――と、それを聞いた時にはやては立ち上がり、なのはへと近づいていった。 「…………はやてちゃん?」 「――――なのはちゃん、ちょう、堪忍な」 バチィィンッ!! 「――――っ!」 響いたのは、ちょうどこの場所で鳴ったものと同じ音。頬の熱さに手をやりつつ、なのはは何故、と言う顔ではやてを見る。はやては、やはり赤くなってしまった自分の手のひらをさすりながら、苦笑する。 「ああ……これはきついな……。自分の好きな相手を叩いてしまうんは、何よりも胸が痛いわ。ヴィヴィオも痛かったやろけど……なのはちゃんも、痛かったんよね」 そう言って、自分の手によって赤く腫れたなのはの頬を、叩いたその手で包み込むはやて。呆然としていたなのはだったが、共感してくれたはやての想いに触れて、涙腺が決壊した。 「…………ぁぁぁああああぁぁぁっっ!! はやてちゃんっ……わたし……わたしぃっ……ぅぅ……ごめんね、ヴィヴィオっ……! ヴィヴィオっ! ……ぅ……ぁぁああぁぁんっっ!!」 なのはは、自分よりも幾分背の低いはやてに縋り付いて、子供のように泣きじゃくる。はやては、そんななのはを包み込むように、なのはが泣き止むまで、ずっと撫で続けてやっていた。 「――――落ち着いた?」 「…………うん、ありがとう」 なのはの表情は、幾分晴れていた。涙と共に、しこりになっていた部分が流れ出してくれたのだろう。はやてはにっこり笑うと、そっとなのはの身体を離した。 「泣きたい時は、我慢したらあかん。思いっきり涙流したら、悲しい事も辛い事も、一緒に流れ出てしまうんよ。でも、なのはちゃんとかは不器用だから、そうやって楽することが下手や。自分を追い詰めるばっかりで、一個も前に進めへん。だったら、わたしはいじめっ子になってあげるよ。なのはちゃんがわんわん言うほど、泣かせたげるわ」 冗談めかした口調だが、はやての眼差しはどこまでも優しかった。フェイトとは違うタイプだが、八神はやてと言う女性もまた、『母』なのである。離れてもなお温かいはやてに、なのはは無理ではない笑顔を作ることが出来た。 「本当に、ありがとう。……はやてちゃんもフェイトちゃんも凄いな。わたしと同い年なのに、もうそんなにお母さんなんて」 「あはは、わたしはなのはちゃんみたいに強くはないからね。こないな所くらい勝っとかんと、割に合わんよ」 「にゃはは……そんなもんかな?」 「そんなもんや」 なのはの様子が上向いてきた様子を、はやてはそうと知られぬ様に、つぶさに観察していた。普段のなのはの笑い方が僅かでも顔を見せた所で、はやてはようやく手応えをつかむ。そして次の瞬間、がらりと雰囲気を変えて、突如拳を突き上げた。 「よーっし! ほんなら今日は、呑むでーっ!」 「……ぇ、ええっ!?」 唐突に宣言した親友のノリについて行けず、なのはは驚き、戸惑いの声を上げるが、はやてのスタンスは変わらない。器用にウインクすると、なのはの手を引っ掴んでぐいぐいと引っぱる。 「フェイトちゃんも言うとったやろ、酒でも飲んで気分変えろって。大丈夫やよ、怖いことなんてあらへん。海鳴の方の美味しい店で、実はすずかちゃんとアリサちゃんも呼んどるから。ほら、ごねてないで準備し!」 「え、アリサちゃん達も来てくれるの?」 乗り気でなかったなのはだったが、ここ二月ほど御無沙汰だった親友達の名を聞いて、少々心変わりする。しかし、自分が何も動けずにいた間に、周りでは随分と話が進んでいるものだ。改めて、なのはは自分を取り巻く幸せな環境に感謝した。 「大体、ヴィヴィオのママになってから、ろくに休んどらんやろ、なのはちゃん。せっかくのこんな機会や。いつまでもうじうじしとるよりも、有効に使った方が万事うまくいくもんやよ?」 悪戯っぽいはやての言葉に、なのはは微笑して頷いた。 「はやてちゃん…………うん、そうだね」 と、その瞬間、なのはの懐で、滅多に鳴らない携帯が震えた。ディスプレイを確認すると、発信者はアリサ・バニングス。何となく嫌な予感を憶え、若干耳から遠ざけて通話ボタンを押すと―――― 『こらーーーーっ!! いつまで待たせるのよ、このヘタレなのはーーーっ!!』 「――――へたっ!?」 音量は予想通りだったが、いきなりそんな言葉を掛けられるとは思わなかった。さすがにムッとして言い返そうとすると、 『ヘタレをヘタレと言って何が悪いのよこのヘタレ! ヘタレはヘタレらしく早くこっちに来て、ヘタレたカシオレでも飲みながら、私達に説教されてヘタレなさい、このヘタレ!』 「…………そこで待っててね。どこだか知らないけれど、地の果てでも見つけ出してすぐに行くから。……ちょっと、話し合おうかアリサちゃん!」 『上等よ! いい? 早く来なさいよ!』 ぷつっ。つーっ。つーっ。 電子音のみが聞こえる携帯を手にするなのはから、確かに立ち上るオーラを見るはやては、引きつった顔で胸中アリサに恨み言を呟いていた。 (……うっわー……確かに、元気付けてやってって頼んだんはわたしやけど……海鳴に着くまで、このモードのなのはちゃんと二人っきりかいな……。恨むよアリサちゃん……) 「はやてちゃん」 「は、ひゃぃっ!?」 底冷えするなのはの声に、反射的に敬礼をとるはやて。 「行こうか?」 「サーッ! イエス、サーッ!」 はやてを連れて、なのはは歩き出す。胸中で、はやてとすずか、そしてアリサに感謝しながら。 こうしてわたしを元気づけてくれるのなら、思う存分それに乗らせてもらおう。ヴィヴィオと向き合う勇気を、少しでも多く分けてもらおう。この掛け替えのない親友達に。 さあ、まずは一番の喧嘩友達とやり合う所から始めよう。昔ほどほっぺたに張りは無くなってきたが、今はどちらの方が伸びるかな―――― <前編・了 中編へ続く> |