無限書庫は、知識の洪水とも言える場所である。調べられない事など無いと言っても過言ではなく、訪れる者の技量次第で、求める全ての事に答えてくれる。
 その無限書庫を、名実共に管理する一人の人間が、ティアナの目の前で20冊の本に囲まれている、無限書庫司書長兼考古学者、ユーノ・スクライアである。
 自らも十数冊の本に囲まれながら、ティアナはその手腕に舌を巻く。数だけではなく、一冊一冊の処理速度が尋常ではない。20冊の情報を吟味し、必要な分を取捨選択するための時間が平均して2分から3分。ティアナが十冊前後の情報を処理しきるのに掛かる時間が、5分少々であることからも分かるように、こと情報処理の技術に関しては、軽くSランクオーバーと言って間違いないだろう。
「――――検索魔法も随分と上達したね、ティアナ」
「え? い、ぅ? あ……どうもありがとうございます」
 今まさに見とれていた相手に、その技術に関して褒められたことで、ティアナは一瞬狼狽するが、それでもなんとか謝辞を絞り出した。
「実際、司書の中でもそこまで処理できる人は、あまりいないからね。うん、自信を持って良いよ」
 と、言われても、目の前で次元の違う力を見せつけられている身としては、中々に複雑な心境である。そんなティアナの胸の内を見て取ったか、ユーノは苦笑して付け加えた。
「えっと……ひょっとしてティアナ、僕と比べてたりする? それは、悪いけれど的外れというか、無茶な話だからね」
「それは……分かってはいるんですけど……」
 ティアナがやや憮然として俯いてしまうと、困ったような顔で頬を掻くユーノの周りで、20冊の本が閉じ、それぞれの在るべき場所へと戻っていく。ユーノは一つ伸びをして、改めてティアナの方に向き直った。
「あのね、例えば今、僕とティアナが模擬戦をしたとしようか。恐らく、多少なら持ち堪える事は出来ると思うけれど、僕はティアナには勝てない。ティアナだけじゃなく、なのはやフェイトにはもちろん、元六課の前線メンバーで勝てる相手なんて、多分いないんじゃないかな?
 その代わり、僕はこう言った情報検索技術に関してだけは、誰にも負けない自信が有る。自分の得意な分野で、みんなの役に立てるようにって、伸ばし続けてきた所だからね。――――なのはが、母親としての力では、まだまだフェイトやはやてに勝てないのと同じだよ」
 その言葉に、はっとしてティアナが顔を上げると、ユーノは一つウインクする。ティアナもまた、改めてユーノの方に向き直った。
「何か聞きたいこと、有ったんじゃないの? なのはとヴィヴィオが喧嘩した事についてとかで」
 
 【魔法少女リリカルなのはSS『想い、通じて』中編】
 
 シャーリーに連絡を入れたのは、全くの偶然だった。たまたま自分が本局に来ている時に、これもまた偶然、フェイトとシャーリーが戻っている事を聞きつけ、時間が合うのなら一緒に食事でも、そう思って連絡を入れただけだ。そこで聞いた他人事とは思えない出来事に、居ても立ってもいられなくなって、当事者達のことを最もよく知る者の所に来たのである。
「――――そうだね、心配か心配じゃないかって言ったら、それはもちろん心配だよ」
 ヴィヴィオがなのはの元を離れてしまった事について、どう思っているのか。ティアナの単刀直入な質問に、ユーノは迷うことなく即答した。
「なのはもヴィヴィオも大事だし、なのははそう言う部分に関しては、何と言うか不器用だからね。正直、気が気じゃないって言う方がしっくりくるかな」
 その言葉を、ティアナは少々意外に思った。例によってクロノから要求されたデータの作成を進めつつも、ユーノは至って平静な様子で、そもそもなのは達の事を知っているような素振りさえ、おくびにも出していなかったのである。
「でも、だったらどうして、なのはさんの所に行くなり、連絡を取るなりして差し上げないんですか? ……その、大切な人、なんですよね?」
 フェイトやはやてにすら、自分達が付き合っている事を話していなかったユーノ達だが、執務官試験の勉強などのために、度々無限書庫を訪れるティアナにだけは、成り行きからその事実を打ち明けていた。そう言った経緯で、ティアナは二人の関係を知る数少ない人間の内の一人なのである。
「まあ、『自分がなんとかするから、任せて』ってフェイトが言ったからね。これ以上信頼出来る人はいないから、って言うのが一つ。もう一つは……ちょっと自惚れた話になっちゃうんだけどね」
 ティアナが目線だけで続きを促すのを見て、ユーノは言い淀んだ続きを告げる。
「多分、僕が間に入れば、仲裁はそんなに難しい事じゃない。でも、それじゃ駄目なんだ。今回の事は、きっとしこりとなって二人の中に残る。なのはは、ヴィヴィオへの接し方に臆病になってしまうかも知れないし、ヴィヴィオは、自分の中の劣等感を消化しきれないままで、これから先を過ごすことになる。それじゃ、せっかくのこの機会が無意味になってしまう」
「…………せっかくの機会?」
 むしろ、今の状況を喜んでいると取れなくもないその言葉に、ティアナの眉が不快に顰まる。それに慌てた風もなく、ユーノはさらに続けた。
「まあ、言い方には語弊が有るけれど、大筋では間違ったことは言ったつもりはないよ。
 あの二人は、出会ってから本当の母娘になるまでには色々有ったけれど、逆にそれが良い意味で働きすぎて、その後があまりにも順風満帆過ぎたんだ。ヴィヴィオはなのはの事を考えて、必死に『良い子』であろうとしてたし、なのはは無意識の内に、ヴィヴィオとの絆に甘えてしまってた。
 J・S事件があまりにも印象に強いせいで、みんな気付いてないけれど……本当の意味で、なのはは子育ての大変さに直面してなかったんだよ。子どもを生んだことなんて当然無い、たかだか二十歳そこそこの女性なんだよ、なのはは。フェイトみたいに、母親としての勉強が必要だった事も無い。母親としの経験地なんて、本当は無いに等しいんだよ。
 だからこそ、この機会に自分達の在り方について見つめ直せれば、二人はもっと素敵な母娘になれると思うんだ。だったら今は、僕の横槍なんて必要無い。フェイトやはやて達、みんなの助けを借りれば、きっとなのはもヴィヴィオも、答えに辿り着けるから」
 いつになく饒舌なユーノを見て、ティアナはようやく納得した。ユーノは、ともすれば助け船を出してしまいそうな自分を、必死に抑えていたのだ。目先の安寧に囚われて、本当に大切なことを見過ごしてしまわないために。
「…………すみません。なんか、余計なこと聞いちゃいましたね」
 ユーノは微笑み、首を横に振る。ユーノにもまた、ティアナが心より、なのは達の事を気に掛けてくれている事が分かっていたから。
「なのはは、良い教え子を持ったね」
 そんなユーノの言葉に、ティアナも微笑む。
「私が良い教え子なんじゃなくて、なのはさんの教導だから、私はこうなれたんですよ」
 言いながら、ティアナはデータスフィアを手にして、無重力の中で身を翻す。
「ありがとうございました。次は質問とか、仕事とかじゃなくて、遊びに来ますね」
「うん、またね」
 ティアナは空を漂いながら器用に一礼し、そのまま出口へと流れていく。それを見届けると、ユーノは再び20冊ほどの本を呼び寄せて、本来の業務に戻った。その瞳はもはや揺らぐことなく、一心に自分の仕事へと向いて――――その時、一つの通信が届いた。差出人は、レティ・ロウラン。ユーノは、業務に没頭し始めていた頭を、無理矢理現世に引き戻した。呼び寄せていた本をそのままに、司書長室へと向かいながら、通信の接続を繋ぐ。
「――――どうしましたか、レティ提督。今は急ぎの案件は少ないので、重要な検索でしたら優先して受けられますよ…………え? 違う――――?」
 
 カシャーン!
 軽く鋭い音が響いて、ヴィヴィオの目の前でリエラが使っていたコップが割れた。
「ぁ――――」
 ヴィヴィオが思わず息を飲むと、すぐにその音を聞きつけて、エイミィとフェイトがやって来た。肩を怒らせて入って来たエイミィは、床の惨状を見て眉を吊り上げると、
「こらーっ! カレル、リエラ! ヴィヴィオちゃんが来てるからって、調子に乗り過ぎるんじゃないのっ! ちょっとこっちに来なさい!」
 一喝して、二人の腕を掴んで引っ立てて行くエイミィを尻目に、フェイトはゆっくりとヴィヴィオに近づいて来る。――コップを割ってしまったのは自分ではないが、3人の中での最年長は自分であり、もっと注意を払っていないといけなかったと、ヴィヴィオは自責し、泣きそうな顔になる。
「フェ……フェイトママ……ごめ、ごめんなさい…………」
 必死に謝ろうとするヴィヴィオに、フェイトは優しく微笑んで、頭を撫でてやった。
「大丈夫、ヴィヴィオは悪い事してなかったって、ちゃんと分かってるよ」
「ぇ…………ぁ…………」
 その言葉と微笑みに、ヴィヴィオはむしろ戸惑ってしまう。確かに直接ではないものの、自分にも責任は有るのだ。それを言おうとして、しかし口を噤んでしまう。そんなヴィヴィオに、フェイトは少し困ったような笑顔だけ向けて、コップの残骸を片付け始めた。
「フェイトママ……?」
 破片を一つずつ、丁寧に集めながら、フェイトはヴィヴィオに向き直る。
「ヴィヴィオ、多分エイミィ、これからカレルとリアラを叱りつけると思うんだ。あまりそんな姿をヴィヴィオに見せたくはないと思うから、少しだけお散歩して来てくれないかな?」
「あ……はい……」
 申し訳なさそうなフェイトの言葉に、ヴィヴィオは力無く頷き、トボトボと部屋を出て行った。こぼれたジュースをティッシュで器用に拭き取っていたフェイトは、苦笑をしてそれを見送ると、若干の溜息混じりに呟く。
「……ほんと、ママに似て不器用だね、ヴィヴィオ」
 外を見れば夕暮れが近づく頃。ヴィヴィオは不思議に思わなかったのだろうか? もう日も暮れると言うのに、親友から預かった大切な娘を、過保護の名高い自分が、あまりに不用心に外へ出したこの意味を――――
 ハラオウン家から出てすぐ近くの一角に、近くの子供達が多く集まる公園がある。茜色に染まり始めたこの時間、折りしも公園で遊んでいた最後のグループが野球を終わらせ、思い思いに家路に着いていた所だった。ほんの数十分も前には、子供達の喧騒でにぎわっていたであろうこの公園も、こうなってしまってはむしろ裏寂しい趣を感じさせる。
 俯き加減でトボトボと歩いて来たヴィヴィオは、片隅のブランコに腰掛けると、漕ぐでもなく、ただ静かに身を揺すっていた。
 きぃ……きぃ…………
 鎖の接続部が軋む音だけが、陽光を失い澄み渡り始めた夜の空気に溶け、ヴィヴィオの身を冷たく取り巻く。いっそうの寂しさにその身を切られる思いになって、ヴィヴィオの目尻に涙が滲み出した。いつもなら、ブランコに座っていると、背中を押してくれる手のひらが有った。たおやかで、しかし迷わず我が身を預けられる優しい手。自分の頭を撫でてくれる手。ベッドの中で、眠りに就くまでずっと自分を抱きしめてくれる手。
「…………まま……」
 我知らず呟いて、はっと我に返り、ぶんぶんと頭を振るヴィヴィオ。もう、大嫌いになったんだから――――
「――――がおおおおおおおおおおっっっ!!」
「ひぃぃぁぁぁぁああああぁぁぁぁぁぁっっ!?」
 突然背後から大声で組み付かれ、ヴィヴィオは堪らず悲鳴を上げた。反射的に攻性魔法を展開しようとして、後ろにいた気配が突然慌てたように離れる。
「まてまてまて! こんな所で結界も無しに砲撃魔法なんか撃ったら、怒られるってレベルじゃ済まねーぞっ! あたしが悪かったから、落ち着けヴィヴィオ!」
 言われて即座に冷静になり振り向くと、そこにいたのは赤毛の知らない女性だった。身長ははやてと同じくらいだろうか? 小柄な身体ではあるが、スポーツでもやっているのか、裾から覗く手足の筋肉は、しなやかな頑健さを感じさせる。吊り目がちの眦は長い赤毛で2割ほどが隠れ、後ろ髪は一つの大きなおさげで纏められている。その女性は――いや、まだ『少女』で通るだろう――――頭を掻きながら溜息を吐き、引きつった笑顔でヴィヴィオの頭を撫でてきた。
「……ったく、似ちゃやばい場所まで、なのはそっくりになるんじゃねーよ。管理外世界での魔法行使に関する条項は、もうとっくに学校でも習ってる頃だろ?」
 どうやら、この少女はなのはの事を知っているらしい。しかし、その姿にどうにも見覚えが無く、仕方なしにヴィヴィオは恐る恐る尋ねた。
「…………あの……」
「ん?」
「どちら様ですか?」
 ずべち。ごづっ。
 ヴィヴィオの言葉に、少女は器用にバランスを失って、ブランコの柵に側頭部から豪快に激突した。しばし、うずくまって悶絶していた少女は、ようやく立ち直ると涙目のままでヴィヴィオに詰め寄った。
「……ほ、本当にわかんねーのかよ! そんなに変えたつもりねーんだけどなー……面影とか、気付かないもんか?」
 寂しそうに言う少女に、ヴィヴィオは自分の記憶を必死に掘り起こして――――ふと、思い当たった。
「…………もしかして、ヴィータさん?」
 その言葉に、一瞬嬉しそうな顔になり……しかしすぐに不機嫌な表情を作って、憮然と頷いた。
「そーだよ。やっと分かったか、ヴィヴィオ」
 言いながらも安堵の瞳は隠せていないヴィータに、ヴィヴィオはいささか戸惑い気味に続ける。
「……でも、どうして、そんな……?」
「あたしは、10年前にあの姿でここにいたんだぞ。海鳴に来てる時に、ちっちゃいまんまだったら、知り合い連中がみんな腰抜かして病院を斡旋してくるだろ。だから、変身魔法使ってるんだよ。面倒くせーけど、しょーがねー」
 六課解散後すぐくらいには、既に背を追い越してしまっていたヴィータが、自分よりも頭一つ高い所から見下ろして来ているこの状況は、なかなかに新鮮な体験だった。
「んで、こんな時間にこんな場所で何やってるんだよヴィヴィオ。なのはは近くにいねーのか?」
「………………」
 ヴィータの言葉に、ヴィヴィオは俯いて答えない。その様子を見て、ヴィータは隣のブランコに腰掛け、少しずつ漕ぎだした。そのまま、ヴィヴィオの方は横目にも見ないで、口を開く。
「――――喧嘩でもしたか?」
 ギィッ……ギィッ……!
 少々窮屈に、それでも器用に振幅を広げていくヴィータのブランコは、呟くようなその言葉をかき消してしまうかと思われた。が、風の気まぐれか、その言葉はヴィヴィオにはっきりと聞こえていたらしく、ややあってこくりと頷く。ヴィータは風を切りながらも、ヴィヴィオが頷いた事には気付いたようだった。
「…………どうして、喧嘩なんかしたんだよ。なのはのこと、大好きだったろ」
 答えを半ば予想しているようなヴィータに、ヴィヴィオはぽつりと呟く。
「…………きらい」
「…………ああ、そうかよ」
 ブランコを漕ぎながら、ヴィータは腕の力だけで身体を引き上げ、ブランコの上にしゃがむような格好になる。そして、もう一漕ぎして最頂点に到達すると、それに合わせて高く跳んだ。そのまま、空中で一回転して、危なげなく着地。飛んでる最中、いつの間にそうしていたのか、地上に降り立った時、ヴィータはすでに、羽織っていたジーンズの上着のポケットに、手を突っ込んでいた。
「なんで、嫌いになったんだ?」
 昼にフェイトに聞かれたのと、ほぼ同義の言葉。対してヴィヴィオは、その時よりも考えて、ゆっくりと口を開いた。
「……ヴィヴィオは、どれだけ頑張っても、なのはママみたいにはなれないんです。魔力量だって、ママがヴィヴィオくらいだった頃よりも、3ランクも下なんですよ……?
 ……こんなに駄目な子じゃ、き、きっといつか、なのはママは、ヴィヴィオのこと、き、きらいになっちゃう……。……ぅ……だ、だったら、まだ、自分できらいになった方が、いい、もん…………」
 しゃくり上げながらそこまで言うと、ヴィヴィオは眼を覆って泣き出してしまった。フェイトの前では、気持ちの整理がついてなくて言えなかったことが、今吐露したことだった。何よりも今、ヴィヴィオが一番嫌いなものは、自分自身なのだ。自分の思うように強くなれない自分が、なのはの期待に応えられない自分が、こうしてフェイト達にまで迷惑をかけてしまっている自分が、度し難いほど嫌だった。
 
「――――ばかじゃねーの、ガキが」
 瞬間、この場の空気が凍りついた。自分の耳に届いた言葉が信じられず、跳ね上がるように顔を上げたヴィヴィオの目に映ったのは、座った眼で自分を冷たく見下ろす――いや、見下すヴィータだった。
「ほんと、ガキは楽で良いよな。自分の気にいらねー事があったら、何でも泣きゃ良いって思ってやがる。その点てめぇは違うかと思ってたけど、結局は十把一絡かよ。普段は良い子ぶってても、余裕が無くなりゃこれだ」
 凄まじい勢いで頭に血が上っていくのを、ヴィヴィオは確かに感じた。自分の事情を知りもしないで、勝手な事を並べ立てるヴィータに、旧知とは言え怒りが噴き出す。
「ヴィ……ヴィータさんに何がわかるんですかっ! あんなすごい人がいつも近くにいてっ! 追いつこうとしても離されるばっかで! 出来るのが当たり前の中にいる辛さなんて、ヴィータさんにはわからないよっ!」
 ヴィヴィオの激昂に、ヴィータは大袈裟な溜息で応えた。
「ああ、わからないね。わかるわけねーだろ。って言うか、わかる意味もねー。ただのガキの癇癪に逐一理解示してやれるほど、あたしは出来た人間じゃないんでね」
 吐き捨てるような、あからさまな侮蔑の言葉。その一言で、既に臨界すれすれだったヴィヴィオの堪忍袋の緒が、完全に切れた。
「――――ぁぁぁあああああぁぁっっっ!!」
 叫び、ヴィータに掴みかかり――瞬く間に腕を捻り上げられた。手加減無しに捻り上げられた右腕の激痛に、急速に頭が冷えていくのを感じつつも、ヴィヴィオは抗うのを止めず――――
「甘ったれんてんじゃねーーーーーーっ!!」
 ――――まさに、一喝。
 ヴィヴィオは思わず身をすくませて、鳩が豆鉄砲を食らったような表情になる。ヴィータは、ヴィヴィオの動きが止まったのを見てとると、拘束していた右腕を解放し、その代わりに強く両肩を鷲づかみにした。
「…………っ」
「なにが凄い人だ! なにが出来るのが当たり前だっ! どいつもこいつもっ、どんだけなのはを無敵のヒロインに仕立て上げれば気が済むんだよっ!」
 それは、慟哭だった。ヴィヴィオは反論することすら忘れ、思わず息を飲む。猛りながら、ヴィータの瞳孔は収縮し、蒼に染まった眼からは、大粒の涙が溢れていたのだ。震える唇で、収まらない言葉を吐露し続けるその姿は、悲痛ですらあった。
「9歳でAAAのトップ・エース候補として鳴り物入りで管理局に入って、再起不能とまで言われた重傷からも生還しちまって……気付けば意味も分からずに、誰もが口を揃えて『不屈のエース・オブ・エース』だ! どれだけの挫折を、あいつが味わってきたと思ってるんだよ! どれだけの無力を、なのはが嘆いて来てると思ってんだよ! あいつの辛さなんて、誰も分かってやろうとしねーじゃねーかよっ!!」
 そこまで叫んで、ようやくヴィータは我に返り、荒くなった呼吸を落ち着かせ始めた。ヴィヴィオは、金縛りのような状態からようやく解放されて尻餅を着く。そして、呆然と耳に残った言葉を呟いていた。
「…………挫折……なのはママが…………?」
 その声を聞いて、僅かにクール・ダウンしたヴィータが、今度はゆっくりと、それでも唇は震わせながら、また口を開く。
「…………ヴィヴィオ、変だと思ったこと、無いか……?」
「……え? 変って、……ぇ?」
 ヴィータは、視線をもう一度ヴィヴィオにきちんと戻して、要領を得ないヴィヴィオに話し始める。
「なのはとテスタロッサ、あいつらがどうして六課で同室だったのか、ってことだよ。なのははまだしも、テスタロッサにはエリオとキャロって言う被保護者までいたんだぞ。それなのに、その二人との同室を蹴ってまで、なのはと一緒になったって」
「……あ…………」
 言われるまで気付かなかったのは、ある意味しょうがないとも言えるだろう。ヴィヴィオにとって、なのはもフェイトも、初見時から自分の母であり、同室で暮らすのが当たり前だったのだから。ヴィータもそこはうるさく言わず、本題に入る。
「なのはは、一人じゃ寝られないんだよ。一日や二日ならまだなんとかなるけど、それが何日も続いたりすると、精神疾病の症状が出ちまうんだ」
「――――っ!?」
 告げられた事実に、ヴィヴィオは一切の言葉を失った。
 ――――あの、なのはママが!?
 信じられない気持ちで一杯だったが、ヴィータの表情には一欠片の冗談も無い。混乱し、錯綜する思考に、ヴィータの言葉が針刺すように突き入って来る。
「……13歳の時、次元航行艦への出向命令を受けたなのはは、そこで初めて大規模の次元震を経験した。要請後飛び出してきた特救のやつらと一緒に、なのはは滅茶苦茶頑張ったけど、あまりにも要救助者が多過ぎた。断層をディバイン・バスターでぶち抜いて、要救助者に降りかかる瓦礫をアクセル・シューターで蹴散らして――――でも、最後の最後、なのはにはもう魔力が殆ど残ってなくて……それでも力を振り絞って翔んでいたなのはは、見つけた要救助者を救うことが出来なかった。ヴィヴィオと同い年くらいの、小さな女の子だったらしいぜ。肉眼で確認した時には、既にその教会のシンボルだった女神像が倒れかかってて――――なのはは即座に動き出した……動き出しはしたんだよ。
 フラッシュ・ムーヴが使えるくらいの空間は無くて、エクセリオン・バスターを撃てるほどの魔力も残ってなかった。直線だけなら、稲妻みたいに突っ走るはずのアクセル・フィンも、もどかしいほどに遅かった。それでも命懸けで飛び込もうとしたなのはを、その女の子が止めたんだとよ。…………最後の瞬間に、『助けて』じゃなくて、『逃げて』って叫んだらしい、その子は」
 ヴィヴィオは、思わず我が身を掻き抱く。ヴィータは、歩み寄ってヴィヴィオを優しく抱き締めてやりながら、続きを話し出した。
「逃げて、って言われて、一瞬だけなのはの動きが止まった。その一瞬が、命運を分けたんだ。なのはの鼻先を掠めて、女神像は倒れ込み、その女の子だけを押し潰したらしい」
「…………なのはが次に意識を取り戻したのは、本局の医務室だった。シャマルの検査にも、どこか夢心地で応えて、魔力の枯渇と数カ所の軽傷以外は、特に問題が無いことがわかって、なのはは休養を言い渡された」
「最後の一人こそ守れなかったけど、特救メンバー以上の働きを、なのははこなして見せたんだ。誰もがなのはを誉め讃えてさ…………すれ違う局員の賞讃に、なのはは空虚な笑顔で応えてたよ」
「その夜、なのはは絶叫した。自宅の、自分の部屋の中で。家族が驚いて部屋に飛び込んだら、悪夢にうなされて泣き叫ぶなのはがいた。恐怖で歪んだ眼から涙をぼろぼろ流して、汗やら何やらでびしょびしょになった身体を縮こませて」
「なのはは、虚ろな瞳でずっと謝り続けてたって。『助けられなくてごめんなさい』『わたしだけ生き残ってごめんなさい』って」
「桃子さんや美由紀さんが抱き締め続けて、ようやく正気に返ったなのはは、美由紀さんと一緒に風呂に入って、そのまま美由紀さんの部屋で一緒に寝たらしい」
「――――それ以来、一人で寝ると、時々発作的にそうなるようになった。だから、本局に泊まるときは、あたしかテスタロッサ、その以外でも知り合いで空いてれば、なのはの部屋で一緒に寝るようにしてたんだ。
 六課に入った後は、階級的には個人部屋を与えられるはずだから、副隊長で三尉のあたしが同室になるのは、対外的に無理だった。で、テスタロッサなら旧知の親友で、同階級だ。事情を知らない他のメンバーに追求されない理由付けは、テスタロッサにしか出来なかったんだよ」
 そこまで話すと、ヴィータは自分の服が、少しずつ濡れていくような感覚を覚えた。原因は、抱いているヴィヴィオの涙か。ヴィータは、頭を撫でてやって、最後に一言付け加えた。
「ヴィヴィオ…………なのはは、確かに初めから強かったけど、脆かったよ。誰よりも強く、護ろうとする意志が強いから、『護れなかったとき』にめっぽう弱かった。不屈のエースってのは、折れないんじゃないんだよ。折れても、時間が掛かっても、立ち上がるから不屈なんだ。ヴィヴィオは、どうなんだ? このまま、折れっぱなしになるのか?」
 腕の中に包まれているヴィヴィオから、かすかに首を横に振る気配がした。それを感じて、ようやくヴィータの顔が笑顔に戻る。
「――――帰るか、ヴィヴィオ」
「…………ぁぃ」
 ゆっくりと身体を離し、ヴィータはヴィヴィオの手を取って歩き出した。ヴィヴィオは俯きながらも、しっかりとヴィータの手を握りかえし、錯綜する思考を持て余しながら、ヴィータと二人、ハラオウン家への帰路に着くのだった。
 
 海鳴の商店街から少しだけ外れた路地に、軒を連ねる数軒の赤提灯が下がっていた。華やかな商店街と比べると、何ともうらぶれた趣の店構えばかりだが、酒に手慣れた者達が見れば、ただ単に古めかしいだけではなく、世間の喧騒を離れて落ち着いた雰囲気を持った店であることに気付くだろう。
 初めにこの店を見つけたのは、意外にもすずかだった。捨て猫の泣き声に誘われて辿り着いたそこで、どっしりと軒を構えるその店に不思議と興味が湧いて、はやてを誘って入ってみたのだと言う。果たしてすずかの期待は当たり、美味い酒と美味い飯、和洋中節操無しと言えば聞こえは悪いが、裏を返せば食べたい物がある程度揃っていると言う、穴場的な飲み屋だったのである。
 マスターと言うより店主、と言った風貌の男性は、しばらく前に入って来るなり一騒動起こしてくれた美女4人の様子を、頻りに気にしている様だった。一人は初めて見る顔だったが、他の3人はそれなりの頻度で来る常連だったし、10人の男とすれ違えば10人が振り返りそうな美人が、凄まじい形相で頬をつねり合う姿は、一種異様な近寄りがたさと共に、目を離せない不可思議な気持ちを感じさせていたのである。
 もっとも、今ではもう落ち着いたのか、普段の様相で落ち着いて杯を交わしていて、どうやらあの見慣れない、サイド・ポニーの女性の悩みを、他の3人で聞いてあげている、と言った所のようであった。
 ――――最初の内に、若干飲み比べのようなノリで飲んでしまったのが効いているのだろう、アリサは普段から吊り目がちの眼をさらに尖らせて、もう何杯目かも分からないワインに口をつけた。喉を通る冷たさの代わりに、頭にせり上がってくる熱を受けて、向かいで同じくワインを飲んでいるなのはを睨め付ける。自分と同じくらい飲んでいるはずなのに、明らかに自分よりもまともな状態でいられていることに、八つ当たりのような怒りを感じつつ、ついでにそれも言葉に込めて、挑戦的に口を開いた。
「――――らいたいね、あんたは昔っから不器用なのよ! どんな時れも『全力全開〜!』ってそればっかで、気を抜くことも知らないんらから。誰も彼も、人生全速力で駆け抜けられる訳じゃないってのよ!」
 なのはは、半ば管を巻くようなアリサの言葉に、しかし真剣に思い悩む。
「…………わたし、やっぱり押しつけがましいかな? ヴィヴィオだけじゃなく、みんなに対しても…………」
 内に入ってしまうようななのはの言葉に、アリサの口元が何とも言えない形に歪む。そこに助け船を出すのは、やはり二人にとって最長の付き合いの親友だ。
「なのはちゃんは、押しつけてるとかそんな風じゃないよ。ただ、ちょっと眩しすぎるのかもね。なのはちゃん、自分自身にも凄く厳しいから、なのはちゃんに憧れれば憧れるほど、その人は自分自身を振り返って情けなく感じちゃうんだと思う。六課の時の教え子達も、多かれ少なかれそうだったでしょ?
 ヴィヴィオちゃんは特に、なのはちゃんの一番近い所で、格好良い所を見続けて来ちゃったから、とりわけその気持ちは強いんじゃないかな」
 すずかの言葉に、一つ一つ頷き、自分を省みるなのは。はやてはほんのりと赤くなった顔で、手酌で徳利を傾け、注いだそばから一気に猪口を煽って、すずかの後を継いだ。
「六課の時のティアナもそうやったよね。まあ、あの時はティアナ自身の劣等感が強かったけど、今回はそれだけでもないか。
 ――――なのはちゃん、どうにも一つだけわからんのやけどな、ヴィヴィオのテスト、どう考えても相当にええ成績やったよね。どうしてそないな風に窘めたりしたん? なのはちゃんが、一番褒めてあげたかったんと違うん?」
 はやての言葉に、なのははしばし無言で手の内のグラスを見つめ、3分の1ほど残っていたワインを一息で飲み干した。静かにグラスを置くと、懐からメモ帳とペンを取り出して、何やら書き込み始める。
「…………もちろん、褒めてあげたかったよ。と言うよりも、すぐに褒めるつもりだった。たとえヴィヴィオが嫌がったって、抱き締めて、頬ずりして喜びたいくらいだったよ。
 ――――だけどね……はやてちゃんなら、この問題を見れば分かるんじゃないかな」
『高機動スフィアと、収束スフィアにおける構築時の構成を組み上げる上で、そこに生まれる共通点と相違点について、それぞれ一つずつ述べよ』
 言いながら、書き出したメモをはやてに見せる。はやては猪口を片手にそのメモをまじまじと吟味し、幾程も経たないで、なのはの考えていた事に思い至った。
「…………なるほど、な」
 はやてに変わって、アリサとすずかがメモに目を走らせるが、魔法に関する知識が皆無なために、さっぱり意味が分からなかった。『説明しなさいよ』と言わんばかりのアリサの視線に押されて、なのははワインを注ぎながら、ゆっくりと口を開いた。
 
 ヴィヴィオをハラオウン家に送り届けると、ヴィータはそのまま転送ポートでクラナガンへと帰った。ここ7年くらいで随分と慣れてきた町並みに戻って、ヴィータは解放的な溜息を吐きつつ、変身魔法を解除する。瞬間赤い光に包まれたかと思うと、そこにいたのはいつもの幼女姿のヴィータだった。もっとも表情には、先程まで作っていた大人びたそれが残っていて、なんとも体型とアンバランスな所が、ある意味とてもヴィータらしいと言えた。空を見上げればもう茜色すら熔け落ちて、夜の帳が星々と共に空を飾り立てている。
「ヴィータちゃん、お帰りなさい」
 掛かった声よりも先に、シャマルが近づいていたことは気付いていた。だから、別段慌てることもなく、ヴィータは後ろ手を振って応える。
「おー、面倒くせー話だったけど……ま、たまにはこんな世話焼いてみんのも良いかな。バリバリ貧乏くじって感じだったけどさ。ヴィヴィオのやつ、本気で殴りかかって来やがったから、こっちも完全にキレちまったよ」
 なんでもないことの様に言うヴィータに、シャマルは僅かに困り顔になって、
「念話で全部聞いてたけど……ヴィヴィオちゃんも本当に、健気よね。なのはちゃんにそっくり」
 そう言うシャマルに、ヴィータは大袈裟に鼻で笑ってみせた。
「まー色々とそっくりなのは確かだけど、ガキ過ぎだ。まだまだなのはと比べるには役者が足りてねーよ。……比べる必要も無いんだけどなー。ヴィヴィオがそれに気付いてくれりゃ、話も早えんだけどさ」
 肩を並べたシャマルは、既に勤務を終了していたのだろう、白衣は着ておらず、フォーマルな普段着姿だった。別段それを確認するまでも無く、ヴィータはシャマルに合わせて歩き出す。
「しっかし、わざわざ有給潰して半休取ってまで、海鳴くんだりまでブチギレに行ってきたって、あたしはどんだけ暇人なんだよ。テスタロッサに頼まれたからとは言え……こりゃ仲直り出来た暁には、なのはにはギガウマなアイスでも奢らせなきゃ割に合わねーな。いや、なのは自身に作らせるのも良いかもしんねー。あいつスイーツ作るのは、はやてよりも上手いしなー」
 ぼやきつつも、楽しげな表情で歩くヴィータを横目に、シャマルも楽しそうに微笑んだ。そっと手の甲で口元を隠し、忍び笑いをこぼすと、空いている手でヴィータの頭を撫で始める。
「ちょ、こら、撫でんな! うっとーしい!」
「ヴィータちゃんは、本当に『お姉ちゃん』になったわね。リインちゃんが生まれた頃からかしら、私もシグナムもザフィーラも、正直に言って驚いたわ。ううん、ヴィータちゃんだけじゃない、私達も、色々と変わってるのは間違いないわね。悠久の時を経ても、変わることの無かった私達が、こうして数年で驚くほどの変化を経験するなんて…………はやてちゃんたちは、本当に凄い子達だわ」
 シャマルの言葉に、ヴィータも胸の内で頷く。自分の変化を一番新鮮に感じていたのは、恐らく自分自身だろう。いけ好かない主の命令で、憎くもなく強くすらない相手を蹂躙していた頃には、考えもしなかった自分が、今ここにいる。そして、ヴィータ自身、そんな自分が気に入っていた。
 このままはやて達と共に暮らしていれば、自分が『姉』として接する相手は、さらに増えていくだろう。そいつらとどう接して行くか――――ヴィータは思いを巡らせて、僅かに微笑んだ。
「…………ところでさ。シャマル、その笑い方はおばさん臭いから、やめた方が良いぞ。色々誤魔化そうとしても、そう言う所に滲み出るもんなんだよな……って、痛い痛い、痛いから頭。シャマル、爪刺さってる、刺さってるから。いやそれクラールヴィントかよ……って、いてえって! ごめん、あたしが悪……いたいいたいいたい!!」
「ほほほほ、そーゆー所は本当に変わらないのよね、ヴィータちゃん。変えてあげようかしら、まずはその固い頭の形から――――」
 
 ヴィータと共に帰って来たヴィヴィオは、俯き加減だったが、フェイトは敢えて何も聞かずに笑いかけた。少し身体が冷えていたヴィヴィオを連れて風呂に入り、久々にその長い髪を洗ってやる。ヴィヴィオからは、お返しとばかりに背中を流してもらって、一緒に湯船に浸かって100を数えた。
 洗い髪を念入りに乾かしてやって、自身も丁寧に身を整えると、リンディが出してくれていた、自分が幼い頃に使っていたパジャマを着せてあげて、連れだってリビングに行く。時間はまだ少し早めの8時を回った頃だったが、カレルとリエラは既に眠っていたらしく、そこにいたのはエイミィとリンディの二人だった。
「おつかれさまー、フェイトちゃん、ヴィヴィオちゃん。ごめんね、さっきはみっともない所見せちゃって」
 エイミィの言葉に、ぶんぶんと首を振るヴィヴィオの表情は、やはり少し覇気が無い。先程のヴィータに聞いた事が、相当堪えているのだろう、そんなヴィヴィオを、フェイトは優しくソファーへと促した。
「母さん、準備出来てる?」
 フェイトの言葉に、リンディは「もちろん」と微笑む。促されるまでもなく、エイミィがデータスフィアを繋いだモニターを立ち上げると、そこに映ったのは幼き日のフェイト達だった。
「…………あれ、フェイトママ?」
 ちょうど自分と同じ歳の頃のフェイトを見て、ヴィヴィオがようやく顔を上げる。モニターに映っているのは学校の運動場で、普通の授業とは違うことが明らかに分かるほど、その校庭は人混みで溢れていた。
「そうだよ。これはね、運動会。ヴィヴィオの行ってる学校には無いけれど、地球の学校では年に1度行われる定例行事なんだ」
「ふえー…………」
 賑やかな様子に、ヴィヴィオの目は釘付けになる。ややあって、ヴィヴィオの表情が少し複雑なものに変わった。画面に、なのはの姿が映ったのだ。
 ――――しかし、
「……あれ……?」
 リレーの順番待ちの時間らしく、入念に屈伸運動を行うその膝は、どう見ても緊張で震えているようだった。その様子にヴィヴィオは大いに戸惑う。
 ――――ただ走るだけで、なのはママが、緊張?
「これは……3年生の時の運動会だよね。ってことは、まだはやてはいないんだ。あ、アリサとすずかだ。あはは、アリサってばなのはの背中バンバン叩いて怒られてる。あれは痛いよって、なのはだけじゃなくて、わたしもすずかも一緒になってアリサを窘めたっけ。あ、ちょっと凹んで膨れっ面になってる」
「アリサちゃんとしては、激励のつもりだったんだろーけどねー…………あれは痛いだろって、私も義母さんも観客席で話してたんだよ」
「懐かしいわねー……あんなにちっちゃかったフェイトが、こんなに大きくて立派になるんだもの。さすがにもう、『永遠の17歳』とか言ってられないかしら」
 母姉妹揃って懐かしむ3人を尻目に、ヴィヴィオの目は自然となのはに釘付けになる。いつしか始まっていたレースも中盤に差し掛かり、いよいよなのはの番に回ってきた。前走者はフェイト。小学生とは思えない走行フォームで、他クラスのランナーを完全に置き去りにしていく。フェイトの武勇にヴィヴィオの胸は高鳴り――――そして絶妙のコンビネーションで、バトンがなのはに手渡された!
「――――え?」
 思わず、ヴィヴィオはポカンと口を開け放っていた。
 遅い。遅すぎるのだ、なのはのダッシュが。先程のフェイトの走りと比べたら、ウサギとカメも良いところ。フェイトがスタートラインで少し寝てしまってすら、差しきれるのではないかという程だ。もたもたと、ぎこちなく走り、後続との差が瞬く間に詰まってゆく。それでも必死に走っていたなのはは、コーナーを曲がりきったところで、盛大に転んだ。
「なのはママっ!?」
 思わず叫ぶヴィヴィオの前で、モニターの中でなのはは泣きそうになりながら、必死に起き上がりバトンを拾った。3つのクラスに抜かされながらも、なのははなんとか頑張って走る。そして、アンカーのすずかにバトンは渡った。フェイトよりもさらに洗練された走りで、一瞬の内に前のクラスをかわしていくすずか。残り30メートルで残すところあと一人。すずかは懸命に追い縋り――――ゴールラインを切ったのは、名も知らぬ他クラスの生徒だった。その差は、僅かに10センチと言った所か。しかし、どれだけ僅かな差であろうとも、すずかが結局差しきれなかったことは事実だった。膝に手を着いて呼吸を整え、すずかはゆっくりと『2』と書かれた旗の下へ向かう。
「――――この後が、大変だったよ」
 不意に聞こえたフェイトの声に、画面に釘付けになっていたヴィヴィオは、我に返って振り向いた。
「…………さすがにビデオには撮れなかったけど、なのはちゃん可哀想だったねー。見てて私はもらい泣きしちゃったわよ」
「私もそうだったわ。あんななのはちゃんを見たのは、後にも先にもそうは無かったものね」
 エイミィとリンディが口々に言うと、フェイトはヴィヴィオと目を合わせて、
「なのはね、この後大泣きしちゃったんだ。わたしが悪いんだーって。小さい頃から、すずかはスポーツ万能で、1着以外を取ったことは無かったんだって。それを、初めて2着にしちゃったって、座り込んでわんわん泣いたんだよ。自分も転んで擦り剥いたりしてたのに、そんなことお構いなしで。わたしが何を言っても、すずかが慰めてくれても、アリサが怒っても駄目だった。
 しばらくそうして塞ぎ込んでたなのはだったけど、もう一つの参加競技だった玉入れの時は、目の色が変わってた。玉入れも得意じゃなかったけど、少しでも挽回しようって、涙で真っ赤になった眼で頑張って投げてた。
 ――――ほら、これがそうだよ」
 エイミィが気を利かせて出してくれた、なのはが参加した玉入れの映像を見ながら、フェイトは続ける。
「今じゃ考えられないけどね、さっきのリレーを見ればわかるように、なのはは本当に運動が出来なかったんだ。運動会の時だけじゃないよ。普段の体育の授業でも、他の人が当たり前に出来るような事でも、何度も何度も練習しないと出来なかった。
 けれど、なのははね、諦めなかったよ。どんな時でも、どんな事でも。それで必ずしも克服出来たってわけじゃなかったけど、今のなのはがあるのは、そういう頑張りやさんな部分のおかげだと思うな」
 モニターの中、玉入れが終わった後で、なのはは本当に嬉しそうな顔で、隣にいた子と抱き合っていた。この日、なのはが入れることが出来た玉は4個。実にいつもの4倍の働きで、玉入れは見事、なのはのクラスが僅差で制していたのである。
 モニターから視線を戻すと、次第にフェイトからも目を逸らし、ヴィヴィオはまた、俯いてしまう。そして、フェイトの言葉が終わると、唇を震わせて恐る恐る呟き始めた。
「…………フェイトママも、ヴィータさんと同じようなこと言うんだね。結局、ヴィヴィオをなのはママの所に帰そうとしてる」
 ヴィヴィオの言葉に、フェイトは悪びれず微笑んだ。
「それはそうだよ。わたしは、『無理に帰らせたりはしない』って言っただけ。無理じゃない気持ちで、ヴィヴィオがなのはママの所に帰りたい! って思えるようにするためなら、わたしはなんでもするよ」
 フェイトの言葉は、優しさに満ちていたが、ヴィヴィオはしかし、唇をきゅっと結んで鼻をすする。
「……っ駄目だよ。わたし、なのはママの所に帰れないよ」
 エイミィとリンディの表情が、その言葉を聞いて悲しげに曇った。が、フェイトは臆さず、微笑んだままヴィヴィオの眼を覗き込み、先を促す。ヴィヴィオは、震える唇で懸命に言葉を紡いだ。
「…………どうして……出来ない子の気持ち、知ってるはずなのに……なんで、ヴィヴィオのこと、褒めてくれないの? なんで、あんなに、厳しくするの……?」
 ヴィヴィオの脳裏に浮かぶのは、いずれもなのはの困ったような顔だった。「仕方ないな」と言わんばかりの表情で見られる度に、ヴィヴィオは身を切られるような想いになるのである。ついに、涙が流れ始めたヴィヴィオの両頬を、フェイトは両の手のひらで慈しむように包み込んだ。そして、微笑んだそのままで、ぽつりともらした。
「――――甘えんぼだね、ヴィヴィオは」
 先だってヴィータに言われたのと、ほぼ同義の言葉。しかしフェイトの言葉はどこまでも優しく、ヴィヴィオの胸の中に染み込んで来たため、反論しようと開きかけた口からは、何の言葉も出ることは無かった。
「ヴィヴィオ、よく思い出してみて。本当に、なのはママはいつも怒ってばかりだった?」
「そんなの――――」
 言おうとして、ヴィヴィオは口を噤んだ。『怒った』と評されると、少し違う気がする。いつだってそうなのだ。怒るのではなく、いつものあの優しい笑顔を、ほんの少しだけ曇らせて、困るのだ。
「なのはママに、褒められたことだって有ったでしょ?」
「――――ぅ…………」
 魔法でも使っているのかと思うほどに、フェイトの言葉は容易くヴィヴィオの心の壁を崩してゆく。そう、褒められたことが無いわけがないのだ。むしろ、ヴィヴィオが何かを成し遂げる度に、なのはは自分の事のように喜んでいた。どれだけ仕事が大変でも、帰ってきて、食事中の会話に、入浴の最中の数え歌代わりに、ベッドの中での夜更かしの供に……なのはは必ずヴィヴィオの一日の様子を聞き、一つ一つに楽しそうに相づちを打っていた。先生に褒められたと聞けば、先生以上にヴィヴィオを褒めて、悲しいことや辛いことが有ったときは、一緒に悩み、ヴィヴィオの事を想っていてくれた。
 本当は、時々だったはずなのだ。なのはに窘められる事など。それが、いつしかその幸せを当たり前なものと思ってしまうようになり、もっと貪欲になってしまっていた。褒められた印象が薄くなり、それ以外の時ばかりが胸の中に残っていってしまった。
 何度でも記すが、ヴィヴィオは聡明な子である。ことここに至って、ヴィヴィオは自分の間違いに既に気付いていた。しかし、それでも、どうしても意地を張ってしまうのが、引鉄となったあのテストである。なんで、どうして、あの程度の間違いであそこまで言われなければならないのか――――
「…………あの問題、どうしてなのはが拘ったか……わからない?」
「――――っ! …………ぅん…………」
 まさに見透かしたようなタイミングで口を開いたフェイトに、ヴィヴィオは驚きつつも頷いた。
 ――――そしてフェイトは、決定的な言葉を告げる。
「ヴィヴィオが間違えた問題はね、一番基本的で、一番重要な事なんだよ。スターライト・ブレイカーと、アクセル・シューターの練度を高めるためにね」
 …………………………。
 しばし、無言。ややあって、ヴィヴィオの時が動き出す。脳がフェイトの言葉を理解するに従って、ヴィヴィオの心は、一気に脈打ち始めた。
「………………ぁ……」
「ヴィヴィオ自身が言ったんだよね。なのはみたいな魔導士になりたい、って」
「………………ぁ……ぁぁぁああっ!!」
 フェイトは少しだけ儚げに微笑んで告げ、ヴィヴィオは、驚愕と慙愧から、涙と絶叫を迸らせた。
 <中編・了 後編へ続く>





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