ユーノと、そしてアルフの職場である無限書庫。 六年前は未整理の書物が雑に置かれていたこの場所も、六年という歳月の中で随分と使いやすくなった。 それは無限書庫に勤める司書や職員達の努力の結果であり、中でも検索魔法に秀でたスクライア一族のユーノが立てた功績は大きい。 昔は書物を探すのに半年以上の年月を必要とした頃もあったが、今では掛かっても半分の三ヶ月。 頻繁に使用される書物については一日も掛からずに見つけることができるようになっていた。 「司書長ー!」 普段は全職員が本を探し、本を整理するために慌しく働いているこの部署は。 しかし、今日はいつもが嘘のように静かだった。 「待っていましたよ、アルフ」 無限書庫にやってきたアルフを出迎えてくれたのは、無限書庫の司書長。 老境に入ってから経過した年月も長いベテランの職員であり、ユーノが無限書庫と関わる前から無限書庫の司書長をしていた人物である。 本当は三年前にその座をユーノに譲る予定だったのだが、現在もとある理由で彼はその役職を背に負ったままでいる。 「おう! ただいま、司書長」 彼は歳に逆らってしゃんと伸びた背筋を曲げて、書庫に帰ってきた娘のような少女を出迎えた。 彼の出身部族の慣わしで、家に帰った家族はこうして出迎えるらしい。 「あ、っとっと」 それに合わせてアルフもお辞儀をする。 無限書庫に出入りしてから長いアルフにとって、この司書長という男性は祖父のような存在だった。 彼との礼のしあいから一拍を置いてから互いに顔を上げ、そしてアルフは待っていられぬとばかりに口を開いた。 「あのさ、クロノにさ。こっちにくれば監視カメラの映像を見られるって聞いたんだけど」 さらにいくつかの言葉を並べ立てようとしたアルフに、司書長は人差し指を立て静かにと合図を送った。 アルフは合図の意図が分からず困惑を浮かべるが、指を下ろした司書長が破顔してあんまりにも人の好い笑みを見せるものだから、とりあえず黙っておくことにした。 司書長はアルフの姿に頷くと、自分と共に無限書庫の奥へ来るように促す。 「見せたいものと聞かせたいことがあります」 一体、何があるのだろうか? こう、含みを持たせられた行動をされると気になって仕方がない。 そういえば、よくよく考えるとクロノと話していた時も彼は言外で何かを語ってはいなかっただろうか? 司書長の背を追って歩く中で、することにないアルフの思考は得た情報を整理すべく回転していた。 「あんまり良い予感はしないねぇ……」 含まれた何かが良いものならば、こういう状況では含ませずストレートに言うものだ。 一刻も早く現状を打破する手段が欲しいのだから、情報伝達が早いに越したことはない。 「着きましたよ。さ、中に入ってください」 身体を乗っ取られたユーノは教導隊員とスクライア一族に重傷を負わせてどこかへ消えてしまった。 教導隊員の中では軽傷で、つまり戦闘を行える高町なのはは精神的なショックでそれどころではない。 こんな状況下では即座に情報が欲しいのに、どうして含みを持たせて伝えるのを遅くするのか。 「ああ」 それは、その情報が良からぬものであるからに違いない。 「司書長。あんたは一体何を知っているんだい……?」 司書長の、そこかしこに本がうず高く積まれた狭い執務室の中で。 アルフは来客用の椅子に腰掛け、これから与えられる情報がどんなものでも受け止められるように覚悟を決めた。 ここにくれば希望があると思ったけど。 けれどそれは、溺れる者が掴んだ藁だったのだろう。 「まずはこの映像を見てください」 そう考えることで。最悪を考えることで、アルフは自らの精神を守るための防衛ラインを引いた。 ここに解決の術は無い。期待しないことで、無意識の内にアルフは自分の心を守ろうとしていた。 「これは、ユーノ司書が遺跡最深部に置かれていた物に触れた時の映像です」 映像は真上から録画したもののようで、円状の台座に置かれた四角形の物体にユーノが手を触れようとしているシーンが映し出されていた。 その場には本来なら蒼い宝玉が置いてあるはずであり、アルフは首を傾げる。 どうして宝玉が無く、あんなものがあそこにあるのだろう? と。 「台座の上にはチップが置かれていました。掌よりは小さい、けれど握るには大きいサイズのチップです」 チップにユーノが手を触れると、彼とチップの間が微弱に光り、翡翠が瞬いた。 それに気づいた何人かがユーノの方に振り向くと、彼は苦悶の表情を浮かべて台座の前に崩れ落ちていた。 「なんなんだい、これは……?」 倒れたユーノはもちろん台座から手を離している。教導隊員の一人が仰向けにごろりとユーノを転がすと彼の掌が見え、当然それは何も握っていない。 だというのに、台座の上にあったはずのものも消えていた。 「サポートブレインです」 呻き声を上げるユーノをなんとか救おうと教導隊員が手を尽くす中、突然その教導隊員がユーノに覆い被さるように崩れ落ちた。当然、何事かと他の教導隊員は形相を変える。 そんな彼らを焦点の合わぬ瞳で捉えながら、ユーノは立ち上がって腕を振るった。 「さぽーとぶれいん?」 そうして発動した魔法は完全に教導隊員の虚を突いていて、一瞬の内に彼らを切り刻み、あるいは全身を殴打し、大地に倒れ伏させていた。 「大昔の、どこの世界のものとも知れぬ文献にその名を残していたロストロギアです。アルフ、魔法が高度の理学や工学で構成されていることは知っていますね?」 ユーノが人を 今、自分たちが使っている体系化された魔法とは理系学問と技術の結晶であることは魔導師である自分がよく知っていた。 「術者のみでも魔法は扱えますが、多くの場合は魔法の発動を補助するデバイスを使います。アルフの手の中にいるレイジングハートさんのように自らを助けてくれる子を、ですね」 司書長の言葉にレイジングハートが数度明滅して応える。 照れたのかもしれないし、今の状況では余計に落ち込んでしまったかもしれない。 どっちなのかアルフには分からなかったが、今は構っていられないので心苦しいが放っておいた。 「デバイスとは、魔法運用を助ける器具の総称です。魔力を使うために必要な魔力素を多く内包した木の枝や、高純度の魔力が結晶となった魔力石も古代ではデバイスと呼ばれていました」 彼が紡ぐ言葉にレイジングハートが再び反応を見せた。 デバイスである身には興味深い話なのかもしれない。 アルフには、レイジングハートが司書長の話を食い入るように聞いているように思えた。 「そして、サポートブレインもまた、デバイスとして作られたものでした」 そこで言葉を区切った司書長は、本棚にしまっていた一冊の古ぼけた本を取り出した。 本には不自然に新しい栞が挟まれており、司書長は栞が挟まれたページを開く。 開かれたページには、黒光りをするチップの絵と、その説明らしい文が載っていた。 「“魔法を扱う際には二つの壁がある。それは、術者の魔力量と演算能力である。演算能力が低ければ低度の魔法しか行使できず、魔力量が低ければ小規模の魔法を扱うのさえ難しい”」 アルフには読めないどこかの古代の言語で書かれた文章を、彼女とレイジングハートに読み聞かせるように司書長が解いていく。 語られる一言一言を聞き逃さないように、アルフは耳をしっかりと立てて声を拾った。 「“そこで、そのどちらもを解決する手段を持たせたものがこのデバイスである。魔導師の身体に埋め込んで使用するこのデバイスは、術者の神経に自らを接続して高度な演算能力を与える。デバイスとの相性もあるが、このデバイスを装着することで術者の演算能力は数倍から数十倍に上昇し、これまで不可能とされてきた魔法をも行使してみせた”」 アルフの脳裏に、サポートブレインに支配されたユーノと対峙した記憶が蘇る。 彼は今まで見たことのないような魔法を操り、ユーノ自身が取り回しの難しいと言っていた反射魔法を息をするように自然に使っていた。 その上で、まだ隠し玉を持っているような口振りさえあった。 こちらの動きや教導隊員の動きを読んでいた節もあり、それらを思うと背筋が寒くなる。 明らかに強すぎた彼。それは、飛躍した演算能力の恩恵だったのかもしれない。 「“さらに特徴的なことは、このデバイス自身がリンカーコアを持つことである。周辺の大気に浮かぶ魔力素を取り込み、魔力をストックすることができるのだ。この能力は術者の予備魔力庫として期待されていた”」 リンカーコアを持つデバイスという言葉に、八神家の末っ子を思い出す。 明るく元気な彼女は人々を和ませる、穏やかな風である。 「“しかし、開発陣が予想をしていなかった事態が発生した”」 だが、ユーノを支配して彼の口でサポートブレインが語った言葉は、リインフォースのような温かな色を全く持っていなかった。 むしろ、まったくの逆方向を向いていた。 「“予備魔力庫兼脳補助演算装置、略して 人の心に冷たいナイフを抉りこみ、激昂させ、不快感を与える。 そんな、悪辣な色をしていた。 「“問題はデバイスが持っていた心の種類だった。それは主に従順ではなく、むしろ幻影を見せ続けて主の精神を崩壊させ、そして主の身体を乗っ取ろうとした”」 幻影と精神の崩壊という単語にアルフの耳がぴくりと揺れる。 それならユーノはそんなものの相手をしているんじゃないかと思うと、一刻も早く彼を助けに駆け出したくなった。 だが、今駆け出しても救う手立てが無い。だからぐっと堪えて、アルフは文献を読む司書長の声を聞くことに神経の全てを傾ける。 「“デバイスは残虐な精神を秘めていた。そして、刹那主義でもあった。享楽のために人を殺め、悲鳴が上がることを愉しみ、そして自らを生み出した世界を急速に滅びへと向かわせていった”」 世界を滅ぼすデバイス、サポートブレイン。 急に、対峙しようとしていた相手が途方もない存在と感じ、 「“非道を繰り返すデバイスに対して世界が取った方策は、デバイスが乗っ取った魔導師を殺すことだった”」 眩暈が、した。 吐き気がした。苦痛が脳を襲った。 息が詰まる。 「“世界は魔導師に寄生したデバイスを引き剥がす術を見つけられず、それ以前に滅びが目前に迫る中で悠長な選択肢を取っていられなかった。そして軍隊を率い、多数の犠牲を払いながらも世界はデバイスに支配された魔導師を仕留めてみせた”」 歴史とは繰り返すものであるとは誰の言葉だっただろうか。 「“だが、リンカーコアを持つ故に自身のみでも魔法を行使するデバイスは、一度は封印されたものの巧みに寄生主を得て、世界との戦争を繰り広げていった”」 古の歴史に記された、サポートブレインに魔導師が乗っ取られるという事件が現代になってふたたび起こった。 「“世界とデバイスの戦争は長きに渡り、最終的に世界はデバイスの恒久的な封印に成功する”」 世界との戦争はまだ起こっていない。 しかし、時空管理局がこのことを知れば……それも、起こりうるかもしれない。 「“だが、デバイスとの戦争で深く傷ついた世界はそのまま滅びを迎えてしまった。今ではこうして書物の中に登場するのみである”」 ユーノ・スクライアに軍隊を差し向けて殺害し、危険なロストロギアを再封印するという……歴史を繰り返してしまうかもしれない。 「“滅んだ世界の名はどこにもない。長く戦争しかしない中で人々の心の中からその名は消え、そして歴史すら風化した中でその名を残すものはどこにもなくなった”」 アルフはぎりっと奥歯を噛んだ。痛みが肉体を駆け巡り、そうして少しでも和らげようとする。 「“もしもこのデバイスを見つけても、封印を解いてはならない。この、名を失くした世界のように、その後に待ち受けているものは滅びである。それは、絶望である”」 心に走った痛みを和らげようとする。 「“このデバイスが解き放たれれば、その時はかならず一人の死者が出る。それは、デバイスに乗っ取られた魔導師である。彼は滅びを止めるために殺されるが、放っておいてもいずれデバイスに精神を壊されて死に至る”」 奥歯を噛むだけでは足りなくて、手の鋭い爪を掌に刺し込んで痛みを増やした。 「“二度とこのデバイスが世に出ぬことを願って、本文を閉じる”」 資料を読み終えた司書長は音を立てずに本を閉じ、机の上に置いてある箱に手を掛けた。 その中には包帯や軟膏、絆創膏に消毒液が入っていた。いわゆる、救急箱である。 「いけませんよ、アルフ」 彼はアルフの傷ついた手を取り、消毒液をふりかけた。 傷口に消毒液が染みる独特の感覚にアルフが顔をしかめると、司書長は諭すような口調で静かに彼女へ語りかける。 「貴女にはこれからしなければならないことがあるのに、どうして自らを傷つけるのですか?」 聖者のような物言いにアルフは反感を覚え、彼を睨みつけた。 「何も、何もできないじゃないかっ! 助ける方法が何も見つからないくらいは覚悟したよ。なのに、なのにさ。助ける方法がわかるどころか、ユーノを殺せって言われてんだよ!」 激しい彼女の言葉。それに、司書長は何も言い返さなかった。 「その上で何をしろって言うんだい……っ。あたしには、わからないよ…………」 絞るように言葉を落とし、それきり頭を抱えてうずくまってしまうアルフ。 希望の無さに目を背けて進んできたが、それもここまでで限界だった。 「それは」 《それは》 そんな彼女に何かしらの言葉を掛けようとした司書長。 しかし、彼の言葉をレイジングハートが遮った。 《過去を越えて未来を得ること……です》 控えめに、けれど強い芯を通して告げた言葉は、静かに空気を震わせた。 だけどそれは途方も無い言葉。当てもなくて笑ってしまうような、夢物語。 「そんなこと、できやしないよ……」 力なく肩を落としたアルフが全てを表していた。 そう。そんな幻想、抱けるはずがない。 非常な現実は希望の最も反存在なのだから。 「それができたら、世界は滅ばなかったんだ」 幻しの想いに舞い踏もうとも、それは現を何ら変え無い。 《できます》 なのに。 《できます。やれます。やってのけれます!》 このデバイスは。 さっきまでは主の力になれなくて落ち込んでいたデバイスは、何を言っているのだろう? 《方法なんて見つからない。どうしようもない。どうにもならない》 現実を分かっているのに、どうしてそんなことが言えるのだろう? 《私たちはそれを知りました。司書長もそれを知っています。そしてもう一人、それを知る人がいました》 分からないからアルフは、ただ言葉を聞いていた。 反論するのも億劫で、もうどうにでもよかった。 《私たちをここに導いたクロノ・ハラオウンは、きっと全てを知っていた》 ああ、そんなやつもいたな、と。 鈍くなった頭の片隅でアルフは思った。 《知った上で私達をここに導いたのは……それは、絶望して欲しかったからじゃないと思います》 何を勝手なことを、と。 言いたくなった気持ちを抑え、アルフはとにかく聞きに徹する。 レイジングハートの言葉にいらっとする気持ちが、自分の心をちくちくと刺した。 《知った上でそれでも諦めず。そして、覆い被さる暗闇に立ち向かう意思を持って欲しかったんだと……思います》 それはないよ、と。 《クロノ・ハラオウンは上層部の人間で、自己の意思のみを通すための軽率な行動は行えません。確証の無い行為を信じて動くことを、彼は許される立場にいません》 なにをいっているんだ、と。 《彼は、誰かに託すしかなかった》 それらの言葉を押し込めて、アルフは目の前で高説を垂れるデバイスを見た。 《絶望しか予測できない未来を切り裂いて、そこに希望をもたらすことのできる誰かに託すしかなかった》 生意気な宝玉は……紅に、力強く輝いていた。 「そんな誰かはいるのかい? あたしには思い浮かばないよ」 アルフがようやく発した言葉は、間髪さえ空けずに返事がやってくる。 《います。私たちの良く知る人物です》 もしもレイジングハートが人間だとしたら、最大限の自信を持って吐かれたこの言葉に、胸でも張っていただろうか。 それほどまでに自らを信じて疑わない彼女の言葉に、アルフはなんだかほだされてきたような気がした。 いるなら言ってみろと思う。暗闇を引き裂く太陽のような人間がいるなら、その名を高らかに叫んでみろ。 「本当にいるのかね。絶望を前にして挫ける、暗闇を切り払って明るい未来を呼び寄せるような……英雄みたいな奴だろう?」 疑う口ぶりが心なしか楽しげになり始めていたことを、彼女は気づいていただろうか? 《います。飛びっきりの英雄が一人います》 なんとなく、ぼんやりと。 その誰かの姿が浮かんだ気がした。 だから言う。アルフは言う。 「でもその英雄、今は誰よりも砕けてないかい?」 元より、レイジングハートがそこまでの信頼を置く人物はたった一人しかいない。 少し考えればすぐに分かることだった。 《ええ。残念ながら、そうです》 その者は、光の象徴。どんな冷たい暗闇も自らの光で切り払ってみせる、絶対無敵の 《あの人は、いつもみんなを照らしてくれた。いつもみんなを助けてくれた。私が私でいられたのも、あの人がいたから》 ―――だから。 《あの人が。マスターの心が折れたなら、彼女の魔導の杖として今度は私が彼女を照らします。彼女を助けます》 レイジングハートのその言葉には、暗い影や沈んだ気持ちは微塵も存在していなかった。 あるのは前に向く意思と、先へ進む心と、 《マスターが愛する人を本当に失ってしまう前に、私はマスターを……》 理不尽な今に立ち向かう、望む未来へ挑む 《高町なのはたる高町なのはを、もう一度引っ張り出してみせます》 紅に輝く宝玉の意思に満足したのか、茜の少女は大きく頷いた。 だから彼女は、アルフは、続けて司書長が言った言葉にも大きく頷いた。 「行ってらっしゃい、アルフ、レイジングハートさん。無限書庫の……うちの家族のような青年とその恋人のことを、よろしくお願いします」 |