勢い勇んで騎士カリムの執務室に突入したエリオ。 粉々になった窓ガラスや破砕された調度品が乱雑に散らばったその部屋に、残念なことにカリムの姿があった。 首元に――魔力を付与させた――ナイフを突きつけられた、カリムが。 「く、くくくくるなぁっ! 少しでも動いたらこの女の首を掻っ切るぞぅっ!?」 慌てふためいた小物男に、人質に取られているのだった。 ちらりと時計を見れば、時刻は午後四時四十分を指している。 世界滅亡の瞬間まで、あと四分しかない。 「ライトニングヒーロー! 私に構わなくていいです、この人を倒してください―――」 この四分でエリオたちは魔王を倒さなければならない。エリオたちは散らばって聖王教会の中を探し回っており、誰かが魔王を見つければ合図を送ることになっている。 世界を優先するならば、この小男を瞬殺するか、すぐにこの部屋を後にすべきである。 カリムの命を、見捨てて。 これは天秤だった。 多くの命を救うために目の前の命を見捨てるか、多くの命を危険にさらすことが分かっていながら目の前の命を救うことに尽力するか。 深遠な選択は、しかも、決意を固める時間すら与えてくれない。 知らずに奥歯をぎりと噛んだエリオに、カリムの切羽詰った声が投げかけられた。 「―――この、“漆黒の魔王”を!」 …………。 切羽詰まりすぎて、瞬時にして、エリオの脳はオーバーヒートを起こしかけた。 ◇ ◇ ◇ 曰く、“漆黒の魔王”は暴虐の限りを尽くし、夜天の魔導書の力を用いてようやく封じられたという。 曰く、“漆黒の魔王”によって世界は滅びる。眩い光が全てを消し飛ばすだろう、と。 正直な話、かの魔王の存在については半信半疑だった。また、戦えば抗うことなく消し炭にされてしまうだろうと思っていた。 魔王とは、強大である。 次元世界の歴史上、魔王と呼ばれる魔導師は何人か存在していた。 強大な魔力と邪心を併せ持った魔導師は、しばしば徒党を組んで世界に混乱の渦を巻き起こしていた。 彼らは、後の世の人々に畏怖と侮蔑を込めて“魔王”と呼ばれる。 ちなみに、強大な魔力を用いて人々を救った魔導師は“聖王”と呼ばれている。 閑話休題。 全ての魔王は狡猾であり、獰猛であり、存在するだけで生物的恐怖を呼び起こす存在だと、エリオは教えられていた。 そう。ちょうど、ネジが外れた高町教導官のように。 故に、断じて―――断じて。 「ちちちちかよるなこのやろう! この女がどうなってもいいのかよーぅっ!?」 ―――魔王がこんなヘタレであるはずがなかった。 「……えーっと」 エリオは腕時計状態に戻したストラーダのスイッチを押し、また別のスイッチを押したあと、いくつかの操作をして文字盤に『3:30』という数字を表示させた。 最後に3つ目のスイッチを押すと文字盤に表示された数字が減少していく。 この数字はタイムリミットだ。 「な、何をしてやがるんだっ!」 「デバイスのロック作業ですよ。起動状態にされたら困るんでしょう?」 「お、おう」 嘘だった。と言うか、ストラーダに待機状態でロックしてしまうスイッチなんてついていない。 それをあっさりと信じてしまった彼は、とても狡猾であるとは思えなかった。 格好だけは、“漆黒の魔王”に相応しい黒ずくめだった、が。 「要求は何なんですか? 人質を―――カリムさんを解放してもらうには、どうすればいいんですか?」 内心の焦りか怒りかが自らの語気を強めさせていることをどこかで自覚しながら、エリオは言った。 男が震える。どうやら、己より百歳以上年下の少年に気圧されたらしい。 「か、金だ! 金と逃走用の車を出せ!」 ―――これ、本当に魔王? 「それと、3分30秒―――いや、4分は俺に手を出すな!」 3分30秒。その数字がエリオの背筋に嫌な汗を浮かばせる。 その数字が持つ意味を知るのは、ここではエリオとカリム―――そして、魔王くらいのはずだった。 「覚醒しなけりゃ、俺は一般人と変わらねぇからな……それまでは安全圏にいさせてもらうぜ!」 ―――この魔王、喋りすぎである。 しかし、ここに、情報は出揃った。 夜天の魔導書によって封印を受けていた“漆黒の魔王”は、まだ封印の影響下にいようだ。彼に掛けられた封印が解けるのが、午後四時四十四分。 封印が解けるまでは、魔王と呼ばれる魔導師は一般人と遜色ない人間だという。 彼は小者だ。それ故、人質を取るという卑怯な手段を取った。 そして、小者であるからして、自らが覚醒する時を迎えるまで、己の生命線とも言うべき人質を手放したりは―――しないだろう。 また。小者だが、彼は残虐への躊躇がないようだ。 カリムの首に押し付けられたナイフには、真新しい血液が付着していた。 「――――ッ」 エリオには2つの選択肢がある。 全てを投げ出すという選択肢は、もちろん、無い。 「んん? どうした、少年。金と車を用意しろって言ってんだよ!」 赤髪の少年が選べることは、救う命に1を加えるか切り捨てるか、である。 全てを救う確実な手段は1を切り捨て魔王が力を得る前に打ち倒す、である。 そこに1を加えるには、やはり魔王が力を得る前に打ち倒さなければならない。ただし、1を切り捨てた時よりも難易度が飛躍的に上昇してしまう。当然だ。1が足されたのだから。 高すぎて果てが見えない難易度の選択をした時に、世界救済という壁は乗り越えられるのだろうか? 乗り越える方法はあるのだろうか? 「よ、よく考えてみてください」 「あぁん?」 方法は、無い。エリオには考えつかない。 そして、奇跡という不確定なものを信じることも―――双肩に掛かる重圧のために―――できない。 だから、エリオにはできないのだ。 救うものに 「3分30秒―――いいや、もう3分―――待てば自力で逃げられるのだから、車もお金も必要ないでしょう?」 「……そ、それもそうだな」 なのに、 彼女を見捨てようと思えば思うほど、彼女に振り回された―――ああ、振り回されたさ―――日々が蘇ってしまう。 幾度となく困惑させられて、幾度となく迷惑を被った。無理無茶無謀な難題を何度も押し付けられ、その度に苦労し続けてきた。 あの人は美人だけど身勝手で、いつも自分を困らせては屈託無く笑う。彼女が持ち込むトラブルにはいつも辟易させられた。 想像なんてしたこともなかった騒がしい日常が―――そう、彼女は自分に日常を連れてきてくれた。 ――― project F.A.T.E. それは、エリオ・モンディアルに 忌まわしい名を持つ鎖は、彼が忘れた頃―――幸せに手が届く度―――に人知れず彼の心を締め上げてきた。 フェイトとの出会いや機動六課での日々を経て鎖の拘束力は弱々しいものにはなっていたが、消えるわけがなかった。 鎖は暗に告げていた。『日常に 例えば、フェイトに手を握られた時。例えば、キャロと今までよりも分かり合えた時。 そんな、嬉しいはずの瞬間に。 彼には、彼に向けて放たれる『エリオ』という言葉が、自分を責めているように思えて、胸を突き刺されるのだった。 ―――器も魂も“エリオ・モンディアル”なんて人間はどこにもいない。 そう呼ばれた人間は、既に鬼籍に入っている。 ここにいるのは器に“エリオ・モンディアル”と名付けられた―――誰かだ。 誰かは誰かであるからして名前を持つはずだが、彼を識別させる名前は彼のものではなかった。 それが“ 名前を呼んで欲しいのに、呼んでもらえる名前がない。 ―――でも。とある聖女が、彼を救ってくれた。 彼女は意識的にか無意識的にか、彼をほとんど『エリオ・モンディアル』と呼ばなかった。 その代わり、彼女は、彼を見て思った、彼のための呼称で彼を呼んだ。 聖女――カリム・グラシア――は、雷光の槍騎士をこう称した。 ―――ライトニングヒーロー、と。 恥ずかしい名前で呼ばれた日々は。自分のための――認めたくないけど、恐らく自分の――名前で呼ばれた日々は、なんと満たされるものだっただろうか。 振り返った日々の―――なんと愛しいことだろうか。 身を置く場所なんて無いと思っていた日常は、たった一人の手によって思うよりずいぶんと簡単に居心地の良い場所になっていた。 ……失うのは……嫌だ。 「ライトニングヒーロー! お願いですっ。私に構わないで、魔王を……世界を……っ!」 時計の針が時間を刻む音が、いやにはっきりと聞こえる。 音が1つ鳴る度に心に浮かべた天秤が揺れ、落ち着かせようとする精神が掻き乱される。 天秤の片側には、フェイトやキャロに、フリード。それ以外にも会ったことすらない大勢の人々を一纏めにした『命』という重りが乗っていた。それは蠢き犇いていて、中身がよく見えないのに、とても重たいものだと直感させられる。 対するもう片側には、カリム・グラシアただ一人が乗っていた。 『命』で重さを量るなら、カリム・グラシアはあまりに軽すぎた。 何百兆を超える命の前に、個人という命は果てしなく軽いものだった。 ―――それでも天秤は、平衡を保っていた。 理由は酷く単純で、利己的で、それ故に純粋なものだった。 跳ね上がろうとする天秤をエリオが押さえつけている。ただ、それだけだった。 「お願いです……ライトニングヒーローっ!」 自らの手を加え、天秤が公正な計量を行えなくなった以上、選ぶのはエリオの意思だ。 エリオの頭にたくさんの人の顔が浮かんでは消えていく。 フェイトの顔が浮かんだ。 キャロの顔が浮かんだ。 なのはの、スバルの、ティアナの、フリードの、出会ったたくさんの人の顔が蘇ってくる。 「……カリムさん」 最後に浮かんだのは、カリム・グラシアの顔だった。 泣き顔、笑い顔、すまし顔。そして、真摯な聖女の表情。 笑い声、泣き声、燐とした声。一人の騎士の声色。 時折見せる少女のような反応に、一度だけ見せてくれた羞恥に悶える赤面した姿。 カリムだけは鮮明に、それら全てが脳裏を過ぎる。 それは、別れを告げる走馬灯が記憶の中身を全て引っ張り出して未練を引き裂くように。 「ごめんなさい」 エリオは視線をついと逸らして窓の外を眺めると、天秤から手を離した。 がたん、と音を立てて皿が落ちる。 選択は決まった。 残り時間は、30秒。 「いえ、いいんです。それでいいんです」 やはり、命は重かった。 命という取り戻せないものはあまりにも重すぎた。 エリオはストラーダを槍に変え、しっかりと握った。 そして、睨むように魔王を見据える。 「何をしているっ! この女がどうなってもいいのかっ!」 短く悲鳴を上げた男が、カリムに柔肌にナイフの刃先を押し付けた。 一筋の赤い雫が刃を伝って零れ落ちる。 「よくはありません。でも―――」 エリオの周囲を紫電が取り囲み、ばちばちと鳴る雷が空気を焦がす。 赤髪の少年はいつでも飛び出せるように低く構え、槍の切っ先は――カリムの存在を全く無視して――男を狙っていた。 獲物を見る鷹のような瞳に舐められ、覚醒を20秒後に控えた魔王は、肝を潰されたような感覚をおぼえた。 「く、くるな……くるなぁっ!」 魔王はエリオの一挙一動を注視する。少年が不穏な動きを見せればすぐさまカリムの首を掻っ捌き、死体は槍騎士の一撃に対する盾として用いるだろう。 それが痛いほど分かっているから、エリオは飛び出すぎりぎりのところで動き出せなかった。 ……エリオは、視線をカリムに送る。 「お願いします、ライトニングヒーロー。世界を守ってください」 自身の死を前にして他者を優先する心の持ち主こそが聖女なのだろう。 カリムの言葉には一片の迷いもなく、一欠けらの躊躇もなかった。 彼女の態度がエリオに腹を括らせる。 残り時間は、10秒。 「―――行きます」 エリオが弾みをつけるべく腰を低く低く沈ませ、男のナイフがカリムの首により深く食い込んだ。 これでカリムの命が散り、多くの命が守られる。 ―――だが、真っ先に砕け散ったのは男の背後の壁だった。 神経をやっていない場所から響いた轟音に――小者故の悲しさか――動きが止まる、魔王。 桜色の残滓に光る壁の穴から緑光に彩られた鎖が伸び、彼の全身を絡め取ってしまう。 上方から弧を描いて飛来した緋色の弾丸が、ナイフを床に叩き落した。 そして、呆気に取られる男の視界の中、眩く輝く雷光が眼前に迫っていた。 「ちょ―――タンマぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」 やけに俗っぽい悲鳴を残し、魔王がエリオにぶん殴られる。 打撃の勢いで中空に浮き上がった身体には、三色の魔力光が殺到した。 即ち。 「チェーンバインド! 固めるから思う存分やっちゃって!」 「うんわかったディバインいやエクセリオンいやスターライトブレイカーァァァッ!」 「クロスファイアーシュートッ!」 がしゃーん。 ずばぁぁぁぁぁぁぁーっ! ずどどどどどどどどーん! などという気の抜けた擬音に不釣合いなエフェクトを撒き散らし、たぶん、非殺傷設定でも300回くらいは死ぬ魔法が――まあ、魔王だしということで――対物理設定で遠慮なく放たれた。 あまりの威力に時空が歪み、ぱっくりと次元の裂け目が現れる。 エリオは、裂け目の向こうに あそこら辺に放り込むなら魔王程度はどーにかなりそーである。 「って……あれ? こ、こんなオチでいいのかな……?」 緊張の糸がぶっちーん! と切れ、エリオはその場にへたりこ――みたかったがなんとか耐え、倒れそうになっているカリムを支えた。 首筋に刃物を突きつけられ、極度の緊張状態を強いられてきたカリムだ。精神的な疲労はエリオ以上のはずだった。 「これでよし、っと。しっかし、うまくいって良かったね」 ユーノが柔和な笑みを浮かべて言った。 時刻は午後四時四十四分ジャスト。魔王がここにいれば覚醒していた時刻である。 「発信機を辿ってこっちまで来てびっくりしたわよ、ほんと」 やったらめったら撃ちまくった銃をホルスターにしまいつつ、ティアナが呟く。 エリオはストラーダのタイムウォッチを作動させる直前、最初のボタンノックで発信機を作動させていた。 なのはたちが発信機に気づきタイムリミットまで駆けつけてくれるかどうかは、賭けだった。 「最初は正面から突入しようと思ったんだけどね〜」 こちらは大量に吐き出した空薬莢を足元に転がしながら、なのは教導官殿がのんきに言った。 今日は何かのネジが外れているのか、真正面から突っ込もうとしたなのは。彼女をユーノとティアナが必死になって押し留めたのだった。 彼らはエリオとコンタクトを交わす方法に悩んだが、彼が窓の外に視線を向けた瞬間に、彼らの思惑を伝えたのだった。 ティアナの幻術で、作戦を書いた紙を窓の外に浮かべることによって。 これも一種の賭けだった。エリオが気づいてくれなければ、また彼が魔王の注意を引き付けてくれなければ、彼の不意を打つことは難しかっただろう。多分。 「ま、一件落着ってことで。私は帰るわよ」 そそくさと。できるだけなのはから早く離れたいという足取りを見せながら、ティアナが逃げるように去っていった。 見送った背は心底ほっとしている。 「それじゃ、私たちも帰ろっか、ユーノ君♪」 「そうだね。あと、任せていいかな?」 うるせぇばかっぷるの言葉に一瞬逡巡したエリオは、すぐに頷いた。 「はい。ごゆっくり」 その言葉に、ユーノは照れを見せ、なのははにゃははと笑いながら、彼らも部屋をあとにした。 すると、当然、部屋にはエリオとカリムが残る。 「あー……あの」 ―――口火を切ったのは、エリオだった。 |