それは、暖かさに誘われて桜の蕾が開く頃。 柔らかな春の陽射しが、とある世界のとある部屋に差し込んでいた。 先日の一件で調度品はことごとくが壊れてしまったためとても質素になってしまったその部屋は、聖王教会に所属するある騎士の執務室だった。 聖女とも呼ばれる高位騎士の執務室には一人の少年が佇んでいる。 彼は 彼は、心なしかリラックスした様子を見せながら、直立姿勢を保っていた。 「ふわぁ……早いですね」 がちゃり。 眠い目を擦りながら、部屋の主カリム・グラシアが現れた。 彼女はぬぼーっと執務机の椅子に腰掛けると、半開きの眼でエリオを見やった。 「はい、おはようございます」 「おはようございます」 挨拶を交し合うと、カリムは執務机に設えられたディスプレイに目を落とした。 カリム用の情報端末として機能しているディスプレイには聖王教会付近で発生した大小さまざまな事件が表示されるようになっており、今日も朝早くから一つの事件が報告されていた。 それを見とめるとカリムは眼を開き、元気よく声を張り上げた。 「事件ですよライトニング―――」 「何回天丼を繰り返すんですか!」 「―――あいたぁっ!?」 すっぱーん! 目の覚める小気味良い音が響き渡る。小鳥がぴちちちちと鳴いた。 「んもうっ。ライトニングヒーローはSなんですか? 貴方が望むならそういう行為もやぶさかではありませんが、それにしたって心の準備を行う時間くらいは欲しいです」 「せいっ!」 「あいたぁっ!?」 涙目になって頭を伏せ、エリオを上目遣いで見上げるカリム。そこに年上っぽさはまったく感じなかったが、思わず微笑んでしまいそうな可愛らしさは抜群だった。 閑話休題。 エリオは、最近手に馴染んだハリセンをしまいながら、尋ねた。 「それで。今日はどんな事件なんですか?」 「う〜……。ぶちませんか? もうぶちませんか? ぶたないって約束するなら教えてあげます」 ―――聖女は拗ねていたっ! と言うより、甘えていた。瞳をうるませながらエリオに擦り寄り、見上げてくる。 猫みたいな感じかなぁ、とエリオは思った。 喉を転がすと喜ぶだろうか? 「はいはい、分かりました。ぶちませんから教えてください」 「むぅ。誠意が足りない感じがします」 てきとーに言ったエリオに怒り、カリムは頬をぷくっと膨らませる。 唇を尖らせ、彼女は言った。 「ちゅーしてくれなきゃ許しません」 カリムさんは朝からフルスロットル全開でぶっ飛ばしていた。 首の後ろをぽりぽりと掻くエリオだが、それで状況が好転するわけではない。 こうなった時の彼女は本当にキスするまで許してくれないので、仕方なしにエリオは唇を寄せ、触れるだけのキスを交わした。 カリムの表情に機嫌が戻る。 「事件なんですよライトニングヒーロー♪」 ことさら上機嫌になった聖女は1つのニュースを読み上げた。 それが今回の事件らしい。 「カルガモの赤ちゃんが生まれました」 すっぱーん! ……と引っぱたきたい衝動を必死に抑え、エリオは聞き返した。「それ、事件って言わないんじゃないですか?」と。 だが、カリムは首を横に振った。 「カルガモは三代目の聖王様の寵愛を一身に受けた動物で、カルガモの赤ちゃんが生まれる度に教会の聖女が名付け親になる決まりなんですよ。名前は以前から考えていたものがここにありますから、これを届けてきてください」 カリムがポケットから一本の筒を取り出し、エリオに預ける。 その中にカルガモの赤ちゃんの名前が入っているのだろう。 「はあ。まあ、いいですけど」 元より、 エリオは返事一つで承諾すると、とっとと仕事を済ませるべくドアに向けて振り向いた。 だが、彼の背に投げかけられた言葉が、彼を引き止める。 「行ってきますのちゅーがまだですよ?」 ……忘れてた。 くるっと振り返ると期待に頬を染めたカリムの顔が視界いっぱいに広がった。 きらきらと瞳が輝く様は……なんだろう? こう、大好き光線を受けているようで、落ち着いていられなくなる。 何となく負けた気がして―――悪戯心が芽を出した。 「今日は濃いやつでいきましょう」 抱きなれた腰を引き寄せ、まだ届かない背丈を誤魔化すために背伸びした。 唇と唇が触れ合う―――瞬間、舌を捻りこませた。 何度してもディープキスに慣れないカリムがむーむーと悲鳴のようなものを上げた。 「…………ぷはぁ。もう」 キスを止めれば、羞恥に頬を染めた彼女がはにかんだ。 悪戯な笑みを浮かべたエリオに、カリムは言う。 「行ってらっしゃい、ライトニングヒーロー」 「はい。行ってきます」 今度こそ引き止められず、エリオは執務室をあとにした。 彼の後姿を―――愛しげに自らの腹部をさすりながら―――見送る、カリム。 少年の後ろ姿は日に日に逞しくなっていた。 「ふふっ」 あの日、魔王が現れた日。カリムはエリオに説教を喰らっていた。 曰く、自分の命を惜しんでください。貴女がいない日々は嫌だ。と。 その言葉は嬉しく―――同時に、困惑した。 聖王教の信徒として、聖女として、神や人々のために命を投げ出す覚悟は常にある。 だが、彼は覚悟を投げ出せと言う。 それはできないことだった。やり方の分からないことだった。 でも、今は。 「今日は何を作ろうかしら。ラザニアなんて作ったら……彼は、喜んでくれるかしら?」 ―――きっと、命を投げ出すことを、躊躇すると思う。 それは死んでしまうわけにはいかない理由ができたからだし、それよりも、もっと根幹的な気持ちが関わっていた。 カリムは執務机の椅子に腰掛け、今頃はカルガモの池に向けて全力疾走しているであろう少年を思い、言う。 両目が閉じられた顔は穏やかな色を浮かべており、両手は優しくお腹をさすり、温めていた。 「事件です。事件なんです、ライトニングヒーロー」 春のうららかな日差しがカリムたちを包む。 ともすれば寝入ってしまいそうな光の中で、彼女は言う。嘘偽らざる本心の気持ちを。 「愛しさが止まらないんです。前よりも、ずっと。あふれてあふれてきりがないんです」 カリムはくすりと笑う。 そういえば、カルガモの池に続く道は屋台が立ち並んでいた気がする。 あそこの屋台ではヤキソバが抜群に美味しいのだ。何度か食べに行ったことがある。 「そうね、そうしましょう」 カリムは、エリオを迎える言葉を決めた。 彼が執務室の扉を開けたら、元気いっぱいにこう言うんだ。 ―――今日のお昼ご飯はヤキソバですよ、ライトニングヒーロー! |