†聖王様の花婿〜あなたのことばが欠けらをうめる〜† ―――謝って、私の純情ハートに! 運命は悪戯だ。故に、その日、機動六課の一角で睨み合う少女たちがいた。片や手にバスケット――中身はビスケット――を持った聖王候補生、ヴィヴィオ。片や四角い缶――こちらの中身はクッキー――を抱えた竜召喚師、キャロ。 両者は相手に向けて威嚇的な視線を投げ合っていた。険悪かつ剣のように鋭い空気が彼女たちの周囲に立ちこめている。 「何しに来たのかな―――年増」 「エリオ君に会いに来たんだよ―――貧乳」 この場にフェイトとなのはが居たならば、あまりの痛々しさに泣きだしていただろう。女の戦いを繰り広げる二人は、六歳と十歳。確かに六歳から見れば十歳は年上であり、身体がいくぶん発育した十歳から見れば六歳は発育不良だろう。けれど、この罵り合いはあんまりにあんまりだった。 「知ってる? エリオ君っておっぱいが揺れるといつもそっちを見るんだよ。私のだって――まだまだ小さいけど――エリオ君は見てるんだから」 「う、ううぅ」 初手のジャブから続けて繰り出されたストレートが突き刺さりヴィヴィオはぐうの音も出なかった。どうやら、第一ラウンドはキャロが征したようだ。 ただ、悔しそうにキャロを睨み付けるばかりである。 「くすくすくす。ばいばい♪」 勝者にのみ許される余裕の笑みを浮かべてエリオの部屋の扉に手を掛けるキャロ。その足取りは羽のように軽く、今にもスキップしながら歌いだしそうだった。 だか、その余裕――言い換えれば油断――がキャロの足元を掬うこととなる。 「でも……エリオは、ヴィヴィオを一生追い掛け続けてくれるって言ったもん!」 嘘は言ってない。 「―――ッ。そんな、プロポーズ!?」 キャロに大ダメージ。あまりの猛打によろめいた彼女は己の足につまづいて転んだ。 「あ―――」 咄嗟にヴィヴィオの肩を掴み、床へのダイブの道連れにしながら……! 「ああ―――ッ!?」 巻き込まれたヴィヴィオもまた咄嗟に掴んでいたものがあった。それは、エリオの部屋の扉を開くものだった。 落ち行く彼女たちの視界にエリオの部屋の中の光景が収められる。 「あの……本当にいいんですか?」 「うん……いいよ」 ヴィヴィオとキャロは見た。なのはをベッドに押し倒したエリオの姿を……! 「そ、そんなぁっ!?」 「なのはママぁっ!?」 ヴィヴィキャロショック。回復不能の大ダメージ。 「へ……? え、ヴィヴィオにキャロ!? ち、違うの! これは違うの!!」 凹んだ少女たちに気付いたなのはが弁明の声を上げるが手遅れだった。 なにせ、すでに彼女たちは気絶していたのだから。 「えーっと。……はあ」 眼前の惨事に近い未来の騒動を予見したエリオが溜め息を零した。 今日も前途は多難である。 ◇ ◇ ◇ ◇ ヴィヴィオがエリオと顔を合わせる機会はそう多くはない。元よりあまり接点の無い二人だ。彼の方から彼女を訪ねてくれないと挨拶すらできない。地球は日本の姫と呼ばれた人々はそうしてただ男性が訪ねてくるのを待つ身分だったといつか誰かに聞いた気がするが、ヴィヴィオはそんな過去に生きていない。 バスケットいっぱいに詰め込んだビスケットはヴィヴィオが昼寝を惜しんで考えたエリオを訪ねる口実だったのだが、運が悪いことにキャロと鉢合わせ失敗に終わった。 自室で蹲ったヴィヴィオはベッドの上でころころ転がりながら溜め息を零した。 エリオに抱きつきたい。今日はそういう心境だったのにそれが敵わなかったとあり、心の隙間に吹く風がいやに冷たい。 今日だけは彼の体温を感じながら二人っきりで話をしたかった。 きっと彼に甘えたかったのだろう。 今日は、自分を苛ませる命題がひどく胸中を切迫させていたから。 「うーん。タイミングが悪かったって思うべきなのかなー、それとも縁がないって思うべきなのかなー?」 お気に入りのうさぎのぬいぐるみを抱いて転がる。視線は見慣れに見慣れた部屋を彷徨い、思考はぐるぐると巡っていた。 答えが欲しい。けれど、それはずいぶんと遠い場所にある。 やがて悩み疲れたヴィヴィオは身体を起こすと大きく伸びをした。 「また会いに行ってみよう!」 手を打ち鳴らし立ち上がる。努めて明るく振舞った。 机の上に置いていたビスケットが入ったバスケットを引っつかむ。 「うん、今度はきっと大丈夫だよね。エリオとお話できるよね!」 誰に聞かせるわけでもない言葉は、きっと自分に言い聞かせるためのものだった。油断すると心が懊悩に押し潰されてしまいそう。 余計なことを考えてしまう前にヴィヴィオは部屋を飛び出した。 置いていかれた兎のぬいぐるみが彼女の背中を見送った。 ◇ ◇ ◇ ◇ キャロ・ル・ルシエの自室にて。仁王立ちをしたキャロは訪問者を見下ろしていた。一方、見下ろされている訪問者は平身低頭土下座の構えである。 彼女達を知る誰かがその光景を見たらなんと思うだろうか。 「まさかなのはさんがエリオ君狙いだったなんて!」 「だからごめん! ごめんってキャロでも話を聞いて誤解なの!」 「押し倒されといてそんなこと言いますか!? そのおっぱいでエリオ君を誘惑したんですよね、おっぱいでっ!」 「ちーがーうーよー!? だ、だから話を聞いてってばー!」 修羅場だ。 「エリオにはちょーっっっっっと頼みごとがあっただけなんだって!」 「ベッドの上で頼みごとなんていやらしい!」 「ベッド関係無いからぁっ!? それに私のことじゃなくてヴィヴィオのことで相談だったし!」 「ヴィヴィオ?」 「うん」 恋の好敵手の固有名詞を出したことでキャロに興味を持ってもらえたようだ。なのはは内心で助かったと思いつつ話を切り出していく。 「私の目算よりヴィヴィオが悩み始めるのが早かったみたいで、エリオにはヴィヴィオのことを少し気に掛けて欲しいんだって言いに行ったんだけど……」 「悩みって言うとあれですか?」 「うん。ヴィヴィオのアイデンティティー、だね」 「うー……ん」 腕組みして唸るキャロ。 その表情には苦汁が見て取れた。 「そういうことなら仕方ないのかなあ」 「と、思うんだけど……ごめんね、キャロ」 「まあ、これでエリオ君とヴィヴィオがより仲良くなっちゃったりしちゃったら涙目ですよね、私」 「だ、だよねー……」 なのはとしてもそれが分かっているから強く出れない。ただただ頭を下げるのみである。 キャロは溜め息を零した。 「でも、エリオ君なら誰に言われなくても動いたと思います。そういうお節介で優しいところが好きなんですからそれはよく分かってますよ」 諦観したような、なのに嬉しそうな顔でそんな台詞を言うものだからなのはは押し黙ってしまった。 キャロに敵う気がしないなー、なんて思いながら。 「けど、なのはさん。どうして押し倒されてたんですか?」 瞬転、般若の形相を浮かべたキャロが恐くて後退った。 だが隊舎の部屋はそれほど広くない。すぐに背中が壁につき逃亡失敗。嫌な汗が噴き出した。 「足がもつれたって言ったら信じてくれる……?」 口元をひくつかせながら一縷の望みを掛けて言ってみるなのは。一応、それは真実なのだが、 「あ、そうそう。私、限定召喚って魔法を作ってみたんですよ。たとえばそう、ヴォルテールの腕だけを召喚できたりするんです。こんな風にね……!」 中空に魔法陣が浮かんだかと思うと黒く太く大きな腕がにゅっと伸びてくる。 あー、死んじゃう。なんて呟きながらなのはは泣き出した。 「にゃ、にゃうーーーーーーーーーーーんっ!?」 「きしゃぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」 機動六課隊舎が大地震に遭ったかのように揺れたとか揺れてないとかで、その日は売店の防災グッズがよく売れたとかなんとか。 ◇ ◇ ◇ ◇ ぱたぱたと可愛らしい靴音を響かせて走るヴィヴィオ。彼女の部屋とエリオの部屋はずいぶんと距離がある。彼に早く会いたい一心で急いだ。 途中、何度か人にぶつかりそうになった。その度に謝りながらも歩調を緩めることは無かった。 おかげで目的地には意外と早く到着した。 「よしっ!」 扉の前でブレーキ代わりに小さくジャンプ、短い浮遊感の後に着地。勢いがよすぎて前につんのめるが壁に手をついて耐えた。 走ってきたせいで心臓が早鐘を打っている。深呼吸をして調子を整えた。 扉に向き直る。エリオに会える。 そう思うと、鼓動はまた大きくなっていった。 「え、えっと、えっと。深呼吸!」 両手を広げて大きく息を吸い込んだ。前にスバルに教えてもらった呼吸法――おへその少し下辺りに息を溜めるイメージ――でもって息を吸う。吸い続ける。 十秒以上息を吸っていると流石に苦しくなって、けれど焦らずゆっくりと吐いた。 数度それを繰り返すと鼓動は――さっぱり落ち着かない。 仕方なしに、たぶん赤くなっているんだろうなーと予想できる頬をぱしっと叩いて扉をノックした。 「エリオ、お話しよー!!」 何度かノックを重ね声を掛けるが返事は無い。 「あれ?」 彼の性格上無視は考えられないから不在だろう。 やはり縁が無いのだろうか、と思い気が滅入る。 「う、ううん! ないなら自分から引き寄せるくらい、しないと!」 もうこうなったらただでは転ばない。エリオの部屋の扉に背を預けると蹲る。 彼が帰ってくるまでここで待つ構えだ。 「だって」 ぽつり、呟く。 「会いたいんだもん……」 俯いて目を瞑った。そうすると自らを苛ませる問いが襲い掛かってくる。 辛いなあ、と思った。 その命題はきっと完璧な答えを持たなくて割り切るしかないもの。欲しいものは割り切るため、受け入れるための強さだった。 ヴィヴィオは思う。故人の遺伝子を元に造られた自分は何なのだろう、と。 人か獣か。そもそも―――私は誰? 「エリオはどんな風にして決着をつけたのかな……」 誰が励ましてくれようと、誰が認めてくれようと、自身の根底にある自分がちゃんとした人間ではないという認識。 それはヴィヴィオの心を締め付けて、苦しめているのだった。 ◇ ◇ ◇ ◇ 二本の缶ジュースを抱えたエリオは苦笑いを浮かべていた。少し早足で廊下を歩く。たぶん、ヴィヴィオを待たせてしまっているなあと思いながら。 なのはに頼まれてヴィヴィオを訪ねに行く途中、売店に寄った。長話になるだろうから飲み物くらい持参しようと思ったのだ。だが、そのせいで行き違いになってしまったらしい。主のいない部屋の前で途方に暮れていると自室前で蹲っている彼女を見た、と教えられて引き返しているところだった。 部屋に閉じこもって遊び相手の訪問を待つばかりだったヴィヴィオを思えば、今の彼女の行動力はまるで別人のようだった。あの年頃の少女だ、利発になっていくのは素直に喜ばしい。 ただ、とエリオは思う。 ヴィヴィオは歳の割りに聡すぎるのではないか、と。そう言う自分も賢しい子供だろう。聞いた話ではフェイトも年齢に不釣合いなほど頭が冴えていたらしい。 頭の回りが速いのは人造魔導師の特徴、なのかもしれない。それが幸か不幸かは分からない、が。 「ヴィヴィオが悩んでる……か」 なのはからヴィヴィオに目を掛けてくれと頼まれた。彼女は悩んでいると教えられた。仔細は言われなかったが見当は付いている。五歳ながらも聡明な彼女のことだから、だからこそ答えを得られず泥沼に足を絡め取られているのだろう。 人間は誰もが己は何者なのかと問う時期がある。その問いの答えによって自己を形成していく期間を思春期と呼ぶ。 「なんて言おうかなあ」 自己を確立するために人は他人と自分の比較を行なう。他者との差異をはかってゆっくりと己に対する考えを深めていく。 きっと、ヴィヴィオはそこで悩んでしまっている。 そも常人とまったく異なる出自を持ったヴィヴィオだ、故に他者との差異は大きすぎる―――ように見えているはずだ。 少なくともエリオはそうだった。 人造魔導師として生まれ、物心つく前に両親に捨てられ、実験動物として過ごした。ようやく人間らしい生活に戻れたのはフェイトに助けられてから。それでも異常な環境に置かれたせいで歪んだ心が正常に発育するようになるまでには長い時間を要した。 辛い記憶の大半はまだ蓋をしているだけで克服し切ったわけではない。時折悪戯のように蓋を開けては胸を締め付けるのだ。 全ての原因は自分が人造魔導師だから。 人間じゃないから。 そう思うことが無いわけではない。 「…………ん。僕まで悩んでちゃだめだよね」 陰鬱な思考に心が引きずられそうになったので、頭を振って気を取り直した。 廊下の角を曲がる。自分の部屋が見えた。 扉の前には情報通りヴィヴィオが蹲っている。 「ヴィヴィオ、そんなところで寝てたら風邪引いちゃうよ」 声を掛けながら近づいていった。俯いていたヴィヴィオが顔を上げる。落ち込んでいたようだったがエリオの顔を見た途端に笑顔になった。 扉の前にバスケットを置くと嬉しそうに走り寄ってくる。そして飛びつかれた。 胸に当たる軽い衝撃。缶ジュースを落とさないように注意しながら小さな少女を抱きしめた。 身体が、少し冷えていた。 「待たせてごめんね。行き違っちゃったみたいなんだ」 「ううん、ヴィヴィオが勝手に来ただけだから。…………行き違い?」 「あはは、君の部屋まで行ってきた帰りなんだよね」 「あ、あう」 抱きしめていた腕を離すとヴィヴィオの頭を撫でた。二人連れ立って扉までの短い距離を歩く。ヴィヴィオがバスケットを拾った。 扉を開ける。何の変哲もないエリオの自室があった。 「いつも思うんだけど」 「うん?」 「エリオの部屋ってなんにもないよね」 「うーん、そうだね。制服と、私服と、歯ブラシと、櫛と、ストラーダを手入れする道具くらいかな?」 「コップと鏡は?」 「あ、それもだね」 他愛ない言葉を交わしながら部屋に入る。エリオの部屋は人数の関係で一人部屋になっており、ベッドは一つしかない。作業机も一つしかなく、椅子も一つだ。 ヴィヴィオは、たまにエリオに誘われてこの部屋に来ることがある。そういう時はベッドに腰掛けてずっとお喋りをするのだ。 今日も二人はベッドに腰掛けた。間にバスケットと缶ジュースを置く。ヴィヴィオはビスケットを一つつまむと、エリオの口元に持っていった。 「おいしいよー」 「ありがとう」 ほろ甘くさくさくとしたビスケットは確かに美味しかった。食べ終えるとお返しにバスケットから一枚取り出してヴィヴィオに手ずから食べさせる。彼女は頬をゆるませていた。 そうやって、しばらくビスケットの食べさせあいをする。喉が渇くと缶ジュースに口を付け、またビスケットを食べた。 「ごちそうさま」 「ごちそうさまでした!」 バスケットの中身が空になると二人して行儀よく手を合わせた。エリオは缶ジュースの残りを一気に流し込むと空になったバスケットと一緒に作業机の上に置いた。ヴィヴィオは彼のそんな仕草をまだ半分ほど中身が残っている缶ジュースを飲みながら眺めていた。 エリオが戻ってくる。彼が座った拍子にベッドのスプリングが数度弾んだ。 バスケットがなくなった分、近い。 ヴィヴィオの胸が高鳴った。 なんだか、いつもより意識してしまっている。 「あのね」 両手を使って支えている缶ジュースを膝の上に置いてエリオを見上げる。いつもそうなのだが、彼は柔和な笑みを浮かべていた。その顔を見ているとなんでも受け入れてもらえそうな気になって―――今日はとことん甘えると決めていた。 「……やっぱり、ちょっと待ってて」 缶ジュースの残りを一気飲みしてしまう。ごちそうさまっ、と早足で告げると空の缶を作業机に置いた。 ベッドの上には戻らない。代わり訪ねた。 「座っていい……?」 そう言うヴィヴィオの視線はエリオの膝に向いていた。遠慮がちに訪ねると彼は首肯した。手招きをされる。口元が綻んだ。 エリオの胸に背中を預け彼の膝に腰掛ける。後ろからまだ細くとも鍛えられがっしりとした腕が回された。力強い双腕に似合わぬ優しい抱擁が嬉しかった。 顔を上げ頭をエリオに預ける。彼女の頬は朱が差していた。 「エリオはあったかいね」 告げて、ヴィヴィオは笑った。 「あったかい人達に囲まれているからね。みんなからあったかさをもらうとあったかくなれるんだよ」 「まるでエリオはあったかくないみたいだよ?」 「僕は一人ぼっちだと冷たくなっちゃうと思うよ?」 「そうなの?」 「うん。悩みが色々あってね、考えすぎちゃう。ヴィヴィオはそういうのってないのかな? あったら教えて欲しいなーって思うんだけど」 言って、少し強引な切り出しだったかもしれない、とエリオは後悔した。幸いにしてヴィヴィオに気にした様子は無く、だが言い辛そうに眉を顰めた。 「ある、けど。もうちょっと甘えてからでいい……?」 「いいよ」 「ありがとっ」 ヴィヴィオが背中をぐいぐい押してくるので背中をベッドに落とした。スプリングが弾み小さな悲鳴が聞こえた。 彼女を抱きしめていた腕を離す。するとヴィヴィオは反転してエリオの胸に顔を埋めた。 頭を撫でてやると彼女はくすぐったそうな声を漏らした。 「やっぱり、エリオはあったかいよ」 「あはは、ありがとう」 しばらく撫でていると眠たそうな欠伸が聞こえた。気持ちよかった――あるいは安心した――のだろう。ヴィヴィオは顔を上げると恥ずかしそうに笑った。 「聞こえちゃった?」 「欠伸? うん、もしかしてもう寝ちゃう?」 「まだ寝ないけど……その。エリオ、忘れて」 「……欠伸を?」 「……うん」 「どうして?」 「……はずかしいから」 くすりと笑うともう一度ヴィヴィオを撫でた。 「そろそろお悩み相談室を開こうか?」 「うん、おねがい」 「はい。それじゃあ一人目の相談者さんどうぞ」 ヴィヴィオはころんと転がってベッドの上に落ちた。もぞもぞと回ってエリオに向き直る。二人の目が合うと彼女は口を開いた。 「はーい!」 「まずは、お名前は?」 「ヴィヴィオ。高町ヴィヴィオです」 「高町さんですね」 「ヴィヴィオでいいよ」 「はい、それならヴィヴィオ。今日はどうしたのかな?」 「うん、あのね」 それはまるで遊戯のようだった。少しも真面目な雰囲気を感じさせない二人の態度は、 「私は―――誰ですか?」 真摯すぎる問いに潰されぬためか。 「自分では誰だと思う?」 「わかんない」 「そっか。うーん」 エリオは逡巡した。次に何を言うべきか考えた。これは非常に繊細な問題だ。二人とも冗談めかして喋っているが、中身は切実だ。 彼女を傷つけぬよう話が拗れぬよう慎重に言葉を選んでいくエリオ。だが、彼が口を開く前にヴィヴィオが問いを投げかけた。 「エリオは自分のこと好き?」 「うん、好きだよ」 「そうなんだ。でも、私はヴィヴィオのことはあんまり好きじゃないんだ」 「そうだろうね」 「エリオにはそんな風に見えてた?」 「いいや。けど、自分を好きになるにはまだ早いかなって思ってたんだ」 「どういうこと?」 小首を傾げたヴィヴィオを抱き寄せる。体温があたたかい。 「それに答える前に一つ。僕はさ、自分のこと嫌いだったんだ」 「今は好きなんだよね?」 「うん」 「好きになったの?」 「そう」 「好きになれたの?」 「なれたよ」 「好きに…………なれるの?」 「なれるよ」 二人に距離はぜんぜんなくて吐息すら感じられた。エリオはヴィヴィオの大きな瞳を覗き込む。不安と疑問と、小さな期待が踊っていた。 「僕は富豪の死んだ息子エリオ・モンディアルの代役で、けれど望まれた演技ができなかったから捨てられたんだ。フェイトさんに助けられるまではずっと辛くて、助けられたあとも自分を好きになんてなれやしなかった。そもそも僕には自分ってやつがなくてさ、最初からエリオ・モンディアルっていう知らない人を押し付けられてたわけで。好きになんてなれるはずがなかった。思ったよ、」 一拍の間を置き、続ける。 「僕は誰? って」 ヴィヴィオが息を呑んだ。 「名前で言えばエリオ・モンディアルなんだろうけど、でも誰でもない。なのに生まれてすぐにエリオ・モンディアルを押し付けられたせいで僕は僕である僕を作れなかった。だから自分が誰かなんて分からなかったんだ」 珍しく自嘲を見せるエリオ。 ヴィヴィオは――自分のわがままで――彼の大事な場所に無理矢理踏み込んでしまった、と悔いた。 今すぐ謝ってしまいたかったけどそれは彼女自身が許さない。だから黙って彼の話を聞いた。 「気持ち悪くてね、好きになれたもんじゃなかった」 そしてまた、ヴィヴィオは彼の言葉にある種の共感を覚えていた。境遇こそ違えど彼女の名前はそういったものからくる類だ。 欠損している自己こそが苦悩を誘発しているのだ。 そして、できれば彼がどう克服したかを聞きたかったのだが―――それはエリオの古傷を抉る行為だというところまでは考えが至らなかった。 エリオの表情にもう笑みは無い。 「君はどうなの?」 「……ふえ?」 悔悟が思考を支配していたせいで反応は少し遅れた。 自分に話を振られたと気づくまで数秒。 ついでに―――『ヴィヴィオ』でなく『君』と呼んだのは彼なりの思いやりだと気づくのに数秒。 「君はどうして自分のことが嫌いなのかな?」 最後に返答を考えるのに数秒。 「仮面みたいだから……かな」 エリオは演じているとか代役とか表現していたが、ヴィヴィオとしてはそう言い表すのが的確だと思った。 ジェイル・スカリエッティ事件を通して自身にまつわるほぼ全てを知ったヴィヴィオ。何も知らぬ頃にはただ幸せであった日常が気づけば砂の城になっていた。思えば賢しくなっていったのはその頃からだろう。 確かに生きているはずの現実がどこかリアリティを失っていて、そこで生きている自分は『ヴィヴィオ』という仮面を付けて立ち回っているようで。 本当の自分の居場所がどこにも無いように思えて。 しかも身につけた仮面ですら今の時代のものではなく三百年ほど前のものだという。 極力気にしないようにしていたが、それは目を逸らしていただけだ。胸中で大きな不安になっていき、今日という日に弾けた。 「ねえ」 「なぁに?」 「仮面を外した君の素顔がどうなってるって自分で分かるかな?」 「…………どうだろ?」 考えたことも無かった。 「僕は自分が嫌いだった。でも、今はそうじゃない。こんな自分だけど気に入ってるよ。それは素顔を確認したから、だと思うんだ。誰でもない自分の素顔をね」 「どうやって……?」 「絶対に自分のものって確証を持てる気持ちを抱くんだよ」 「ど、どういうこと……?」 「あはは。簡単に言うとね、恋をしたんだよ。どうしようもないくらい人を好きになったんだ。恋愛感情だけは誰かのものじゃないからさ―――と、少なくとも僕はそう信じてる」 朗らかに告げられたエリオの言葉にずきりと胸が痛んだ。 彼は恋をしたという。誰に? 自分に話しているということはとりあえず自分以外の人間にだ。 辛いな、と思った。 「いや、まあ、振られちゃったんだけどね」 そして、自分の卑しさに嫌気が差した。彼が振られたと聞いて僅かばかりでも喜びと安堵を抱いたいやらしい自分に腹が立った。 ヴィヴィオのそんな胸中を知ってか知らずかエリオはそっと彼女を抱きしめた。顔が胸に埋まる。耳元に吐息が掛かる。 「僕の顛末はそんな感じ。これ、参考になった?」 「整理したいから少し待って?」 「わかった」 エリオに包まれながら、考える。彼は自分が嫌いだったと言った。今は好きだと言った。それは自分を知れたからだと言った。知るきっかけは恋だと言った。 誰のものでもない自分だけの気持ちが自分を自分にした、と言っていた。 それならば―――私はもう『私』なのだろうか? まだ、よく分からない。 「整理できた?」 「いちおう。でも、なんだか、ちょっと」 「うーん。ヴィヴィオは好きな人っているのかな?」 「うん」 「だったら告白してみるといいよ。結果に関わらずすっきりすると思う」 「すっきり……?」 「うん、すっきり」 ヴィヴィオは首を捻る。なんだかよく分からなかったので、まず顔を上げた。 胸に手を当てて自分の中にある想いを確認する。よし、と思った。 「好き!」 不思議な顔をされ首を傾けられてしまった。 ……やっぱりよく分からなかった。 「あはは、僕に言ったってしょうがないって。好きな人に言わないと」 「好きー。好きー! 好きー!!」 「いや、だから……ね?」 それでも一つ分かったことがある。 たぶん、自分は今、エリオを殴っていい。 「えいっ」 「へぶっ!?」 突き上げた掌底が清々する角度でエリオの顎を打ち抜いた。 「帰るね」 頭をぐらんぐらん揺らしているエリオを尻目にベッドから飛び降りた。 作業机のバスケットを回収する。 「待って」 そして部屋を出ようとした時、後ろから抱きしめられた。 耳に吐息が掛かってくすぐったい。 「一つだけ覚えておいて欲しい言葉があるんだ。もしも君が自分に嫌気が差した時に思い出して」 「なに?」 「うん。僕はね、君のこと好きだよ」 「う!? うー……」 真面目な口調でそんなことを言われたものだからヴィヴィオは耳まで真っ赤になってしまった。 彼女を抱きしめていた腕がほどかれると名残惜しさからその手を掴んだ。 振り返るとエリオと目が合う。彼は微笑んでいた。 「や、やっぱり帰らない」 「もう少しお話していく?」 「う、うん」 高鳴る胸の鼓動を感じながら、ヴィヴィオは負けたなぁと内心で呟いていた。まあ、それならそれでいいかと割り切る。 元々、今日は彼に甘えにやってきたのだ。 「エリオ、エリオ」 「うん?」 「ちょっとベッドに座ってー」 「いいけど、どうしたの?」 素直にベッドに腰掛けるエリオ。ヴィヴィオはバスケットをベッド脇に置くと正面から彼に抱きついた。ヴィヴィオにとってはずいぶんと広く頼もしい背中に腕を回し、自分の頬を彼の頬とくっつける。あたたかかった。 ぎゅぅっと抱きしめると彼もまた優しく抱きしめ返してくれた。嬉しい。 「好きって言って」 「うん、好きだよ」 「私も好きだよ」 「あはは、両想いだね」 「ううん、片想いだよ」 「だったら振られちゃったかな、僕」 「振られちゃったのは私だよ」 「……あれ。本気だった?」 「……うん。本気だった」 ヴィヴィオを抱きしめていたエリオの腕がほどかれた。雰囲気を察して彼と距離を取る。 エリオはばつが悪そうに頭を掻いていた。 「ごめん、冗談だって勘違いしてた。本気ならこっちもちゃんと答えを出すよ」 真剣になったエリオは、言う。 「言葉と行動、どっちで答えればいいかな?」 「えっと。言葉はイエスかノーだよね。行動だったらええと……だめだったらどうなるの?」 「部屋まで送っていくよ」 「両想いだったら?」 「今夜は帰さない」 「あう」 顔を赤らめ俯き、しばらく悩んで……ヴィヴィオは言った。 「行動で!」 「ん。なら部屋まで行こうか」 「…………」 その場に崩れ落ちるヴィヴィオ。 彼女の様子に慌てたエリオは矢継ぎ早に付け足した。 「いや、ほら、なのはさんに外泊許可もらってこないと心配させちゃうから!」 エリオのその言葉を理解するのにたっぷり数十秒を要した。 こちこち時計の針が鳴る。エリオの言葉が頭の中を何往復もして、ようやく意図を汲み取れた。 「まぎらわしいよ!」 「ご、ごめん」 「私、すっごく悲しくなったんだからね! エリオのばかっ!!」 「あはは、ごめんってば。でもさ」 「デモも行進もないよ!」 「そうやって悲しんだり、喜んだり、嬉しくなったりする心こそが誰のものでもない君のものなんだよ」 「む、むー…………。まるめこまれてる気がする……」 「でも、すっきりしてない?」 「うー……。えいっ!」 ヴィヴィオは両腕を突き出してエリオをベッドの上に押し倒した。彼が驚く間もなく馬乗りになり行動を制する。 「エリオのばかっ。ばかばかばかー!」 「すっごい罵られてる!?」 「謝って!」 「何に!?」 「私の純情ハートに!」 「ご、ごめん……」 掌でぱしっと彼の頬を叩く。ヴィヴィオはちょっと怒っていた。 「冗談だと思ったって、ひどいよ? だって私、エリオ以外の誰を好きになるの……?」 「それは、なのはさんとかフェイトさんとかキャロとか……」 「女の人ばっかりだよ!」 「そういえば、そうだなあ……」 煮え切らないエリオの頬を思いっきり引っ張る。 この怒りは、たぶん、情緒の欠片も無かった告白劇のせいでもあるだろう。 もう少しロマンチックにしてくれたってよかったんじゃないだろうか。 「むきぃぃぃぃぃぃぃっ! エリオのばかぁぁぁぁあああああっ!」 「い、いはいいはいいはいいはいいはいいはいいはいぃぃぃぃぃいいっ!?」 頬をぐいぐい引っ張るヴィヴィオとされるがまま悲鳴を上げるエリオ。 ヴィヴィオの怒りが収まる十数分後までそんな光景が続いたとか。 |