それは、桜の蕾がそろそろ開こうかという頃。
 寒冬の硬さがほぐれつつある陽射しが、とある世界のとある部屋に差し込んでいた。
 数は少ないが趣味の良い調度品で飾られたその部屋は、聖王教会に所属するある騎士の執務室だった。
 聖女とも呼ばれる高位騎士の執務室には一人の少年が佇んでる。
 少年の名前はエリオ・モンディアル。騎士見習いの少年である。
 彼は、緊張した面持ちで直立姿勢を保っていた。

「ごめんなさい。遅れてしまいました」

 かちゃん、と。
 軽い音を立てて執務室の扉が開かれ、しんと静まり返っていた部屋にたおやかな声が響いた。
 女性の声だ。
 彼女は柔らかな絨毯の上を優雅に歩くと、執務机に据えられた大きな椅子に腰掛けた。

「久しぶりですね、エリオ。フェイトを交えて食事をした時以来ですから……一ヶ月ぶりですね」

 口元を緩めてくすりと笑った女性は、カリム・グラシア。聖王教会が保有する教会騎士団に所属する騎士だ。
 ただ、彼女は騎士から連想される屈強といったイメージが当てはまらない。

「はい、お久しぶりです。騎士カリムはお変わり無いようで何よりです」

 深窓の令嬢に似た儚さと淑やかさ。神に献身するシスター特有の神々しさ。不可侵性。
 漆黒の法衣に身を包んだ女性には、おおよそそういったイメージこそが似合っていた。
 彼女に微笑まれて、エリオは表情に照れを浮かべた。

「そんなに硬くならないでください。恭しく“騎士”などと付けず、いつものように“カリムさん”と呼んでくれて構わないのですよ?」

 カリムはそう言うが、エリオは難色を示した。いまだ騎士見習いである赤髪の少年にとってカリムは雲上人であり、本来ならば謁見すら許される立場ではない。
 彼女の好意と厚遇によって対面を許されているが、見習い騎士はただただ恐縮するばかりだった。

「むぅ」

 ぷくり。
 突然、カリムが穏やかな表情を崩した。だだっ子のように頬を膨らませ、瞳には不満の色を浮かべている。
 聖女は突如として俗人に成り下がり、さらには拗ねた子供にまで成り下がった。
 不思議と似合って可愛らしいから、ある意味で余計にタチが悪い。

「事件ですよライトニングヒーロー!」
「結局それですかぁぁぁああああっ!」

 すぱん! すぱんっ すぱんっ すっぱーんっ!
 立場も階級も忘れたエリオが懐から抜き出したハリセンで目にも留まらぬ4連撃を繰り出してみせる。
 静かだった執務室に気の抜ける音が響き、遅れて涙目になったカリムの声が漏れた。

「なんでそんなに準備が良いんですかライトニングヒーロー……ううぅ」

 すっぱーん!
 軽快な音が鳴り、カリムは不思議と脳天に響く軽い衝撃を受ける。

「出掛けに八神部隊長に持たされたんです。貴女がボケたら突っ込め、って。それと、その痛々しい名前はいい加減に忘れてください」

 呆れ声で紡がれたエリオの言葉を耳に入れ、目尻に涙を浮かべたカリムは上目遣いに少年を見上げる。いや、睨みつけると言った方が正しいか。
 聖王教会の偉い騎士様は、うーうーと唸りながら十歳以上年下の少年に非難の視線を浴びせ掛けていた。

「ライトニングヒーローという名前は、私が夜も寝ないで昼間寝て考えたものなんですよ! それを痛々しいなん―――」
「夜は寝てください!」
「―――きゃうんっ!?」

 ずびし。
 ついにハリセンから脳天チョップになってしまった突っ込みがカリムに炸裂した。
 痛い思いをしてようやく観念したのか、年上お姉さんの気品をどこかに置いてきてしまった他称聖女は頭を庇いながら用件を告げる。
 ボケる時間は終わったらしい。

「世界に、滅びの危機が訪れています!」

 しーんと静まり返る執務室。
 エリオとカリムはたっぷり数秒硬直し、先に動いたのは少年だった。
 彼はくるりと踵を返し、退室すべく執務室の扉に向かっていた。

「待ってくださいエリオ・モンディアル! いや、ライトニングヒーロー! 荒唐無稽のようですが真実なんです!!」

 去ろうとする少年に追いすがり、背後から腰に抱きつくようにして彼を引きとめようとするカリム。
 意外と強い力にエリオの歩が止まる。視線を落とすと、彼女の真剣な表情が目に入った。

「貴方だけ……私には貴方だけしかいないんです……っ。だから、お願いです……見捨てないで…………っ」

 誰かに聞かれ、この光景を見られると、酷く誤解を受けそうだった。
 既婚者でもないのに、時折未亡人のような魅力を醸し出すカリムだからだろうか。若い燕に別れ話を切り出されて泣きすがっている女性のように見えてしまう。
 もちろん、若い燕とはエリオだ。

「いや、あの、騎士カリム……?」
「今なら、私の下着も付けますから―――…………っ!」
「いりませんよっ!?」

 取り乱すと意味不明なことを口走る癖をどうにかして欲しかった。
 なまじ美人――それも、知っている中で2番目の――なだけに、非常にタチが悪い。
 エリオは深い溜め息を付くと、髪を振り乱して己にすがる女性をなだめに掛かった。

「とりあえず事情を説明してください。状況次第では手を貸すこともやぶさかでは―――」
「下着でだめなら……。私のはじめてを奪ってもいいですよ……?」
「―――人の話を聞いてくださいカリムさんっ!」

 エリオは真っ赤になってカリムの頭を引っぱたいた。ハリセンで。
 相変わらず小気味の良いすっぱーん! という音に、取り乱していた聖女騎士はようやく我を取り戻した。

「あ。やっと“カリムさん”って呼んでくれましたね……♪」

 すぱん。
 気恥ずかしくなったのでついでにもう一発はたいておいた。

「……あんまり叩かれるとばかになっちゃいますよ、私」
「それはもう手遅れだから置いておきましょう」
「エリオが冷たいです……」

 しょんぼりと肩を落としたカリムはとぼとぼと執務机の椅子に戻り、今更ながらにきりりとした表情を取り繕った。
 中空に数枚のパネルを出現さて、うちの一枚をエリオに送る。

「これは……っ!?」

 やる気が見られない気の抜けたエリオの表情が、驚愕に引き攣った。
 パネルには解読された預言書――騎士カリムのレアスキルによって書かれた不確定な未来――の内容が記されていた。
 曰く、今年の三月三十一日午後四時四十四分に世界は滅ぶ、と。

「私の予言が必ず現実になるとは限りません。しかし、選択されるかもしれない未来に、それは確実に存在するのです」

 渡された預言書の端から端まで目を通したエリオは、焦った様子で時計を探した。目当てのものはすぐに見つかり、気を急きながらアナログ壁掛け時計に表示された時刻を確認する。
 時刻は午前、十時十二分。

「これを見てください」

 カリムは新たなパネルをエリオに渡す。先ほどのパネルより少し大きいそれには、世界崩壊に関する詳細が書かれていた。
 思わず、エリオは固唾を飲み込んだ。

「――三月三十一日、午後四時四十四分。漆黒の魔王の手によって世界は滅びるだろう。眩い光に包まれ、全ては消し炭と化す――」

 パネルに記されている内容を、カリムが厳かに告げていく。まるで神託者のようだ。
 いいや、預言書の作成なる能力を生まれながらに持つ彼女は、正しく神託者なのだろう。
 一度下した予言は二度と忘れることなく、文をエリオが持っていてもカリムはそらで予言を語ってみせる。
 エリオには、彼女の藍色の瞳が微かに輝いているように思えた。
 彼女から目を離せない。

「――救う者は雷光の槍騎士。彼の下に集いし三つの光が魔王の光を覆い隠す時、世界は元の光に照らされ続けることができるだろう――」

 予言を語り終えたカリムは、ゆっくりと瞼を閉じる。
 彼女に魅入られていたエリオははたと気づいた。
 聖女が、そのまなじりから雫を零していることに。

「今朝、寝坊しかけた私を小鳥たちがさえずりで起こしてくれました。目を開けると、咲きかけの桜が木々を揺らしておはようの挨拶をしてくれました」
「カリム……さん……?」

 神託を告げた時とは別人のように。聖女は、穏やかなのにどこか張り裂けそうな口調で言葉を紡ぐ。
 背を椅子に預けた彼女の瞳からは、とめどない涙が溢れていた。

「この時期の陽射しはまだ緊張していますね。暖かくなってきたとはいえ寒さが残っていますから、ふとした時に身が震えてしまうのでしょう。風や水も、ほぐれるのはもう少し先ですね」

 エリオは、彼女に気づかれないようにそっと、歩み寄った。
 柔らかい絨毯の上では足音なんて簡単に消せる。衣擦れの音にさえ気をつければ、気づかれはしないだろう。

「今日、最初に会った人はシャッハでした。食堂で彼女と一緒に食事を取って、その後は教会の中で多くの人とすれ違いました。みんな忙しそうでしたが、充実した笑みを浮かべていました」

 伸ばした手が彼女に触れられるまでは、気づかれはしないだろう。

「―――私の愛しい人と、ものたちです」

 少年の指先はすっと伸ばされ、聖女が零した雫を拭い取る。
 か細く、小さな呟きが響いた。
 聖女が瞼を開いて見上げると、そこには小さな騎士見習いの少年がいた。

「約束します。貴女の愛しい全ては僕が守ります。だから―――」

 あとからあとから込み上げてくる涙を止められないカリム。
 彼女に向けて赤髪の少年は柔和な笑みを向け、生来の優しさの中に芯の強さが垣間見える、どこか寝入ってしまいそうに安心できる声で囁いた。
 世界を憂いて涙を流した心優しい聖女のためだけに送る言葉を、彼女の耳元に唇を寄せて囁いた。

「―――もう、泣かないでください」

 零れる雫に輝く彼女も美しいけれど。
 陽射しの中で笑う彼女の方が―――自分は、好きだから。

「はい。お願いします―――」

 たおやかな、たおやかな声で。
 聖女は、静かに言葉を紡いだ。

「―――“私の王子様Lightning Hero”―――」





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