八神はやてにとってクロノ・ハラオウンは恩人であり、良き友であった。
 闇の書事件以降、彼女と彼女の家族たちとの生活を守るために彼は奔走してくれた。
 もちろん、彼のみが彼女を助けるために駆けずり回ったわけではない。彼の母や彼女の友人たちも全力を尽くしてくれた。はやてが彼らに感じた恩を忘れた日は1日たりとて存在しない。
 そんなわけで、はやてにとってクロノは恩人である。
 また、前述したように彼は彼女の友人でもある。師でもある。
 はやては魔導師として高い適性を持っていたが、高すぎる適性のために彼女の師を務められる人材が中々見つからなかった。彼女がミッド式とベルカ式の両方を扱える特異な魔導師であったことも災いした。非常にデリケートな教導が求められたのである。
 それだけではない。
 “闇の書”という、時空管理局に根強い禍根を残すロストロギアの継承者が八神はやてなのだ。彼女の立場は脆く、そういった意味でも人材選びは難しかった。
 結局、教導隊出向経験を持ったリーゼ姉妹直々に手解きを受けたクロノに白羽の矢が立つことになる。
 本人も予想していたようで特に嫌がる素振りは見せなかった。
 恩人に更に世話になってしまうことをはやては申し訳なく思ったが、クロノとの訓練を始めて2週間も経つ頃には気にならなくなっていた。
 はやてが、クロノの世話を焼き始めたからだ。
 事件の後処理や訓練で迷惑を掛けっぱなしではいられないと、恩返しのために始めた行為だった。
 なかなかどうして、これが上手いこと作用した。
 訓練で、不自由な身体と不慣れな魔法に苦戦するはやて。クロノは、執務官という激務の合間を縫って懇切丁寧にはやてを指導してくれた。
 日常で、どうにも不器用な生き方しかできないクロノに、はやてが彩りを加えていった。特に、ご飯を作ってあげると喜んでくれた。
 さて。ここで必然が発生する。
 共に過ごす時間が長くなっていく2人。いくつかの衝突やすれ違いも経験したが、いつしか随分と打ち解けてしまった。
 お互いのことを知っていった。距離がどんどん詰まっていった。
 はやてから見るクロノの横顔がどんどんと変化していった。
 最初は、まったく知らない少年の横顔だった。
 事件以降、それは恩人の横顔になった。
 そして、いつの間にか友人の横顔になっていた。
 今では、また別の横顔になっている。
 うっかりと見つめてしまい、見咎められれば顔を真っ赤にして慌ててそっぽを向いてしまうような。嬉しいような、焦れたような、こそばゆくて、どこか鋭くて、とても温かな気持ちを抱いてしまう横顔。
 恋した人の横顔。
 自覚してしまうと非常に気恥ずかしいものがあったが、そろそろ2桁に届く人生の中で初めての恋だ。はやては、はにかみながら家族にそのことを話したのだった。
 彼女に誤算があったとしたら、告白の翌朝に家に家族の誰もがいなかったこと。

『ハたラたオたウたンた執た務た官たをた試たしたてたきたまたすた』

 タヌキのぬいぐるみを重石に残された手紙に、はやては首を捻ったのだった。










 時空管理局執務官。それは、狭き門を潜り抜けた者のみに与えられる役職である。
 執務官は司法権限を持ち、捜査の指揮を執って犯罪者の逮捕を行う。彼らこそが次元世界における法の番人であり、秩序の守護者である。
 また、執務官は幹部候補生でもある。熾烈な出世争いに勝利した執務官たちは時空管理局の重要ポストに就くのである。
 執務官を希望する者は後を絶たない。
 しかし、執務官は高水準の知力・魔力・技術力を求められ、自然と試験の難易度も上がってしまう。
 だからこそ執務官は優秀な人物ばかりであり、半ば嫉妬が混ざった羨望の眼差しで見つめられる。
 さて。3年前、若干11歳で執務官試験を突破した少年がいた。少年の名はクロノ・ハラオウン。
 執務官であることと、また別の理由により、現在時空管理局男性職員の嫉妬と羨望の眼差しを一身に受ける少年である。

「ふごふごもごもごむがーっ!」

 彼は、今は訓練室の真ん中に転がる簀巻きだった。

「ふっふっふっふっふっ。覚悟してくださいクロノさん」

 悪の女幹部ばりに妖艶な笑みを浮かべたシャマルが、身動きの取れないクロノを見下ろしていた。全身をすっぽりと覆う漆黒の外套が、シャマルの外見年齢と合わせると、その、似合いすぎたコスプレだった。

「ふごーっ!? ふごーっ!?」
「大丈夫……優しくシテあげますよ?」

 紅い舌が艶かしく唇を舐めた。獲物を狙う鷹の獰猛さがシャマルの瞳に宿る。
 瞬間、クロノの息が詰まった。
 シャマルのほっそりとした指が彼の首に絡められ、冷たい爪先が柔肉に食い込んだ。

「ふふ……くろのさぁん」
「ふごっ!? ふっ!? ふぅっ!? ふごぉおおおっ!?」

 クロノの瞳が焦りに震える。目の前の女性は、一体何をしようとしているのか。
 引っかき傷の白い尾を引いてシャマルの指先がクロノの首筋から離れた。彼女は形の良い唇を妖しく歪めると、両の手を外套に掛けた。
 ばっ! とマントを空中に投げれば、その下に現れるのはぴっちりとしたボンテージスーツ。
 そして、いつの間にか右手に握られた鞭と、左手に握られたロウソク。
 その姿。どっからどう見てもアレだった。

「さぁ―――女王様とお呼び!」
「ふごぉおおおおおおお―――………ッ!?」

 ひゅん、と。甲高い音を上げて革製の鞭が振るわれた。勢い良く叩かれた簀巻きが訓練室に鋭い音を響かせる。衝撃はさほどではなく、クロノに肉体的なダメージは無かった。
 しかし、こう、精神力がガリガリと削られている気がする。

「オーッホッホッホッホッホッ!」

 こう、見ちゃいけないものを見てしまった心境と言い表せば良いのだろうか。
 目覚めちゃいけない感覚が目覚めそうなことも加味すると、クロノの精神力は崖っぷちだった。

「……お前は何をしているんだ、シャマル」

 恍惚とした笑みを浮かべて狂行に浸る金髪美女を止めたのは、呆れに呆れた桃髪美女だった。
 彼女の名はシグナム。八神はやてを守護する雲、ヴォルケンリッターが烈火の将である。
 勢いに任せて行動していたシャマルは非常にばつの悪そうな表情を浮かべた。

「ちょ、ちょっと……予行演習を」

 突っ込んだら負けだ。

「……いいから、ハラオウン執務官の拘束を解いてやれ」
「はいは〜い」

 流すことにしたのか、言及するのが嫌だったのか、心底疲れた顔をしながらシャマルの問題発言を無かったことにするシグナム。
 心中、参謀との付き合い方に本気で悩みつつ。彼女はこれまでの経緯を振り返った。
 休憩中だったクロノを拉致った。

「…………」

 振り返るほどでもなかった。

「すまなかった、執務官」

 ぐったりとしながら手足を解すクロノ。シグナムは彼を盗み見た。
 年齢にしては背が低く、3つ年下のはやてと並んでも違和感が無い。当然、顔つきもまだ幼い。
 傍目には身体が鍛えられているようにも見えず、一言で表せば華奢だ。
 それでいて、普段は子供らしさなど忘れたような仏頂面でむすっとしているために可愛げが無い。眉間に寄った皺は頑固爺さんを思わせ、その不釣合いさが彼という存在そのものにアンバランスな印象を与える。
 彼は常に何かに悩み、考え続けていた。
 他人を救うという、ただ1つの事を。
 自分自身のことすらも横に投げ出して。

「はぁ……とりあえず、事情を聞こうか」

 ついとシグナムを見上げた彼の瞳は怒りよりも呆れが強かった。憤慨してもおかしくない状況で、積極的に糾弾しようとはしない。他人に対して甘いのだろうか? 彼は大方のことを苦笑混じりに受け入れてしまう。
 彼と関わってから何度“やれやれ、しょうがないな……”のセリフを聞いたかわからない。
 お人好しなのだろう。彼の友人であるスクライアのように。もっとも、当人たちは顔を赤くして否定するだろうが。

「ええ。ちょっとクロノさんに用事がありましたもので」

 彼はシグナムたちの恩人である。立場上犯罪者であったシグナムたちがはやてと暮らせるのは彼の尽力に寄る所が大きい。
 シグナムたちが受けた恩は永遠の一生を持った彼女たちですら返し切れないものだ。
 また、お人好しの彼は他人を裏切らない。他人のために自身を投げ打てる彼は、信頼にたる人物だろう。
 シグナムたちが愛する主の伴侶として、ある2点を除けば彼ほど相応しい人物はいないのかもしれない。
 けれど、2点が大問題だった。

「それなら、こんな手荒な真似をしないで普通に話せばいいだろう」

 シグナムたちは八神はやてに仕える騎士である。はやては、プログラムでしかなかった彼女たちに優しさを注ぎ人間らしさを与えてくれた。
 温かな時間と、優しい気持ちと、楽しい生き方を教えてくれた。
 ヴォルケンリッターはみな、はやてを愛していた。
 はやてが主だからではない。はやてがヴォルケンリッターに惜しみない愛を注いでくれたから、彼女たちははやてためならば命も惜しくないほどに、彼女を大切に想うのだ。
 シグナムたちは、自ら望んで彼女のための騎士であり続ける。
 家族となった今でも変わらず。ヴォルケンリッターは主はやてを守る騎士なのだ。
 それだけは主に何と言われても譲る気のないことだった。

「すまない。だが、こうでもしないと用は果たせぬと思ってな」

 シグナムは首元にぶら下げているアクセサリーを握った。
 起動のための魔力を流し、心で願えば、それは半瞬後に剣となる。片刃の長剣だった。堅牢な造りの柄と持った西洋剣。
 ヴォルケンリッター“烈火の将”の愛剣、レヴァンティン。
 幾星霜の時を超え、共に数多の血煙を潜り抜けてきた、彼女の相棒。
 鞘から抜き放たれた刃は曇りなく澄み、まるで彼女の生き様を表すかのように鋭い。

「何のつもりだ、シグナム……?」

 シグナムは騎士だ。彼女が剣を抜いたのなら続く行動は1つしかない。それを理解していながらもクロノは問うた。
 返答は、構えた剣に添えられた一言だった。

「愚問です、執務官」

 クロノ・ハラオウンは不器用だ。恐らく、八神はやての好意に気づいてはいないだろう。
 ところで。
 クロノ・ハラオウンは不器用だが、彼の眼前にもう1人の不器用がいた。
 その名はシグナム。烈火の将。

「私の伝えたいことは全て、この剣を通して語ります。どうか、お付き合い願えませんでしょうか?」

 彼女には、腹に抱えた一物を語って彼の戦意を削がない自信がなかった。
 不躾ではあるが、これ以上の方法は取れない。

「この不条理な状況の説明が欲しいんだが……やれやれ、しょうがないな」

 呆れつつも、クロノは黒衣のポケットに収めている1枚のカードを取り出した。中心に蒼いコアを埋め込まれた薄いブルーのカードは、クロノにとってのレヴァンティン。
 長く共に戦ってきた相棒である。

「S2U、行くぞ」

 眩い光を放ち、カードはロッドへ変化する。質実剛健にして処理性能に優れたストレージデバイス“S2U”真の姿である。
 持ち主と揃いの黒に彩られたS2Uはクロノの意地の証だった。師に“魔法の才能が無い”と言われても諦めずに努力し続けた彼と共に歩み続け、ついには魔導師の杖と相成ったS2U。
 苦楽を共にし続けたS2Uこそが最もクロノを知っている。
 物言わぬストレージデバイスこそが彼の相棒。

「僕が勝ったら話を聞かせてもらうかなら。それと、シャマルはお仕置きだ」
「ええーっ!?」

 自業自得の悲鳴を上げるシャマルはさらりと無視。
 クロノとシグナムは互いの獲物を突きつけ、睨み合う。2人の間に、ちりちりとした焦げてしまいそうな緊張が走った。
 烈火の将と漆黒の魔導師。彼らの距離、僅かに駆け足5歩。
 近接戦を得意とするシグナムにとっては、既に間合いの中。
 中距離をメインにするクロノにとっては、近すぎる距離。
 だから、同時に跳ねた。
 必殺の太刀を放つべく、床を踏み砕く勢いでシグナムは前方に飛び出した。
 そして、シグナムに呼応するようにクロノも前へと飛び込んでいた。





「最初から賭けに出てくるなんて……もっと堅実な戦い方を好んでいると思っていました」

 訓練室の隅で大人しく勝負を観戦しているシャマルは、誰に聞かせるでもない呟きを零していた。
 彼女の翡翠色をした瞳には、高速で動く2つの人影が映っている。薄紅色の魔力光を纏った剣士がシグナムで、蒼色の尾を引く魔導師はクロノだ。
 瞬きの間に決着が着いてしまいそうな緊迫した勝負。先手を取ったのはクロノだった。
 接近戦を挑もうと前に突っ込んできたシグナムに合わせてクロノが飛び込み、カウンターの一撃を食らわせた。てっきりクロノが飛び退るものだと思い込んでいたシグナムには手痛い一撃となった。
 周到にも杖に魔力を通して打撃力を高めていたのだろう。シャマルの目にはっきりと、苦痛に口角を歪ませたシグナムの表情が映っていた。
 見事に奇襲に掛かったシグナムは、くの字になって突っ込んだのとは逆方向へとすっ飛んだ。クロノはすかさずS2Uをライフルのように構え、射撃魔法の発射態勢に入っていた。

「ブレイズ――――」

 シグナムとてやられっぱなしで終わりはしない。
 地面に剣を突き立て、後方へ飛ぼうとする運動エネルギーを強引に押し殺す。すさまじい衝撃が肺と剣の柄を握る腕に襲い掛かるが―――無視。
 地面についたばかりの両足を使って中空へ跳び上がる。もちろん、愛剣は手の中だ。


「――――カノン」

 シグナムの跳躍から半瞬遅れて灼熱の閃光が彼女の足下を通り過ぎた。熱波の通過を視認するよりも早く、シグナムは宙を蹴るようにして空を翔けた。
 クロノが態勢を立て直すより早く彼に剣撃を打ち込むべく、シグナムは最短最速一直線の突撃を敢行していた。

「予測済みだ」

 しかし、魔法発射後の硬直で動けないはずのクロノが、不敵な笑みを浮かべて口角をつり上げる。

「ああ――――私もだ」

 シグナムの軌道が変化した。
 直線から、山なりへと。まるで、彼女とクロノの間にある空間を避けるかのように。
 いや、彼女は空間を避けたのだ。
 指定空間に進入した者を捕らえる魔法“ディレイバインド”を避けたのだ。

「そうか、君には一度見せていたな、この戦い方を」

 突撃の勢いを殺さぬままクロノに刃を振るうシグナム。
 対するクロノは、軽い驚きと失策への叱咤に表情を歪ませ、後方へと飛び退る。直線よりも微かに遅い山なり軌道は彼が硬直を解いて行動する猶予を与えてしまったようだ。
 シグナムの刃が捉えた獲物は、僅かに前髪数本。

「……苦しいな」
「間合いを開けられれば、そのセリフは私の物となるでしょうね」

 もちろん、シグナムはクロノに距離を取らせてやる気は無い。彼を追撃すべく飛び込む。何とか離れようとするクロノに絶えず間合いを詰め続け、剣撃を打ち込み続けた。
 片手振り右からの太刀が受け流されれば左足で突くような蹴りを放ち、それすらも躱されれば強引に左拳を叩き込む。
 ベルカの騎士が魔力を込め、鋼鉄すら粉砕する破壊力を秘めた凶器と呼ぶべき拳は、しかしクロノが盾にしたS2Uによって阻まれた。
 シグナムの拳から受けた勢いを殺さず、むしろ利用して後方へと下がるクロノ。
 無理な体勢から放った拳はシグナムのバランスを崩し、立て直しに僅かながら時を要した。シグナムは、彼を追撃し切ることができなかった。

「……苦しいですね」
「そうか。僕の気持ちを分かってくれたか」
「ええ」

 2人の舞闘を、シャマルはただ見つめるばかりであった。











あとがき

 模擬戦をしよう! シリーズ。第二カードは個人戦闘の連続でございます。クロノ・ハラオウンを主人公に、第二カードにしてようやくタイトル『模擬戦をしよう!』らしくなった話をお届けし……ま……す……?

  不条理と理不尽編の裏サブタイトルを持つ今回。

 第一カードとはがらりと毛色を変えてお送りいたします。
 願わくば、この話を読まれた方々が楽しんでくださることを。ををを。

 それではっ! しばしの間、お付き合い願いますっ。



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