凄まじい勢いで押し込まれた大気が爆音に似た悲鳴を上げる。圧倒的な破壊力を誇る鬼の拳が起こしたものだった。
 触れたものをことごとく打ち砕く破壊の拳。
 しかし、拳は目標とした金髪の少女を捕らえることができなかった。惨めに空振り床を砕いて終わる。彼の拳は速かったが、彼が狙った少女はそれよりも疾かった。
 高速で動く少女の名はフェイト。彼女は雷光を纏ったスフィアを生み出し、鬼に向けて放つ。
 いくつもの小さな雷が鋼のような鬼の肌を打った。

「ヴィータ!」
「わーってるっての!」

 続けざまに紅の鉄騎が切り込んだ。雷に打たれて身動きが取れない鬼の腹筋に鉄槌を叩き込む。十分な態勢で振るわれたヴィータの一撃に鬼はくの字になってすっ飛んだ。
 無防備な鬼に肉薄する影がある。フェイトだ。

「バルディッシュ!」
《Plasma Lancer》

 フェイトは自身の周囲に8つのスフィアを浮かべた。円環状の発射装置を持った魔力弾はプラズマスフィア。高速直線射撃と停止してからの方向変換を行える優秀な攻撃魔法だった。
 紫電を纏った8つのスフィアが空に閃く。
 不可避のタイミングで放たれた魔力弾。
 しかし、鬼は特殊能力を持っていた。不可視の力だ。
 鬼が瞳に力を込めてひと睨みすると鬼の周囲が揺らぎ出した。恐らくは不可視の盾だ。

「ターン」

 不可視の盾に激突する直前。フェイトの魔力弾は弾かれたように周囲に散らばってしまった。
 鬼はその行為の意味を理解できない。
 不可視の盾を解除し、その力をフェイトに叩きつけるべく金髪の少女を睨んだ。

「はやて!」
《Stinger Ray》

 横合いから指示と同時に攻撃を行った少年によって顎を打つ一撃を受ける。鬼の首が自らの意思と関係のない方向に十数度傾いた。
 焦点がフェイトから逸れ、訓練室の天井が爆ぜた。

「ターン」

 そして、衝撃。散らばっていたスフィアがフェイトの合図を受けて鬼に急襲を掛けていた。8つの雷光が鬼の両肩と両足の付け根、肘と膝を撃ち抜く。
 筋肉を付け辛い関節部への攻撃だった。
 鬼が四肢に気だるさを覚える。フェイトの魔法に付与された電撃が鬼の感覚を麻痺させていた。

「りゃぁああああああああああっ!」

 この好機、逃すはずがない。
 限界まで引き絞られて解き放たれた矢を思わせる勢いで鬼に突撃するヴィータ。その軌道はフェイントを考えない一直線で、故に速い。
 鬼に、四肢を駆使しての迎撃は不可能だった。
 焦点を向かってくるヴィータに合わせて不可視の力を行使する鬼。だが、鉄槌を振り上げて猛然と切り込むヴィータに鬼の力を恐れる様子は無い。

「あたしもいること、忘れたらあかんよ!」

 クロノの指示を受けた瞬間から練り上げてあったはやての射撃魔法が炸裂した。鬼は再び顔面に攻撃を受け、首を思わぬ方向に巡らしてしまう。
 これでヴィータの突貫を阻む要素は消失した。

「GU……GYAAAAAAAAAAAAA!」

 脳という器官がある。
 生物の生命活動を司る柔らかなその器官は、脳を所持する全生物にとっての急所である。
 脳は、3つの役割を持っている。
 1つは、思考器官としての役割。考えるという行為は脳内で行われ、生物は考えによって行動の指針を立てる。
 1つは、生命維持器官としての役割。脳は心臓を始めとする身体の各部位に指令を送り、身体の維持を行う。
 1つは、制御器官としての役割。生物――特に人間――は普段から潜在能力ぎりぎりまで力を引き出すことをしない。限界に迫る行動は肉体に多大な負荷を与えて寿命を縮めてしまうのだ。だから脳は身体機能に制限を設ける。肉体を破壊しないために。
 脳を失えば生物は生存が不可能になり生命活動を停止する。
 ヴィータの狙いは頭部。脳が詰まった部位だった。

「―――“BloodHeat限定解除”―――」

 必勝のタイミングで振るわれたヴィータの鉄槌。鉄の槌は吸い込まれるように鬼の頭部を目指した。
 これで、勝てる。
 誰もが僅かばかりでも心に安堵を生まれた瞬間にそれは起こった。

「―――“OverBoost制限解放”―――」

 人語を解している様子が無かった鬼が言語を口にしていた。
 ただ言葉を喋っただけではない。それは呪文だった。
 強化魔法である。魔力によって脳が肉体に掛けたリミッターを解放すると同時に身体を魔力で強化する、単純だが強力な強化魔法。

「―――“LimtBreak限界突破”―――」

 訓練室にいる鬼以外の全員に嫌な汗が流れた。
 数瞬を経て、それは冷たい汗に変わった。
 ヴィータの鉄槌が空を打った。
 鬼は、必勝の一撃を回避してみせた。
 クロノが、駆け出した。

「な、なんでなん……」
「さっきの呪文だ。恐らくは肉体の制限を外す類のものだ」
「危険じゃないのそんな魔法!?」
「危険だな」

 喋りながら、クロノは前方に飛び込んだ。必勝の一撃を躱されて無防備になったヴィータを守るためである。
 間一髪でクロノがヴィータの前に立ち防御魔法を展開すると凄まじい鬼の一撃が魔力障壁に襲いかかった。

「常人なら、な!」

 苦悶の悲鳴を上げる代わりにそう叫んだクロノ。ヴィータを守れはしたものの拳の威力に押されて吹っ飛ばされてしまった。
 ヴィータを咄嗟に抱えていて、なんだか数分前の焼き直しに思える。
 無防備になったクロノとヴィータ。
 だが、鬼は彼らを追撃しようとはしなかった。

「そっか……鬼なんよね……」

 恐怖という感情がある。それは、心臓を鷲づかみにされるような感覚と形容されることがある。
 それに支配された人間は足が竦み、一歩も動けなくなってしまう。
 恐怖とは精神に対する強姦だ。恐れと怯えを無理矢理に捻じ込まれ、心を引き裂かれ、上げたくもない悲鳴を上げてしまう。
 もしも恐怖が形を持つのなら。

「鬼ってなんやねん……」

 八神はやてを獲物と見据えた鬼こそが、恐怖そのものではなかろうか。
 冷たい刃がはやての背筋を滑り落ちる。
 鬼は獰猛な歓喜を孕んだ瞳ではやてを眺め、太く鋭い――牙と呼ぶべき――犬歯を見せて哂った。

「こんなん勝てるん……?」

 襲い来る寒気に身を竦めたはやてがか細い声で呟いた時だった。鬼は愉悦に口元を醜く歪ませはやてに向かって歩を進めた。
 鬼にはある感情が浮かんでいた。それが彼の口元を歪め、周囲には恐怖を振りまいている。
 鬼が得た感情は“優越感”だった。生物として人間よりも遥かな上位に君臨する鬼という生命体は、根本的に人間に対して狩猟者なのだ。
 鬼は狩る者である。人間は狩られる者である。
 食物連鎖によって取り決められた事実が鬼に圧倒的な優越感をもたらしていた。

「嫌ぁ……来ないでぇ……」

 完全に恐怖に呑まれてしまったはやては、後退ろうとして足がもつれてしまった。びたんという間抜けな音を響かせて尻餅を衝いてしまう。
 足の裏と大臀部、それに掌で床に触れるととあることに気づいた。
 震動である。
 巨体に筋肉を詰め込んだ鬼は非常に重く、彼が歩を進める度に床が振動しているのである。まるで訓練室までもが恐怖に震えるよう、に。

「嫌やぁ……ッ!」

 絶叫と共に、一発の魔法を放った。
 雪に似た白さを持った魔力弾は確かに鬼の顔面に直撃するが、鬼の愉悦に満ちた笑みを消すことは不可能だった。
 今の彼に対して、どんな魔力ダメージも物理ダメージも微々たるものでしかない。
 鬼はまったく速度を緩めずにはやてへと迫り、そして彼女の目の前で歩を止める。
 巨躯の頂点に据えられた頭から彼女を見下ろし、ゆっくりと拳を振り上げる。
 この拳を振り下ろせば、はやては血飛沫を巻き上げながら肉塊と化すだろう。
 目も当てられない無残な姿になった自分がはやての脳裏に浮かんだ。恐ろしい想像は彼女の頬を怯えで引き攣らせた。

「ひゃぁ……ぅっ……」

 鬼の拳が振り下ろされる刹那。はやての頭はまったく場違いな光景を彼女に見せ始めた。
 最初は孤独だった日々を。続いて、家族を得た日々を。
 最後に、好きな男の子を見つめる日々を。
 死を目前にして生前の光景が流れる現象を走馬灯と呼ぶ。
 はやては正しく走馬灯を眺めていた。

「はやてぇっ!」

 誰かの叫び声が聞こえた。遅れて、破砕音が耳元で響く。それは自分に訪れた死の音だろうとはやては思った。
 鬼の拳に潰されて死んだはずなのに音が聞こえたということは、自分は即死ではなかったのだろうか。それなら激痛が走り死ぬまでの短い間に酷く痛い目を見そうである。
 目の前は真っ暗だ。何も分からない。

「はやて」

 ふと。優しい声色が恐怖に縮こまった耳を優しく撫でてくれた。聞き覚えのある声だ。
 走馬灯の最後に登場した人物の声だ。
 クロノ・ハラオウン。八神はやてが好きになった男の子の声だ。

「はやて」

 死ぬ時に意中の彼の声を聞いて逝けるなら、それはとても幸せなことではなかろうか。
 長く不幸を背負ってきた少女にとって、そんな些細なことが幸せになってしまう。
 けれど。

「目を開けてくれ、はやて」

 彼に言われて始めて気がついた。目の前が真っ暗だったのは自分が目を閉じていたせいだと。
 恐る恐る瞼を開く。すると、粉々に砕けた訓練室の床が目に入った。そこには血も肉片も見当たらない。
 不思議に思って首を上げると視界いっぱいに男の子の顔が広がった。
 クロノ・ハラオウンだ。

「なんで……?」

 はやては頬が熱くなるのを感じた。よくよく状況を把握すれば、自分はクロノの腕の中である。
 寸での所でクロノが助けてくれたのだろう。彼は、恐怖に怯えていたはやてを安心させるために苦手な笑顔を浮かべて言った。

「僕は王子様なんだろう?」

 キザったらしいセリフがずるいくらいに格好良かった。
 不器用な笑顔が自然なものだったら、きっと満点を振り切っていた。

「さて。君がいかに強かろうと負けてやるつもりは無いし、やられっぱなしでいるつもりもないんだ」

 クロノは視線を上げ、はやてを仕留め損なって悔しそうにしている鬼を睨んだ。
 右手に握ったS2Uを構え、鬼に向けて宣戦布告を行う。
 その姿はまるでおとぎ話だった。
 強大で凶悪なモンスターと相対する漆黒の王子様。
 おとぎ話でしかありえない構図だった。

「来い。僕が相手をしてやる」

 腕に抱いていたはやてを丁寧に床に下ろし、クロノは鬼を挑発した。
 鬼としては殺戮の邪魔をした少年を殺さない理由がない。喜んで挑発に乗り、逞しい四肢を駆使してクロノに飛びかかった。
 先ほどの恐怖を思い出してはやてが悲鳴を上げそうになる。
 しかし、はやての悲鳴は喉の先に飛び出ることはなかった。

「僕は負けないよ、はやて」

 クロノ・ハラオウンの不敵な笑みに魅せられてしまったから。





 戦いにおいて必ず捨てなければならないものがある。
 名刀の切れ味を鈍らせ最新鋭の兵器をがらくたにしてしまうそれの名は、慢心。
 慢心は技を鈍らせ行動を甘くさせる。
 優越感に浸った鬼が慢心し切ってすぐにはやてを殺さずたっぷりと恐怖を与えようとしたことが、結果としてかなりプラスに働いた。
 戦う準備を整えられたし、そもそも、鬼が持てる最高速ではやてを殺しに掛かっていたら助けることなんてできなかった。

「GYRRRRRRRRRRRRR!」

 身を屈し全身のバネを最大限に利用して鬼が跳ぶ。赤い影は全力で後退していたクロノにすぐさま追いつき、鉄塊をも砕く拳を力任せにぶつけてきた。
 盾にしたS2Uが悲鳴を上げる。防御魔法越しに攻撃を受けたというのに、拳圧が魔法を抜けてS2U、引いてはクロノまで届いた。年齢にしては小柄なクロノの身体は堪らず吹き飛ぶ。
 すかさず鬼は瞳の焦点をクロノに合わせ、力を込めて睨む。空間が歪み透明な牙がクロノを襲った。不可視の力だ。

「格好付けた手前、無様にやられるわけにはいかなくてね!」
《Blaze Cannon》

 吹き飛ばされているという不安定な態勢で放たれたクロノのBlazeCannon熱量放出系直射魔法が吼える。名前の通り蒼い“炎”を吐き出して、宙を翔る不可視の牙と咬み合った。
 僅かな停滞を経て熱線が弾け、空間の歪みが消失する。その間にクロノは空中でひらりと宙返りをして着地を決めており、鬼は再三の跳躍を行っていた。
 空中の鬼と地上のクロノ。両者の視線が交錯する。

「身体への魔力付与は―――」

 クロノの両足が蒼い光に包まれる。魔力による身体強化だ。鬼に動揺が現れる。クロノは空中から降下する鬼の拳と打ち合う構えを見せていた。
 世の中には重力が存在している。重力によって物体は常に下降する力を受けている。重力下において上から重力の助けを借りて襲撃する者の方が、重力に逆らって下からかち上げる者よりも何倍も有利なのだ。ましてや、体重と筋力に歴然の差があるクロノと鬼なら、鬼の方が圧倒的に有利である。それにも関わらず、クロノは鬼を下から迎え撃つ姿勢を見せていた。
 クロノの不可解な行動は鬼を警戒させ―――彼に、全力を引き出させる。引き絞っていた拳を更に引き絞らせ、自身を生意気に見上げる人間を圧殺する意思を決める。人間がどれほど魔力を振り絞ろうと鬼の全力に敵うはずがない。そう判断してのことだった。
 直接の打ち合いにおいてそれはどこまでも正しい。

「―――ベルカの技だ。僕には使いこなせない」

 その正しさが誤った判断を呼び込んだ。
 鬼が全力の構えを見せるとクロノはすぐさま魔力で強化した脚力を用いて横に飛び退った。
 強力な力を持つ故に鬼には粉砕以外の選択肢が浮かばず、クロノが逃げる可能性を考慮できなかった。
 慢心が産んだミスである。
 全ての力を粉砕に向けていた鬼には今から行動を変更する余裕は存在していなかった。

「君は、生物として僕たち人間を遥かに超越しているのだろう」

 床を殴った勢いで肘までもを訓練室に向けた鬼に、黒衣の執務官は静かに語りかける。
 知性と冷静さを感じさせる講釈のような声が鬼の神経を苛立たせた。
 人間に、思い知らせなければならない。

「君のような腕力も、不可視の力も、人間は持つことができない」

 人間とは脆弱な種族である。腕力は無く、脚力も無く、空は飛べず、水中で生活することもできない。
 硬い皮膚も無ければ超音波の発射や体内で毒物の精製を行うこともできない。
 人間とは特殊な力を持たない種族である。

「でも、人間にはたった1つだけ強力な武器があるんだ。いかに君が優れた生命体だろうとこの武器を駆使した人間には敵わない」

 人間が何を持っていると言うのか。いや、何も持っていない。
 優越種として鬼はそれを人間に思い知らせてやる義務がある。

「GUAAAAAAAAAAAA!」

 鬼が咆哮を上げた。厚かった胸板が更にぶ厚くなり、大樹の幹のように太かった腕も一回り以上巨大になる。逞しいふくらはぎなども盛り上がり、巨大だった鬼がより巨大に見える。
 威圧感が戦慄を起こし訓練室にいるクロノたちに冷たい風を送った。
 床に埋まった拳を引き抜くと、鬼はもう1度吼えた。

「GRYYYYYYYYYYYY!」

 大気をびりびりと震わせる咆哮が響く中、クロノ・ハラオウンは平然と立っていた。
 幾本もの蒼剣を周囲に浮遊させ冷めた目で己を主張する鬼を見ている。

《Stinger Blade》

 無数の蒼が閃いた。魔力で編まれた刃たちは主の命を受けて一斉に鬼へ飛来する。
 鬼が不可視の力で迎撃を試みるが、数が多すぎて落しきれなかった。迎撃網を潜り抜けた一本が鬼の目に突き刺さる。
 最初に到達した一本を皮切りにして剣が次々と鬼の目に突き刺さっていった。

《Blade Burst》

 赤く染まっていた鬼の視界が突如として白く弾ける。トリガーヴォイスによって刃が爆発してた。
 眼窩で起こった爆発は鬼の脳を揺らし、本人の意思と関係の無いところで彼を数歩後退らせた。
 既に視界は失われていた。

「――――――ッ!」

 鬼が、声にならない声を発した。己の矜持をずたずたにされた悔しさの絶叫であった。
 許すわけにはいかない。鬼として彼らを許すわけにはいかない。
 優越種としての誇りを傷つけられた鬼は、脳が掛けていた全ての掛け金を魔力を用いて躊躇わずに解放した。
 心臓が限界を超えて鼓動を行い、血管を食い破りそうなほど勢いよく血液が全身を駆け巡る。
 鬼は不可視の力の全力解放を行おうとしていた。
 眼球を通さない不可視の力の発動。力を向ける方向を指定できない全方位攻撃。
 破壊の嵐を巻き起こすつもりだった。

「ああ、そういえば―――」

 鬼の身体が膨れ上がる。限界まで身体が膨れ上がった時に不可視の嵐が解放される。そうすれば生意気な人間も仕留めそこなった人間も誰も彼もが死ぬはずだった。
 鬼は勝利を疑わず、眼球を失った顔で哂った。

「―――人間の武器の名前を教えていなかったな―――」

 勝利を確信する中で、人間の声がやけにはっきりと聞こえた。
 涼しい声だ。まるでこれから何気ない日常の一動作を行うように自然な声だ。
 既に視力を失った鬼が知ることはなかったが、この時のクロノ・ハラオウンは手振りで合図を送っていた。

「―――武器の名は知恵だ」

 衝撃が鬼を襲う。肉体的なものではない。精神的な驚愕が起こしたものだった。
 身を滅ぼすほどに滾っていた鬼の力が抜けていく。
 荒れ狂っていた血流はとたんに静かになり、暴れていた心臓は急に大人しくなり、膨れ上がっていた肉体がみるみるうちに萎んでいった。
 当然、不可視の力も霧散して消えてしまう。

「君の強化は魔力を用いたものらしかったからね」

 鬼は3色の鎖に絡め取られていた。クロノとフェイト、それにヴィータが協力して編んでいたストラルグルバインド――付与効果強制解除能力を持つ拘束魔法――だった。
 先ほど、クロノがすぐにはやてを助けなかった理由はここにある。念話でフェイトとヴィータを奮起させ、支持を送り、3人でストラグルバインドの準備をしていたのだ。
 魔導師3人分の魔力で編まれた拘束魔法は、いかな鬼とて逃れる術はない。

「フェイト、ヴィータ、バインドの維持を頼む」

 S2Uをしまい、新たにカードを取り出すクロノ。仕上げに入るつもりだった。
 蒼いコアを持った白銀のカードは一本の杖に変わる。鋭角的な意匠のヘッドを持った杖は最新鋭のストレージデバイス。
 その名は“氷結の杖デュランダル”。

「悠久なる凍土―――」

 デバイス内部の回路に魔力が走り、デュランダルに登録された最高のプログラムを呼び覚ます。
 デュランダルが氷結の杖と呼ばれる由縁となった魔法を発動させるために。

「―――凍てつく棺のうちにて―――」

 もう12年前になる闇の書事件。クロノが父を奪われた事件。事件は、多くの人に哀しみを悔悟を残した。
 クロノの父と親しくしていた父の上司ギル・グレアムも12年前に哀しんだ者の1人だった。
 デュランダルは彼が造らせたデバイスである。

「―――永遠の眠りを与えよ―――」

 次に生まれる闇の書の主を永久に氷結させて閉じ込めておくために造らせたデバイスである。
 しかし、デュランダルは目的とした用途には使われなかった。
 クロノ・ハラオウンが使わせなかった。

「(これは何かの皮肉なのかもしれないな。はやての一生を奪おうとしていた杖が彼女を守るために使われるなんて、できの悪い冗談でなければ皮肉だろう?)」

 魔法発動のプロセスを踏む最中、クロノははやてを盗み見た。彼女はまだ惚けていた。
 八神はやては魔法に関わらなければ普通の少女だ。つい最近まで地球の常識の中で暮らしてきていた少女だ。こういう突飛な事態に放心するのは無理もない。
 叶うことならこういう事態に慣れて欲しくないとも思う。
 個人的な感傷、だが。はやてには日常がよく似合うから。

「―――凍てつけ」
《Eternal Coffin》

 デュランダルから放たれた魔力が鬼の肌を舐めた。分子が震動を停止し熱が急激に失われていく。
 冷気はすぐに本体を侵食し、断末魔の悲鳴を上げる暇もなく鬼は芯まで凍り付いた。
 鬼の氷結を確認するとクロノはEternal Coffin極大氷結呪文を強制的に停止させる。元々広範囲を氷結させるために造られたこの魔法は放っておくと訓練室程度なら全て凍らせてしまうのだ。
 シャットダウンした魔法は魔力を暴走させ術者の体内で暴れ狂う。

「あ……クロノ君!」
「ああ、悪い……」

 余裕綽々のように見えて実は相当な無理をしていたクロノは、体内で暴れる魔力に打ち勝つことができずその場に崩れ落ちたのだった。
 はやての声がやけに近くから聞こえてきたような気がした。










 眼が覚めると、本局に設えられた自分の部屋にいた。
 寝ぼけて焦点の合わない目で見回してみると金色のアクセサリーを見つけた。

「……バルディッシュ?」

 自信無く問いかけたクロノの声に、それは微かに光って返答した。
 そうされてからたっぷり数秒。クロノ・ハラオウンは意識が無くなるまでのことを振り返っていた。寝ぼけた頭はそうでもしないと今を把握してくれないと思ったからである。
 思い返してみると散々な一日だった。
 昼時にシャマルとシグナムに拉致されたと思えば、簀巻きにされて訓練室に引っ張られていった。
 理由も分からぬままにシグナムと一騎打ちを行い、続けてヴィータと戦った。そういえば、紅の鉄騎に鉄槌を思い切り打ち込まれた腹部がしくしく痛む。

「それから……」

 衣服の上から痛む腹を摩りつつ、それから先のことを思い出してみる。
 はやてがやってきてフェイトもやってきた。
 困った状況になり、シャマルの口車に乗ってしまった。
 そこまで思い出すと結末まで思い出し、その後のことが気になった。

「バルディッシュ、あの鬼はどうした……?」

 氷結魔法の反動で昏倒してからのことが分からない。自分がここにいるということは悪いことにはなっていないと思いたいが……。
 心のどこかから襲い来る不安を払拭するため、クロノは義妹の相棒へ問うた。

《ご安心下さい、執務官。管理局の職員が回収していきました》

 バルディッシュの返答に胸を撫で下ろすクロノ。
 どうやら、難は去ったようだ。

「まったく……シャマルはお仕置き決定だな」

 どこからか悲鳴が聞こえた気がするが、無視する。

《ところで執務官、お話があります》
「……どうした?」

 普段から真面目だが、普段よりも真面目な声色になったバルディッシュ。もしかして、また新たな厄介事でも出現したのだろうか?
 そう思って、クロノも真面目な顔をして彼の言葉に耳を傾ける。

《……レイジングハートと仲直りするにはどうすればよいのでしょう》

 そういえばそんなこともあった。
 泣きそうな声だった。聞いたクロノも泣きそうになった。
 どう答えるべきか悩んでいると、クロノに念話が飛び込んできた。
 切羽詰っているのか、呼吸は荒げである。

「……どうした?」

 相手はザフィーラだった。

『アルフと仲直りするにはどうすればいいと思う……ッ!?』

 彼も泣きそうな声だった。
 クロノは、もう一度泣きそうになった。

「僕に乙女心は分からない……」

 目の前の友人と遠方の友人へ、呟くように返答をするクロノ。

《そうですか……》
『そうか……』

 男はだめだと、クロノは悟った。

「おーい、起きたかー?」

 悲壮感漂う部屋の中に、明るい声が飛び込んでくる。
 声の主は、まだ幼い少女。揺れる二本のお下げが愛らしい少女。

「ヴィータ」
「ん。無事そうだな。何か変わったことあったか、バルディッシュ?」
《No》
「そか」

 遠慮無くクロノの部屋へ踏み込んでくるヴィータ。
 彼女にクロノは質問をぶつけてみることにした。

「どうして君がここにいるんだ?」
「…………」

 その問いに、彼女は黙ってしまう。

「…………」

 クロノも二の句を継げなくなってしまい、2人の間に沈黙が訪れる。ついとヴィータに目線を合わせればそっぽを向かれ、視線を彼女から反らすと見つめられてしまう。
 噛み合えない状況がもどかしく、なんだかこそばゆくもあった。
 ヴィータの様子に照れが見えるからかもしれない。

「ヴィータ?」

 かと言って、クロノにはどうしたものかが分からない。
 女性や子供の扱いに慣れている男性とは対極に位置するクロノにはどう会話を切り出したものかすら分からなかった。
 結局、口火はヴィータが切ることになる。

「悪かったよ」

 クロノに非があるとすれば、ヴィータの謝罪に不思議そうな目で返してしまったことだろう。
 それは彼女の羞恥心を煽ってしまった。

「うがーっ!」

 眼差しへの返答は涙目の鉄拳だった。完璧な右に顎を刈り取られ意識がホワイトアウトした。父に、会ったような気がした。

『女の子を泣かせちゃダメだぞ』

 ……そうは言っても、なんで泣かれたのか分からなかった。





「……夢、か」

 目が覚めると、見知った天井だった。見間違うことなんてない、自分の部屋。
 しばらくは頭が回らずぼうっとしていたが、ふと時計を見れば昼時だった。そろそろ昼食の時間だ。

「こんな時間まで寝ているなんて、何をやっているんだ……」

 急いで仕事に戻るため身を起こそうとして、起きる前に扉が開かれた。
 シグナムとシャマルだ。

「執務官、話がある」
「クロノさ〜ん、ちょっとお付き合い願えますかー?」

 クロノに冷や汗が流れ落ちた。背中には氷刃も滑り落ちた。
 とても嫌な言葉が脳裏を過ぎる。
 ループ系夢オチという、最悪の想像が。

「何をしているのです。起き上がれないのですか?」

 いつまでも寝ているわけにはいかない。これから訪れる悲運を回避する術を模索しながらクロノは身を起こした。
 ずきり、と腹が痛んだ。

「へ?」

 そう言えば、顎も痛む気がする。慌てて鏡を見ると殴られた跡が見て取れた。

「ど、どういうことだ?」

 夢オチじゃなかったのか!?

「申し訳ありませんでした、執務官!」
「ごめんなさいっ!」

 現実の認識に時間を要して固まっているクロノに頭を下げる2人の騎士。
 彼女たちの姿に、意識を失う前に見たヴィータの謝罪が蘇る。
 また、とあることまで思い出した。

「…………」

 それは、訓練室での出来事。
 朦朧とした意識の中で質問されたことがあった。

『クロノ君、休めるところまで連れて行って欲しい?』

 フェイトを選んでもはやてを選んでも、2人は睨み合うと思った。
 だから自分は……。

「…………シグナム」
「何でしょうか?」

 申し訳なさそうにしゅんとしているシグナムが面を上げた。
 クロノは、現在の最優先事項を彼女へ問うた。

「はやてとフェイトはどこにいる?」

 嫌な予感がする。凄く嫌な予感がする。
 例えるなら、ユーノがリーゼロッテの目の前で無防備に眠っている時のような。
 絶対に何かがあるという悪寒が背筋を襲い続けている。

「は? お2人ならずっとそこにいますが……」

 シグナムはクロノの背後を指差した。

「――――」

 油の切れた機械のように鈍い音を発しながら首を後ろに巡らせるクロノ。
 数秒を要した作業の果てに、彼は金髪の鬼と栗髪の鬼を見た。

「クロノ君……クロノ君を殺してあたしも死ぬわ……。クロノ君を性犯罪者になんてさせられへんもん……」

 悲壮な覚悟を秘めた表情で包丁を構えるはやて。
 彼女の焦点はクロノに合っているようでいて、どこか外れている。

「クロノ……はやてを助けた時、お姫様ダッコだったよね? やっぱりクロノ、はやてのことが……」

 フェイトもフェイトで病んでいた。
 右手に握られた鋸と左手に握られた鉈が異様な存在感を発している。

「シグナム! シャマル!」

 助けを求めて振り向けば、そこには誰もいなかった。

 ―――逃げやがったっ。

「ザフィーラーァアアアアッ!?」

 頼りがいのある寡黙な友人に救援の念話を送る。

『ハラオウゥウウウンッ!?』
「だめかっ」

 瞬時に彼は使えないと判断。

「バルディィイイッシュウゥッ!」

 もう1人の友の名を呼ぶ。

『執務官ぅううううううっ!?』
「こっちもだめかっ」

 もう男は頼らないことに決めた。

「エイミィッ!」

 長年の相棒へと念話を送る。彼女ならばきっと……ッ!

『クリスタル……バインドォオオオオオオッ!』
「何をやっているんだ君は……ッ!?」

 あまり聞きたくなかった。

「ふふふ……クロノ君……あはは……クロノ君……」

 ひたりひたりとにじり寄ってくるはやて。

「ねえ、クロノ。永遠ってあるよね? 私もクロノも止まっちゃえば―――死んじゃえば、永遠だよね?」

 まるでプレシアのように壊れた笑みを浮かべて、あまり聞きたくないセリフを発しているフェイト。

『――― このロリコン執務官! ―――』
「う……うわぁああああああああああっ!?」

 その夜。クロノ・ハラオウンの部屋から絶叫が絶えることは無かった。

「ばーか」

 彼の部屋の前に座りこんだ、お下げを垂らした赤髪の少女がいたとかいなかったとかいう話は、余談なので余談だから余談です。










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