キャロは、朝日差し込む訓練場を散歩していた。早朝の空気は冷たく身を切るようだった。 今日は、訓練は休みだ。 エリオとフェイトの対決は今日の午後一番に行なわれる。それを思うと今から胸が痛くなった。きっと、この胸の痛みはエリオが負けなければ―――いいや、彼が負けたとしても消えることはないだろう。 気づいてしまった日からずっと、胸を裂くような思いが自らを苛み続けている。 溜め息を零すことすらできない。気が緩めば涙を堰き止めていたものが決壊してしまいそうだった。この 「休みの日もいつも早起きなのかな?」 「普段はもう少し遅く起きます」 耳に飛び込んで朗らかな声は、なのはだ。彼女はキャロに気楽に挨拶を済ませると自然に隣を歩き始めた。今にも泣き出しそうなキャロの頭に手を置き、優しく撫でてくれる。それはまるで母のように、あるいは姉のように。 キャロは、その柔らかな手つきに慈しみを感じた。 「えっと、ごめんなさい」 なのはの手から逃げるように距離を取る。今、そうされてしまうと本当に泣いてしまいそうだった。 小さな身を折り謝罪した。なのはは気にした様子もなく手を引くと顔を上げるよう言った。 キャロは面を上げながら躊躇いを表情に浮かべて―――後ろから肩を叩かれ、びくりと身を震わせた。 「そ、そんなに驚かなくたっていーじゃねーかよ」 ヴィータだ。多少おどろかせてやろうという気持ちはあったが、キャロが予想以上に驚いてしまったため彼女の方が困惑していた。 キャロは振り返るとこれまた頭を下げる。 しばらくして面を上げると、今度は横から肩を叩かれた。 「……はぁ」 「ちょっと待て、何故私だと嘆息するんだ!?」 「バリエーションが必要かな、と思いまして」 「にゃはははは! なんだ、意外と余裕あるんだね」 全力で笑うなのはに苦い顔を向ける新たな人物は、シグナムだ。彼女は額に手を当てるとやや顔を赤くしながら口を開いた。 この場にシグナム――と、ヴィータ。それになのは――がいることは偶然ではない。 キャロの姿を見かけて集まってきたのだ。 「実際にお前が思い描いた通りになったわけだが、どうなんだ?」 エリオとフェイトが戦うことになり、またエリオにはフェイトに対抗するためのいくつかの手段があり、フェイトはエリオの認識を改めるべく悩んでいる。それは、 なのは、ヴィータ、シグナムの三人はそれを現実の物にすべく手を貸した。あまり我がままを言わないキャロに頼み込まれてしまい、人情が手伝って協力せざるを得なかった、とも言う。 キャロが三人に頼んだ内容は、こうだ。 ―――エリオ君とフェイトさんが幸せになれるよう手を貸して欲しいんです。 なのは達はキャロがその時に浮かべていたあんまりにも悲痛な表情を一時足りとも忘れていない。何があったか訊ねてもキャロは口を割ろうとしなかった。ただ懇願だけがなされ、三人は折れた。 キャロが言うには最終的にエリオとフェイトが恋仲になればいいらしい。それが幸せだと言う。 なのは達にはそれが 「 なのは達はあえてキャロを説得することは無かった。と言うよりもできなかった。彼女の意思は固く、三人がかりだろうと切り崩せはしなかった。 結果――それぞれ思惑を含みつつ――キャロに協力した。 そして今、それはキャロが望んだ版図の通りになろうとしている。 「…………」 シグナムの問いに答えず、キャロは押し黙った。意図して答えないのか、答えられないのか、それは当人以外が知る由は無い。 キャロの表情から答えを探ろうとするが、読み切れない。彼女がこの三週間浮かべていた悲痛から全てが本心に従って行動しているわけがないと、それだけは理解できるが。中核が見えない。 何を思ってキャロは好いた少年の恋路を――無理にでも――成就させようとしているのだろうか。 「本当に、」 キャロが口を開いた。彼女からは表情が消え、まるで人形のような面をしていた。表情を取り繕うことが無くなった分、声に感情が映った。 「 その声は 恐らく彼女は心を殺そうとしたのだろう。そして、本当に殺してしまえたのだろう。 中身が詰まっているはずの彼女の瞳は、しかしがらんどうにしか見えなかった。 あるいは、悲痛な面持ちはまだ人間らしく見せるための演技だったのかもしれないと思えるほどに、そこには何も無かった。 「本当が、真実が、何の意味を持ちますか? 現実を形作るものはただただ表に出ているものだけで、隠されれば全ては無価値です」 誰も違うと言えなかった。 反論した瞬間に彼女がひび割れ、砕けてしまいそうだったから。発する言葉の吟味を行なう時間が必要だった。 「……そして、無価値のままで問題が無いならそれでいいじゃないですか」 まるで自分に言い聞かせるような言葉だ。それにだけは付け入る隙を感じられたが、、突いてしまって彼女が崩れないとも限らない。 言葉を弄して複雑に見せているが、彼女の言い分は単純な問題に帰結される。 それ即ち、 ―――秘めた恋心は、そのまま胸の奥にしまっておけばいい。 少なくとも、エリオにその想いを伝える気はまったく無いようだ。キャロは、硬く、 本心をひたかくし自らは身を引く。まるで 彼女は決して悲劇に酔っているわけではない。けれど、ただただ頑なだった。 「……エリオのこと、好きなんだよな?」 悩んだ末に問いたのはヴィータだ。その確認するような言葉にキャロはしっかりと頷く。 その瞳には何の色も――努めて――映そうとしていなかった。 「エリオ君のことが好きです。でも、エリオ君を追いかければ追いかけるほど目線がフェイトさんに向いてるって分かっちゃうんですよ。それにJS事件が終わってからは、フェイトさんがエリオ君を見る目だって今までのものとは変わっていました」 キャロは聡明だった。それこそフルバックとして戦術分析、隊の一員として戦略分析を行なえるほど、知恵があったし目も広かった。何のことはなく、彼女がフルバックであったからなのは達がそうなるよう育てた。 いつのまにか、少女は聡くなりすぎていた。 「気づいていないだけで両想いなんだと思うんです。だったら立ち入れませんよ。だって、私はエリオ君が好きで―――フェイトさんだって、大好きなんです」 それこそが彼女の心を縛る鎖の正体なのだろう。憎しみでもなく、悔悟でもなく、愛情が恋心を縛り上げていた。 彼女の分析がまったく真実であるとは、もちろん限らない。だが彼女の世界から見ればそれは紛れも無く真実であったし、行動指針の基準だった。 頑なに自分の世界の真実を信じている。それはとても脆くて撫でただけで瓦解してしまいそうな砂上の楼閣だった。 ―――そしてまた、彼女が抱くエリオとフェイトへの愛は紛れも無く本物である。 他人が口出しして何かが変わる問題ではなかった。 手段が無い。あまりの無力にシグナムが、ヴィータが、肩を落とした。 キャロも手を貸してくれた彼女達に対して無礼なことをしているとは重々承知しているようで謝罪の言葉を告げながら頭を下げている。 誰もが沈痛な面持ちを浮かべた。 ―――だが、なのはだけが、その腹の内で意地の悪い笑みを浮かべていた。 それは愉快さの欠片も無いもので、言わば蛇に例えられる老獪な笑みだった。 さて。誰もが知らなかった事実がある。 なのはは、 幻術魔法を掛けた上で岩場の陰か森の木々の裏手にでも隠れているのだろう。 そう。 なのはは、エリオに一部始終を聞かせていたのだった。 |